8.悪夢
どこからか、笑い声がする。最初小さかったそれは、徐々に大きくなっていく。
(誰だろう……)
辺りを見回しても、姿は見えない。なのに、オーレリアに向かって笑っているとわかった。
はっきり言葉が聞こえるわけじゃない。だけど、オーレリアを嘲っているのは伝わってくる。
『人のなりをして、人の言葉を使うのに、人の心がわからない』
『失敗ばかりで、善良な人たちを傷つける。悪気がないからこそ救い難い』
――返す言葉がなかった。
主のわからない笑い声は、オーレリアを遠巻きにして周りをぐるぐるまわり出した。
『だからメリーベルさまも出ていけと言った』
『だからソフィーナにも嫌われた』
耳をふさいでも声は消えない。脳に直接響いてくる。
頭がぐらぐらし始めて、耳を押さえたまま身をかがめた。
膝を落としたオーレリアへと声が距離を詰めてくる。
吐息が聞こえるような至近距離まで来て、不意にその音が止んだ。
「……?」
手を耳から離す。先ほどまでが嘘のように静かだ。
ほっと息を吐き出した瞬間、『なぜ生きている?』と鮮明に響いた。
目を見開き、頭の脇にあった両手を力なく落とす。その瞬間何かが右手に当たった。
(わ、たしが一番そう思ってる……っ)
唇をぎゅっと引き結び、手にした物を握って思いっきり振り回した。すっぽ抜ける感触の直後、ゴンッという音が響く。
「ギャッ」
「っ」
同時に悲鳴のようなものが聞こえ、そこで目が覚めて跳ね起きた。
「……」
心臓がバクバク言っている。息を殺し、身を強張らせながら、辺りをうかがい、四方から迫ってくるかのような壁の存在に、状況を思い出した。
(……そう、だ、ここはヴォーバリアへの道中、街道沿いの村長の家……)
あのまま眠ってしまった、さっきのは夢だ、と悟って、詰めていた息を吐き出せば、気管が震えた。
改めて周りに目を向ければ、部屋の片隅のテーブルには火が灯され、体にはあの毛織物がかかっている。ミーナがやってくれたのだろうか。
床にはさっきオーレリアが放り投げたと思しき、丸い木製の花びんが転がっている。
(……私って案外図太いのかも)
廃墟とか思ったくせに、寝台といい掛布といい、戸惑いだらけだったくせに、しっかり眠ってしまった。花びんを拾いながらそう思ったら、少しだけ気分が浮上した。
気持ちに余裕ができて、立ち上がって、扉の取っ手に手をかける。
だが、ガードネル配下の騎士たちの声が聞こえてきて、動きを止めた。
「部屋の不満か旅の不満か、なんにせよ起こしに行ったところで、怒られるだけだろ」
「うまく宥めて連れ出したところで、食事に文句をつけるのも目に見えてるしな。羊の頭の煮込みとか、叫ぶか気絶するかだ」
「で、師団長や俺たちがまた村長に謝罪する羽目になる……なあ、呼びに行って起きなかったってことにしないか」
「いやあ、この狭い家じゃ『起きなかった』は無理がある。胸がいっぱいと仰っている、それでだめなら、田舎料理など食べられたものじゃないと仰っている、でどうだ。いかにも言いそうなことだろう」
「セルシウス陛下がここに泊まった時とは大違いだ。ほんとに兄妹なのかねえ」
(ここで扉を開けて、彼らがどんな顔をするか見る……)
実に面白そうではある。
が、一瞬の間をおいて、オーレリアは息を吐き出した。
ただでさえ無知な上に、そういう時にどう振る舞えばいいか、わからないのだ。彼らの言う通り村長が提供してくれる物をうまく食べられない可能性がある。
そうなったら、本来善良な彼とその妻にまたあんな顔をさせてしまうだろう。それは嫌だ。
結局思い付きの通り行動することにしたのだろう、騎士たちはノックもなしに扉から遠ざかっていった。
「お腹すいた……」
どさっと音を立てて再び寝台に転がった。
(ドレスも宝飾品も金貨も何もいらないから、砂糖でがちがちにコーティングされたシャルギを馬車いっぱいに詰め込んでくればよかった……)
バターとお砂糖、フルーツたっぷりのハイドランドの伝統菓子だ。大好きなのに、いつもいつも「オーレリアさまのお美しさが損なわれると母君がお怒りになりますから」とか言ってうっすい切れ端しかもらえなかった。今なら食べたい放題なのに。
ごろりと寝返りを打ったら、ついにお腹が鳴った。オーレリアの外面だけを見て、花の露と香りだけで生きていらっしゃるとか言っていた馬鹿な貴族子女に、この食い意地の張った騒々しい音を聞かせてやりたい。
(ん?)
今にも落ちてきそうなぐらい低い天井の向こうに、何かの気配がした。
ネズミだろうか。虫だろうか。それにしては大きい気もする。
好奇心に駆られて、寝台の上に立ち上がった瞬間、今度は外から声が漏れ入ってきた。
「疲れて眠ってるって話だったけど、うちらの料理なんて食えたものじゃないってことじゃないかねえ、やっぱり」
「わざわざ羊をつぶしたってのに、村長さまもお気の毒に」
壁に隙間があると言うより、隙間に壁があると言う方が正しいようだ。
もう一つ、場所が変わったところで、何をしてもしなくても勝手にあれこれ言われるというのも正しいらしい。
「……」
天井を探ろうという気持ちが消え失せて、オーレリアは寝台に座り、膝を抱え込む。やさぐれた気分でそこに顎を乗せた。
「それがダメだったのかもね。だって噂の妖精姫だろ? 羊がかわいそうとか気持ち悪いとか言うんじゃないか」
「俺たちにゃご馳走だけど、お姫さまにとってはそんなもんかもなあ。つーか、ここの料理でそんなこと言ってたら、ヴォーバリアになんか行けねえだろうに。あいつら海獣の生き血をすするって話だぜ」
「それどころか、あいつらの親玉、赤髪のス、ストルツだっけ? 王の座を奪うために親父も兄貴も殺して、その血を飲んで髪が染まったって。北海沿いの都市にもそろそろ奴の手が伸びてくるんじゃねえかって行商人たちが噂してたよ」
思わぬ名が思わぬ噂と共に出てきて、驚きと共に顔を跳ね上げる。
(ヴォーバリア、の親玉って、結婚相手……? 親兄弟を殺した? 血を飲む……?)
「ま、性格の悪いあのお姫さまなら似合いなんじゃないかい。お供の子も所詮シルゲ族だろ? 未開人同士通じるもんがあるだろうし、気にかけてやる必要もないって」
「ちぃっともったいない気もするけどな。見た目だけはびっくりするぐれえいいし、うちの娘なんか大騒ぎさ」
侍女のミーナへの差別と蒼ざめるオーレリアを残して、笑い声は遠ざかっていった。




