31.王の村
船が進むにつれ、島影はどんどん大きくなり、詳細が見えてきた。背の低い緑に覆われた陸が両側からそのまま海に落ち込む狭い入り江が、あちこちにある。そのうちの一つに舳先を向け、船は進んでいく。
白波が消えたあたりで、傷の男の号令により帆が畳まれた。代わりに、戦士たちが櫂を手に船べりに座る。そして、陽気な歌を野太い声で歌いながら、水を掻き始める。
聞いたことのない雄々しい旋律は、水音と相まって、オーレリアに不思議な感動をもたらした。
鏡のように凪いだ海面が、船の先で真っ二つに割れる。
行く手から冷たい風が吹いてきた。視線を向ければ、陸がまるで深緑のドレープカーテンのように幾重にも重なって海に接していた。
「……綺麗」
引き寄せられるように舳首に移動し、海中に目を落とす。眼下で静かに割れていく水の向こうに、リボンのような海藻とその間を泳ぐ小さな魚の影が見えた。
入り江の突き当たりには、こちらに向かって突き出す桟橋がある。海岸には屋根と柱だけの構造物がいくつかと、梯子を何十倍も広くしたような物があって、そこに何かが吊り下げられている。
もっとよく見ようと、視界の上部を遮るフードを指で小さく押し上げた。
桟橋の向こうは緩やかな斜面になっていて、道が台地上に続いていた。さらにずっと遠くには、雪で化粧された高い山が霞んで見える。
海岸で動いているのは人だ。船に気づいたのか、歓声が上がった。手を振る人もいれば、奥の斜面を駆け上がっていく人もいて、戻ってきたその人の後ろからまた続々と人が海岸へと降りてくる。
(ここがヴォーバリア王国の都……?)
目を白黒とさせる。
ガラファもストゥルツも『もうすぐ着く』と言っていたから、ここがヴォーバリアの都、本拠地なのだと思っていた。
だが、オーレリアの知る『王都』とはまったく違う。城もその周りの街もないし、街の外壁も門もない。兵士もいない。そもそも土地がどうしようもなく狭い。鄙びているという形容がぴったりだ。
ひょっとしてここは中継地点なのかも、と思ったが、ふと『城がない』と母が大騒ぎしていたことを思い出した。
「あんたもこんなとこには住めない、お城を建てろって騒ぐかい?」
「ガラファ、お前、ほんと懲りねえな」
「余計なこと言うんじゃねえよ。姫さんが頷きでもしてみろ、ひでぇ目に遭うのは俺らだ。ミースト村の奴らみてえに大陸から石運んだり、積み重ねたりとか、死んでも嫌だからな」
わざわざ近寄ってきて絡んだガラファへと、船を漕ぐ男たちが渋面を見せる。
彼らの指揮を執る傷の男が、間髪を入れず「そんな我がままは俺が許さねえがな」とけん制を口にした。
ストゥルツが「騒ぐな」と厳しい声でたしなめる横で、オーレリアは目を瞬かせた。
「そうか、私、もう城にいる必要はないんだ……」
そう口にした瞬間、喜びが沸き上がってきて、オーレリアは「だって城がないのだもの」と声を立てて笑う。
皆が奇妙なものを見る目を向けてくるが、まったく気にならない。
「城や外壁の代わりに、海と山が守ってくれる。なんて合理的なの。それに城なんかよりずっと綺麗」
「お気に召したようで何よりだ」
傷の男を含む男たちが顔を引きつらせる横で、ストゥルツだけがからからと笑う。
「俺たちの故郷、フェイヤーン村にようこそ」
そして、大事なものを見せる子供のような顔で、行く手を指さした。
「奥に見える山が、この島の中央を南北に走る山脈だ。その東西南北をそれぞれ別の氏族が治めている。俺たちシャールゴール氏族は南側、フェイヤーンはその一番東にある」
「さっき話題に出たミースト村というのは?」
「シャールゴール氏族、いや、島全体で一番大きい村だ。ここから入り江をいくつか隔てた西、山脈から流れ出る川の河口にある」
王でありながら小さい集落にいるのは、ストゥルツが『期待されていない末っ子』だったからだろうか、それとも『兄殺し』だからだろうか、と疑問に思ったけれど、せっかくのいい気分に水を差されたくなかったし、彼もなぜか楽しそうだったから、触れないことにした。
「おかえりー、ストゥルツー、みんなー」
「お土産、あるー?」
船のすぐ右手、入り江の脇の、海と急斜面に挟まれた狭い浜から声がかかった。
籠を抱えた女性三人と十人前後の子供たちが、船に向けて手を振っている。
ストゥルツを呼び捨てた、と目を丸くするオーレリアの横で、彼を含む戦士たちが手を振り返す。
そのうち、大きめの子供たちが船に並行して、浜を走り出した。
正面の山から強風が吹き下ろしてきた。咄嗟にフードを押さえる。
「ひゃあ、山のフィアッキさまの歓迎だ」
「帰ってきたって気がするな」
身震いしつつ男たちは、歓喜を上げた。
冷気が頬を刺し、外套をはためかせる。
