9.不出来
翌朝もオーレリアは食事をとらなかった。
昨晩の夢見も悪くて食欲がないのも確かだが、何かしでかして、村長夫妻からあの失意と嫌悪の混ざった目をまた向けられるのも嫌だった。
「オーレリアさま、大丈夫ですか、どこか具合が……」
「疲れているだけです。一食二食抜いても死にません」
「食いしんぼなのに」
「人聞きの悪いことを言わないでちょうだい」
当たっているけれど、とミーナを睨めば、彼女は目を泳がせた。あまりの正直さに、怒る気がなくなる。おなかは空いたままだったが。
「じゃあ、ご気分が悪くなったら仰ってくださいね。お腹がすいていると、馬車に酔いやすくなるって聞きました。私、朝出されたパン、こっそり残して持ってきたんです」
「……私は平気です。あなたこそちゃんと食事をとりなさい」
(こんないい子なのに、私なんかの供をする羽目になって……って、違うか、いい子だからこんな貧乏くじを引かされたんだ……)
かわいそうになってきて、思わず頭に手を伸ばす。
青みがかった黒色のふわふわした髪に触れた瞬間、我に返って、『しまった』と思ったけれど、目を見開いたミーナが照れたように笑ったことで、逆にほっとさせられた。
蝶番の軋みを背に村長の家を出、あまりの空気の冷たさに身震いする。
晩秋の日は短い。まだ日が上がっていないせいで辺りは薄暗く、朝もやが濃く残っていて、世界は白と黒の濃淡で占められていた。木々の間から魔物でも出てきそうな気がする。
「オーレリアさま、少しお時間を賜りたく存じます」
ミーナと共に馬車に乗り込もうとしていたオーレリアは、カードネルに呼び止められた。目の下にはくまがあり、心無し疲れているように見える。
(旅慣れているような顔をしていたけど、自分だってまともに寝られなかったんじゃない)
いくら経験済みといっても、公爵家の生まれだ。彼にとってもあの家は安らげるものではなかったのだろう。
オーレリアの白眼視を無視して、彼は横のミーナへと視線を向ける。
「ミーナ、淑女たるあなたにこんなことをお願いするのは心苦しいのだが、しばらくレッソンの馬に同乗してもらえないだろうか。私はオーレリア殿下と話がある」
「しゅ、しゅしゅ淑女? って、わ、私ですか? いやいやいや、色々もったいなさすぎです、大丈夫です、私、一人で馬にも乗れますから……!」
真っ赤になって、馬を確かめる騎士たちのほうへすっ飛んで行ったミーナを見送り、オーレリアは「真の淑女たる私と二人きりになるのはいいのかしら」と皮肉まじりに微笑む。
ガードネルが作法通り差し出してきた手を借りて、コーチのステップに足をかけた。
向かい合って座席に座る。馬車が動き出した。
霧の向こうに村人の姿が見える。皆硬い顔で手を振っている。
(村長に言われて、仕方なく見送りに出てきたという感じね)
あまりの滑稽さに笑い出したくなる。
村人もオーレリアも誰もこんなことを望んでいない。誰も幸せじゃない。オーレリアの周りはいつもこんなふうだ。
「ご結婚おめでとうございます、王女さまっ」
「……」
粗末な身なりの少女が人垣を割って出てきた。前のめりになりつつ、微妙に舌たらずに叫ぶ。目を見開くオーレリアに向かって、腕をぶんぶん振っている。ひどく粗野なふるまいに見えた。
ガードネルがコーチの窓を開けた。湿った冷たい空気が吹き込んできて、肌を刺した。
「手を振り返してください」
「めでたくなんか欠片もないのに?」
「それでも、です」
右の口角だけを吊り上げて流そうとしたが、嫌っているオーレリアに対する時ですら常に穏やかだったガードネルが語気を強めた。
不承不承窓から顔をのぞかせ、そっと手を振る。
(馬鹿馬鹿しい、こんなことをしてなんになるのよ)
『オーレリア、お前はそのままで美しいのだ、民になど媚びる必要はない。笑うのもやめなさい。無教養な奴らのことだ、お前に魅せられて良からぬことを考えるに違いない』
脳内に響いた父の言葉に苛立ったところで、少女が動きを止めた。
