第26話 元日のゴルフ
年が明けて、清治はホームで三度目の正月を迎えた。
元日は毎年午前十時から大ホールで新年祝賀会が開催されることになっている。服装規定などないのに参加者は皆正装だった。会の冒頭で支配人の森山から、「今年も健やかに過ごされますようお祈り申し上げます」とお決まりの挨拶があり、おとそで乾杯をする。続いて知り合いの入居者同士で新年の挨拶が交わされる。
中庭で記念写真を撮って解散という短いスケジュールだが、この祝賀会に参加しないと新年が始まらないと言う入居者も多い。清治は初回だけ参加したが翌年からは遠慮した。挨拶をするだけの入居者に、いちいち今年もよろしくと頭を下げるのが億劫だった。
三が日はレストランでお雑煮やおせち料理が振る舞われる。仲間のいる人たちは、酒を酌み交わしながらゆっくりと時間をかけて豪華な料理をつつき、楽しそうに正月を過ごす。
その一方で、清治は心を許せる相手がなく、普段通り一人で下を向いて食べた。陽気に盛り上がった笑い声の中で飲む一人酒ほど侘しいものはない。酒は部屋で飲むことにして食事が済むとそそくさと席を立った。
適当な時間に郵便受けから年賀状を取り出して、部屋に持ち帰った。目をかけてやったと自負する部下に限って、退職を境に届かない。単に疎ましい上司でしかなかったことの証だ。ホームに招待した連中は、あらかたが印刷しただけの味気ないものを送ってきた。
見直したくなったものは一枚だけだった。同期の相田正樹の年賀状には毎年手書きで近況を書き加えてある。どうやら最近は、持病の腰痛で外出もままならないらしい。締めは、「今年もお互い頑張ろう」の定型句だ。清治は自分の年で何を頑張れば良いのか分からなかったが、気持ちは嬉しかった。
読み終わって、午後から日本酒の熱燗を飲んだ。火照った顔を冷やそうとベランダに出た。よく晴れていて、寒いというより肌を刺す冷風が心地良かった。このまま飛び降りたら楽になるだろうか。酒のせいか、乱暴な考えが一瞬よぎった。
眼下のフェアウェイは茶色のままだった。現役時代は各地の名門ゴルフ場へ行ってプレイしたことを思い出した。当時は接待をするのもされるのも気疲れした。朝は夜明け前に目覚ましで起きて、多喜子の作ったおにぎりとみそ汁をあわただしく口に入れた。帰宅するとグッタリして、夕食後は妻子との他愛のない会話が煩わしく、すぐにベッドに入った。
燗酒がきいて血の巡りが良くなったからか、気楽で楽しかったラウンドが脳裏に浮かんだ。たまに相手のメンバーの中に大学の後輩がいて、先輩、先輩と持ち上げられてのプレイは、接待と分かっていても悪い気はしなかった。彼も日ごろのストレスが相当溜まっていたのだろう。大学の先輩と一緒にいるだけで心が満たされるとでも言うように、親し気に話しかけてきた。
そういう日は肩の力が抜けて、お互いにナイスショットを連発した。辛くて苦しいばかりのゴルフの記憶にかすかな光が差した気がした。
元日のゴルフ場は見た限りでは営業していなかった。急に思い立った。そうだ、あそこを歩いてみよう。ホームの敷地からフェアウェイに出られるけもの道があると聞いたことがある。
体裁を整えるのも面倒くさく、普段着の上に釣り用の軽いジャンパーを羽織って、ファスナーを半分閉めた。散歩ならこの程度の防寒で構わないよな。独りでぶつぶつ言って運動靴を履いた。
いつもはカウンターに職員がいるのに、正月で出勤者が少ないせいか不在だった。素通りして自動ドアから外に出た。風は九階のベランダほどでもないが空気が冷たかった。
けもの道は意外と簡単に見つかり、フェアウェイに出るまでそれほどかからなかった。そこからグリーンを目指してゆっくり歩き始めた。プレイヤーが誰もいない静まり返ったゴルフ場を独り占めしている。
冬枯れの芝とはいえ、フカフカして気持ちが良かった。ただ、両サイドは険しい斜面になっていて、そこを歩くのは危険だと感じた。グリーン中央まで三十ヤードの地点から、サンドウェッジでアプローチショットを打つ真似をした。ゴルフバッグから英国製のパターを取り出してグリーンに向かう。
