79 清西陵 3
秦始皇の魂魄が舞い降りた。
「汝、些末に拘泥すべからじ。魂魄にあらず、霊魂なるを思慮すべし」
その霊魂の声に怒りや憎しみ、侮蔑や冷笑の含みはなかった。辺りを威圧する気に溢れたものだった。
「汝は霊魂なり。我ら魂魄の声のみ聴くべし」
秦始皇の霊魂の声は、周りを睥睨するのではなく、全てを達観した響きを漂わせていた。
「世宗憲皇帝陛下。我ら、魂魄の声が聞こえたからこそ、陛下の霊魂は気迷い逡巡し、望む術のない世界を見ようとした訳です。それは詮無き事です。陛下の霊魂は魄と決別したのです。これは受け入れなければなりません。受け入れられず迷妄すれば、霊魂すら天に昇れず、地に束縛されるでしょう」
楊鬼山は雍正帝に霊魂の安寧を諭した。霊魂と魂魄の違いに妬みや嫉みがあったのだろう。如何に仙人の境涯になったとしても、成仏した訳でもなく、覚者になった訳でもなく、ましてや智慧を得た訳でもないのだ。真理を会得した阿羅漢を望む事は無理なのだ。進む道が根本から違う事に気づけと伝えたのだ、楊と秦始皇の魂魄は。
雍正帝の霊魂は沈黙した。何も反発する事なく、静かに留まった状態にあった。仙境の世界では、実体のない魂と魄も実体として存在が許される世界である。しかしそれは無明によって存在するもの、仮体であり、無常なものである。我によって存在すると言っても良い。雍正帝の霊魂は、彼等からすれば一つ下のレベルにあるものだからこそ、その状態を示したのだが、それが余りに隔絶した状態であった為、魂が受け入れられなかったのだろう。道教の至高にもなると、仏教で言う涅槃に入る状況に位置する魂魄も存在するのだ。
二人の魂の状況には到底達する事の出来ない己のそれを知り、絶望の淵を覗いたのかも知れない。これは楊にすれば、好都合であった。秦始皇の圧倒的パワーによって雍正帝を制しようと目論んでいたが、彼の力を借りる迄もない。神仙レベルを示す事によって楊の構想は達成出来たのだ。
長い楊の法要は続く。穏やかな日の光の中、掌儀司の崔道光理事官、宗人府の曹強力理事官、同内書堂の丁英泰学長と廃青は楊の法要を眺めていたが、廃青と丁学長だけは言い知れぬ不安が心に満ち満ちていた。最初は丁学長の心のざわめきから始まり、廃青の違和感がプラスされ、二人の言い知れぬ脅威に怯える様は、未だ他者には伝わっていない。
風も凪いでおり、供物や香油の燃える白煙は真っ直ぐ天に昇っている。焦げた匂いはそれ程広がらず、木酢の香りが若干する程度だ。
「世宗憲皇帝陛下。我らは陛下が安住の地、蓬莱山から飛び去り、現世に来る事を望んではいません。大清帝国第12代皇帝陛下や摂政王、醇親王載灃殿下も陛下の子孫ではございますが、既に民心の心は離れております。愛新覚羅氏が祖先の地、満州に無事戻れるよう、我々は願っておりますので、どうか子孫の願いに心動かされる事のないよう、願います。生者の世迷言に心傾けましたならば、必ず仙力の衰退を見るでしょう。生涯を賭して得た境涯も、幻となるやも知れません。今後は蓬莱山から離れる事なく、仙境に游行願います」
「・・・」
雍正帝の霊魂の声は、聞こえなかった。楊は気を充満させて天界、仙界を見回した。彼の魂は既に蓬莱山に戻っている処だった。秦始皇の眷属、海神が水先案内人となり東海を進み、雍正帝の霊魂を導いている。心なしか進むスピードが遅いのは、矢張り現世に未練があったと言う事になろうか。
暫く彼は東海を進む二者と、その先にある蓬莱山を見た。そこには雍正帝の霊魂を待つ、安期生が見えるではないか。楊は直ぐに理解した。安期生は始皇帝を蓬莱山に一度招待した事があったが、それが果たされる事はなかった。莫大な財宝を下賜された事に何の価値も見出さなかった彼が、その穴埋めと言っては語弊があるが、始皇帝の眷属と清朝皇帝を待っている訳だ。恐らく、秦始皇の手配であろうか。楊はそれを確認しようとは思わなかった。それは真人政の配慮に気付かない、無粋な行為になってしまうのを知っていたからだ。
雍正帝と海神は安期生の待つ蓬莱山の浜に着き、盛大な歓待を受けた。多数の若い男女が歓迎している。その光景が楊の眼前に広がっている様を秦始皇も見ていた。そして、何等かの光景が眼前に広がっているのを廃青は気配で察した。しかし、彼は観想でそれを実体化する事は出来なかった。唯、漠然と霧が掛かった状態が広がる様を見ているに等しい。それでも貴賓席の誰しもが気付かない世界を覗いているのは廃青だけであった。丁学長は違和感を抱いているが、それが何に由来するのか理解出来なかったので廃青に尋ねたが、彼も学長に己の感じたものを伝える事は出来なかった。実体のない霧状の空間しか見えないのだから。
からりと晴れた空の下、霧状の靄や陽炎、霞など何処にも見えない。それをどう説明すれば良いのだ。廃青は言葉にしない事にした。どう表現しようとも、理解出来ない状態にある空間が存在するのだ。観想で実体化した仏界でもない、まして地獄界でもない。では何界であろうか? 彼には説明出来ない。であるならば、表現出来ない世界を伝える事は不可能であるから、何もしない。そう考え、廃青は学長に何も伝えなかった。
日は燦燦と輝き、清西陵の木々は青々と茂っている。風が少しでも吹けば、多量の花粉が流れるだろうが、それもない。かと言って、空気が淀んでいるのでもない。まことに清々しい世界がそこにあった。
「秦始皇帝陛下、真人政。如何しようか」
「先達の意のまゝに」
楊の言葉に、秦始皇は素っ気なかった。「己の仕事は終わったのだから、後はお前が好きにしろ」とでも言うように。
どうすべきか、楊は悩んだ。丁学長は雍正帝の霊魂と秦始皇の魂魄を降臨させ、亡者と生者の軍隊を確立するよう摂政王から求められており、それを楊に依頼したから。それが出来るのは彼しかいないと、摂政王に進言した丁にしてみれば、目に見えない軍隊など、何の役に立つのか。観念を実体化させなければ、西欧列強の軍を駆逐する事など絵空事だ。
様々なシミュレーションを試々看して、楊はある試みを為そうとした。そして、その考えを秦始皇に伝えた。