やっぱり何かがおかしかったのか、やるべきではなかった、という思いが強まる。
「っ、ありがとうございますっ、オ、オリレアさまっ、どうかお幸せにっ」
だが、少女はすぐにさっきとは比べ物にならない勢いで腕を振り回し、遠ざかっていく馬車に向けて大声で叫んだ。
白い靄の向こうでわかるほど、少女は大口を開け、白い歯を見せて笑っている――オーレリアに向けて。そのすべては「嬉しくて仕方がない」というように見えた。
「……」
なぜだろう、馬車は遠ざかっていくのに、その顔から目が離せなかった。
「なんなの、一体……」
少女がすっかり見えなくなる位置まで着て、オーレリアはぼそりと呟いた。
名前も間違えられるなんて、屈辱もいいところだ。何より結婚なんて名ばかりで、実質は政略ですらなく人質、幸せになんかなれっこないのに、とも。
だが、なぜか怒りは感じなかった。代わりに体のどこかがむずむずする。
「……馬鹿みたい」
こんな些細なことで落ち着かなくなる自分への嫌悪が、言葉になって口から零れた。
直後にガードネルが口を開いた。
「そういった民、いえ、他者を軽んじる言動をとらないでいただきたい」
「……話とはそれかしら」
気恥ずかしいような、浮き足立つような、妙な気分に冷や水をかけられ、オーレリアは目の前の兄の友人へと目を眇めた。
開けたままの窓から流れてくる冷気と相まって、全身が冷えていく。
「ええ、今の発言や昨日の廃墟呼ばわり、村人が供してくれた食事にあなたが手を付けなかったことなどについてです」
ガードネルは息を吐き出しながら、首を軽く横に振った。
「頻度や程度の差はあれど、無知ゆえの無礼は誰しも生じます」
「私は特に多いと言いたい?」
暗に兄やソフィーナと比較されたと察して皮肉を投げて笑えば、彼は無言で口角を上げた。この含みのある笑いを、彼が崇拝するソフィーナに見せてやりたいものだ。
「問題はその後です。内心で感じた事柄を表に出すかどうか、出してしまった場合にどうフォローするか――あなたはそれがまったくできていらっしゃらない」
面と向かって自分を否定される、しかも目下の者からという経験は、オーレリアにはほとんどなかった。しかも指摘された内容がオーレリア自身感じていることだったから余計頭に血が上った。屈辱にガードネルを睨むが、彼は動じない。
その瞬間、これまでオーレリアに意見する人間がいないわけではなかったことを思い出した。
兄や騎士団長のギャザレン公爵、侍女長、そして、ソフィーナとメリーベルさま……でも、皆父や母から侮辱や叱責を受けて、いつからか口を閉ざすようになった。
(ああ、違うかも、メリーベルさまだけは……)
『挨拶は大事よ、レリア。ちゃんとできるようになりましょう』
『勉強なさい、レリア。知識はあなたを助けてくれる。たくさんのことを学び、たくさんのことを自ら経験しなさい。誰もあなたの頭の中にあるものを奪えない。今持っている財産や地位をなくしても、それだけはなくならない。たとえ国が滅んだとしても、あなたはそれをもとに生き延びることができる』
『そう、レリアは虫が好きなの。じゃあ、あなたがもっと虫を好きになれるように、図鑑を贈るわ。私とあなたの秘密の図鑑』
彼女はいつだって父とは真逆のことを言っていた。いつも真剣で、まっすぐオーレリアの目を見て話してくれた。オーレリアから勉強を取り上げようとした父に、抗議さえしてくれた。オーレリアの趣味をそのまま受け止めてくれた。
『レリア、この国から出ていきなさい』
だからこそ彼女からの最後の手紙に書かれたその言葉が、オーレリアに天地がひっくり返るような衝撃をもたらした。
死の床で書いたのだろう、隙なく美しいと賞賛されていた彼女の筆跡は、その手紙の中で震えていた。侍女長から渡されたその紙を読むなり、オーレリアは苛立ちと共にビリビリに破り捨てた。
けれど……――あれもオーレリアのためを思っての言葉だったとしたら?
