第25話 そば処たしろ再訪(寂しい老後)
ご隠居が田代の方に手を上げた。
「栄ちゃん、岡谷さんにもう一杯出してやってくれ。俺のおごりだ」
清治が遠慮する間もなく、三杯目のコップ酒が手元に置かれた。ご隠居は都市銀行の元幹部にご馳走できてご満悦だった。
そういうときは、しつこい質問攻めをして相手を困らせたりしないものだ。
「岡谷さん、すまないねえ。もうお分かりだろうけど、このグループの会話はいっつもこうなんだ。あることが話題に上がっても話の腰を折る人ばっかりで、何もまとまりやしない。ワイワイやっているうちに時間になって、じゃあまた明日、ってなことだ。かえってそれがいいのかもしれないなあ。当たり前のようにここに集まって来るんだから。さあ、あんまり旨くない酒だけど、一杯どうぞ」
実に旨くない酒だった。しかも日本酒はこれ一種類しかない。
清治は、三杯目は芋焼酎の水割りに変えようとしていたところだった。銀行の管理職に就いてからは、人のポケットマネーで酒をご馳走になった覚えはない。せっかくなので酒の味はともかくとして、気持ちをいただくことにした。
あとのことは考えず、ご隠居に頭を下げて三口でガリガリ飲み干した。
「それで、岡ちゃん、サンちゃんのどこがそんなに羨ましいんだい?」
田代が話を戻して訊いてきた。無色の液体が胃袋に広がると、再び酔いが回ってタガが緩んだ。
「ああ、そのことなんですよ。私が最初に言いたかったのは。ウイッ」
やっぱり釣りの師匠が一番自分を分かってくれる人に思えた。
「サンちゃんは、たくさんの人に慕われて老後を生きてきたんでしょ?葬式の日に大勢の人が集まってくれたと聞いて、羨ましかったんです。俺の場合、慕ってくれる人なんて一人もいないし、葬式だって、だーれも来やしませんよ。こんなに頑張って働いてきたのにさ。でも、分かってるんです。私が悪かったんです。自業自得なんです」
黙って聞いていた最長老の小西が苦笑して口を挟んだ。
「なあ、岡谷さん、俺たちでよければ喜んで葬式に参列させてもらうさ。だけどなあ、あんたは俺より一回り以上も若いだろ?他のみんなもほとんどあんたより年上だ。どう考えたって、俺たちのほうが先だと思うんだよなあ」
そりゃそうだと皆が手を叩いて笑った。清治も釣られて笑った。酔って愚痴っぽくなっているのはおぼろげに自覚していた。田代に水を一杯頼んでゴクゴク飲んだ。酒より旨かった。
そこへ、穏やかな顔立ちの内田さんがくっきりと蘇った。たくさんの教え子に囲まれて口元が綻んでいる。かつては、認知症の人なんかと比べてどうするのだ、と鼻にもかけなかった人だ。
だが、こうしてサンちゃんのことを考えていると、内田さんがいかに人間味のある人生を送ってきたのかがよく分かった。自分の出番など、どこにもない生きざまだ。降参。
「俺は、この年になって初めてなんです。自分の寂しさゆえに人のことが羨ましくなったのは。ヒック。人は所詮、目に見えない優越感だけで生きていくなんて、できやしないんですよ。ここの人たちは心を許せるいい人たちばかりで、もっと早くこういう、ふにゃふにゃふにゃ……」
最後は誰にも聞き取れなかった。
清治は鴨居に飾られた写真を指さし、田代にうつろな視線を送ると、テーブルに突っ伏して寝てしまった。顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
田代は、清治が太刀魚を釣って、喜びに溢れていた日のことを思い浮かべた。
「岡ちゃん、老後って、良くも悪くも過去に縛られず、自分自身が本当に好きなことをして過ごせる時間だろう。長い人生でもこんなに自由な時はそうあるもんじゃない。
今はお互い、人生の夕暮れ時だ。釣りで言うなら、日が落ちる前後の魚の活性が上がる夕まずめ。一番いい時間なんだ。このゴールデンタイムを楽しく生きようよ。もっと肩の力を抜いてさあ」
清治の耳元でささやきながら、田代も嗚咽をこらえるように泣いていた。
濡れた頬をごまかすように店の奥で顔を洗い、厨房の冷蔵庫から大皿を取り出して来た。
「サンちゃんの大好物だったクロダイの刺身だよ。さあさあ、今日は故人を供養すると思って食べてくれ」
「おっ、身がよく締まって、うまそうだ」
取り分け係の大介が小皿を用意した。
「昨日、岡ちゃんが釣ったんだぜ」
「そりゃ凄いな」
「いただくよ」
彼らは眠り込んでいる清治に声をかけて箸をつけた。眉毛の薄い得ちゃんは、「さっきはごめんな」と謝って口に入れた。
清治が「そば処たしろ」の暖簾をくぐったのは、その日が最後になった。