ガードバンカーの横を抜け、グリーンの端っこに立って一面を眺めた。青々として、見るからに高速のベントグリーンだった。無意識のうちに前傾し、パッティングの構えをしていた。八メートルの上りのスライスラインをしっかり打った。
かつて、滅多になかったがバーディパットを決めたこともある。その時のガッツポーズを再現した。満面の笑みをたたえて仮想の同伴者に手を上げた。
ホールアウトして次のホールへ向かう。途中の茶店でトイレを借りようとしたが入口の鍵がかかっていた。十五番ホールは、三百八十五ヤード、パーフォー。レイアウトを見てピンときた。時々ベランダから見下ろしていたホールだった。思った通り、林の向こうにグランドライフビューの建物が品よく建っていた。
思い切り体を捻ってティーショトを打った。芯を食ったボールが雲に吸い込まれていく。いつもの途中から大きく曲がるスライスが、見事なパワーフェードに変身だ。
「ナイスショット」
同窓の後輩の歓声が耳の奥で聞こえた。スカッとした。
十六番は池越えのショートホール。もう少し回りたかったが、この先のホールからはクラブハウスが近づいてくる。巡回の警備員に見つかるかもしれない。いくら営業していないからといって、無断侵入という罪悪感が胸をよぎった。ここらで踵を返すことにして後ろを振り返ると、帰り道が遠く感じた。
フェアウェイを半分戻って左の林を突っ切れば、最初に入ってきたホールへの近道になると思った。そのホールはさっき通ったばかりなのに、両サイドは険しい斜面であることを覚えていなかった。
平らな場所を選んで足を踏み入れた。林の中は外よりもかなりひんやりした。杉やヒノキが生い茂って昼間でも足下が暗い。所々に白や黄色、ピンクのボールが浮いて見えた。よくこんな奥まで打ち込んだものだ。人のことを言える腕前ではないのに偉そうにつぶやいた。
落ち葉を踏みしめて進み、前方に見える二本の太い木の間を出口と決めた。抜け出た場所は勾配が急でたじろいだ。スパイクの付いていない運動靴では心もとない。前かがみのカニ歩きでちょっとずつ下って行く。
頭の先にあった枝を避けようとして体を反らした瞬間、うかつにも足を滑らせた。「うわあっ」と声を出すと同時に後ろ向きに倒れ、木の根っこに体をぶつけながら、急斜面を五回転して止まった。
仰向けに倒れたまま動けない。体中が痺れて力が入らない。背中からじわじわと全身に冷たさが伝わってくる。助けを呼ぼうとやっとのことでスマホを取り出した。画面がひどく割れて壊れている。意識はあるが打つ手がない。そのまま小一時間が過ぎた。
見上げた空には、追い求めた栄光よりも苦難の日々が浮かんだ。ひょっとすると、神様が最後の最後に自分へのご褒美として、苦痛だった接待ゴルフを楽しいゴルフに塗り替えてくれたのだろうか。大きく吐いた息が白い煙となった。
次第にまぶたが重たくなってきた。頭の中が硬直していくのを感じる。
「あけましておめでとう。……おとそ気分は昨日までだ。今年も全社員一丸となって邁進するのみである。……やる気のない者は、今すぐこの場から去れ!」
勢ぞろいした社員を前にして、社長として勇ましく新年挨拶をする自分の姿がぼんやり浮かんで消えた。
尿意を催して再び目を開けると、西の空が黄土色に盛り上がっていた。寝たままズボンのファスナーを下ろそうとして、間に合わず失禁した。下腹部に生温かさが広がっていく。
あー。思わず涙が出た。
三羽のカラスが鳴いてはるか頭上を飛んで行った。そのあとを追って何羽も通り過ぎる。きっと、安らぎの巣に帰って行くのだろう。
いったん落ち始めた日が沈むのは早い。空は神々しさを増してきた。
このまま体温が下がって死を迎えるのを覚悟したところへ、グランドライフビューの屋上看板が赤く光った。
「やっぱりホームに帰りたい。こんな最期じゃ嫌だ。多喜子、頼む、助けてくれ」