「……お父さまが生きていらっしゃる時は黙っていたくせに、えらそうになったものね」
彼女の死以降の自分がすべてひっくり返されるような衝撃を予期して、オーレリアは思考を閉ざすと、ガードネルへ嘲笑を投げた。
彼は危険だ、とにかく黙らせなくては、という焦りがあった。
「私は確かに卑怯です。だが、その点はあなたも同じだ」
だが、彼は怯まず彼自身とオーレリアへの侮辱を口にした後、真顔になった。
「他者への想像を持ってください」
「なんですって」
「自分の行動を、相手がどう思うか、周りがどう感じるか。失敗して傷つけた相手を前に、どうフォローすれば、相手の傷を最小限にとどめ、癒せるのか、想像してください」
「このわたくしがなぜ他人の機嫌をうかがわねばならないのかしら。必要性を感じません」
「では感じてください」
顎を突き上げてせせら笑ったのに、ぴしゃりと返されて鼻白む。
「城の中でなさる分には、あなた個人が敬遠されて終わりです。けれど、外に出た今、あなたの言動はすべてハイドランド王国への評価となる」
「それこそなぜわたくしがそんなことを気にかけねばならないの」
睨みつけてきたガードネルの水色の瞳を見返し、オーレリアは歪んだ笑いを見せる。
「……この結婚に納得していないゆえの意趣返しですか」
「その場合は事故にでも見せかけて殺せと兄から命令された?」
くすくすと笑いながら、「あの人は、メリーベルさまやソフィーナに失望されたくなかったから善人ぶってきただけ。中身は私と一緒で腐っているの」と兄のセルシウスを評する。
「私はそうは思いません。ですが、仮にそうだとしても、あの方は国のため、我々のために心血を注いでくださる」
「その点は違うわね――私、ハイドランドなんてどうでもいいの。滅べとさえ思っている」
「……」
ガードネルが目を見開いた。
オーレリアは歪な微笑を浮かべて、両腕を広げると、右腕を曲げて、自らの心臓を指さした。
「殺せば? その方が長い目で見た時、ハイドランドのためになると思うわよ? ついでに、国のためという大義名分を掲げて、あなたはソフィーナとの縁談を邪魔した私への私怨を晴らすこともできる」
「……」
「知らなかった? あの子はあなたの想いを誤解していた。そうと気づいていながら、放置、いいえ、誤解を強めるよう仕向けたの。邪魔するためだけに邪魔した――だって、あなたとだったらあの子、平和に幸せに暮らせたもの。変わらず兄の信頼を受けて、ハイドランド国民に慕われて、その上あなたに大事にされて穏やかに暮らすなんて面白くなかったの」
「……生憎でしたね。私以上に幸せにしてくださる方と縁づかれました」
「あんな極上の性悪相手に、幸せになんかなれるわけないじゃない」
「あなた自身、その性悪とのご縁談をお望みだったのでは?」
ガードネルの精一杯の皮肉を、オーレリアは「まだわからない? 私は誰も愛せない」と笑い捨てた。
「この外見であの男を騙してまんまと大国の王太子妃に納まって、好き勝手にやろうと思っていただけ。機会を見て父と母、そして兄をつぶしてやるつもりだったの。ハイドランド国民も全部道連れ――あの国の力ならそれならできる。残念ながら、あちらの外面と根性の曲がり具合のほうが数段上だったけれど」
オーセリンでカザックの王太子を一目見た瞬間、同類だと思った。
美しく完璧な容姿の下にあるのは、どろどろとした鬱屈と他者への不信――この人ならば、騙してもかまわないと思った。一方で微かな望みも持った。もしかしたら、自分と同質の彼なら自分を受け入れてくれるのではないか、と。
だが、蓋を開けてみれば、彼は内側にそんな汚いものを抱えていること以外、オーレリアとはまったく違っていた。彼はそれでも他者のために生きようとする人だった。
(……ソフィーナに惹かれるはずだわ、同じように他者に失望していても、彼は私と違って楽な方に逃げなかった……)
『とっておきの場所にご案内します』
幼い頃に訪れた北の海岸沿いにある離宮で、オーレリアは父の目を忍んでソフィーナと一緒に外に遊びに出た。その時の記憶を思い出して、視線を伏せる。
あの子は嫌だ。綺麗でまっすぐで、一緒にいたら自分も少しは良き者になれるのではないかと思う。憧れて大事にしたくなる。
同時に、自分の醜さをまざまざと思い知らされて、壊してやりたくなる。壊したら絶対に後悔するとわかっているのに、それでも――。
「……さあ、騎士ならば、祖国のために私を殺しなさい、ガードネル・セリドルフ。生かしておいたら、私はあなたの敬愛するセルシウス・リニレ・キ・ハイドランド、そしてハイドランドそのものに仇為すわよ――必ず」
自暴自棄になって笑いつつ、誘惑を囁く。
それでも動こうとしないガードネルに、オーレリアは嘲るように短く息を吐き出した。
「それとも騎士ごっこ、善人ごっこが楽しいだけで、自分の手は汚したくない? ――偽善者め」
挑発にガードネルが目尻を吊り上げた。右手を腰の剣にかけ、腰を浮かせる。
剣を鞘から引き抜くと同時に、彼はオーレリアへと手を伸ばす。
胸倉をつかまれ、暴力的に引き倒された。