船足は徐々に鈍り、入り江の終点の桟橋へと船体が寄っていく。そこには既にたくさんの人々が集まっていた。
男性が太い縄を持って船から飛び降り、桟橋の上に突き出ている杭にその縄を括り付ける。船尾では重い何かが海中に投げ込まれたようだ。派手に水音がした。
船にいた者たちが、次々に桟橋に飛び降り、それぞれに人が集まっていく。みんな笑顔だ。家族だろうか。
その人たちをオーレリアは被ったフードの下から観察した。
男性の服装は戦士たちと基本同じ、羊毛でできたチュニックの下は幅広のズボンを履いている。女性も同じようなチュニックで下はドレス、その下には脚衣を履いているようだ。外套やショールを身に着けている。
清潔感はあるけれど、皆シンプルで地味な服装、目立つ装飾品を付けている者はいない。王さまの出身地で、王さまの側近たちの家族が暮らしている村という感じはやはりしないけれど、笑って再会を喜んでいる様は幸せそうではある。
「俺たちも降りるか」
「……」
同じ光景に目を細めていたストゥルツが、オーレリアを振り返り、手を差し出してきた。
大陸とはまったく違う場所にいながら、大陸ふうのエスコートを忘れない彼に、不思議な思いを抱えつつ、そこに手を乗せる。
次の瞬間、オーレリアは自分の勘違いを悟った。
「っ」
頭一つ以上高いストゥルツの頭が、下に移動した。膝と背に腕が当たり、ふわりと身が浮く。
彼の胸へと押し付けられるように抱えられて呆気にとられたのも一瞬、自分の状況を認識するなり、オーレリアは頭に血を上らせた。
だが、文句を言う間もなく、彼は船べりに足をかけ、桟橋へと跳躍する。
(嘘でしょ)
再び体が浮き上がって、頭が真っ白になった。目をつむり、身を縮める。
直後、トンという軽い音と微かな衝撃が同時に生じた。
「大丈夫か」
腕の中で硬直したままのオーレリアに気づいたのか、ストゥルツが不思議そうに顔をのぞき込んできた。それで我を取り戻した。
「……あ、たりまえでしょう。それよりおろしてくださる?」
屈辱を覚えて冷たく言い放ったのに、なぜか彼はくすりと笑った。ますます気に入らない。
「ストゥルツ、お帰り」
波間に響いた声に、意識をストゥルツから慌てて離した。
海岸に集まっている人々の後ろに立って、白い歯を見せ、陽気に手を振っているのは、大柄な女性だ。年の頃は五十くらいだろうか。
日に焼けたのか、それとも年月のせいか、白っぽくなった金髪を後ろでざっくり結わえ、たくましい腕に大きな籠を抱えている。肩から腹にかけて斜めにかかる布には、赤子が入っているようだった。
彼女の歩みに合わせて、人垣が割れていく。
「その子が話してた花嫁さんかい?」
「ああ」
(そのこ……私? 花嫁って……ああ、そうだ、私、この人と結婚するためにここにやられたんだった。じゃなくて、ええと……誰?)
先ほどの荒っぽい扱いが嘘のように丁寧に桟橋へと降ろされたこと、見知らぬ者からのざっくばらんな物言い、花嫁と言われたこと――何にどう反応していくべきか、戸惑う。
その人はストゥルツに躊躇なく近づき、彼女より高い場所にある頭をわしわし撫でながら、「そうかそうか、短くしたのか」と感慨深げに呟いた。
「二人とも無事に島について本当によかった。お、メィムシュにルッソ、ヤキナゥ、デアージュ、みんな元気だね。ガラファは……ああ、いたいた。よしよし」
それから彼女は戦士たちにも目を向け、皺を深めて笑った。
「って、忘れてたよ――母なる海神ヒフティハヴよ、子供たちの無事を感謝します」
目を白黒させるオーレリアの目の前で、女性は籠から小枝の束を取り出して、打ち寄せる波を二回撫で、遠くへと放り投げた。
女性がくるりと踵を返した。なんだか忙しない人だ。
「はるばる大陸の、しかも山の向こうから来たんだってね。長旅も寒さもきつかっただろう。早く集会所に連れて行ってやんな」
「ノイ、その前に紹介ぐらいさせてくれ」
「あらら、またすっかり忘れてた」
そう言って女性はけらけらと笑い、オーレリアへと目を向けた。
(……似てる。いえ、似てないけど……)
ストゥルツより少し低い程度の背丈の彼女から見下ろされて、オーレリアは瞬きを繰り返した。青白い肌の中に光るグレーの瞳、その目元には皺が刻まれている。優しく弧を描くその動きに、メリーベルを連想する。
「あたしはノイ。この村の…………なんだろう」
元気よく名乗った後、だが、彼女は顔の片側をしかめた。
「はて、村長なんてもんがあるとすりゃ、もうストゥルツだし、ほんと私、なんでこんな大きな顔してんだろ」
そして、ゲラゲラと笑い出した彼女に、周囲の人々からも笑いが起きる。
「この村を作ったのがノイだからだろう」
「他に行く当てがなくて、居着いただけなんだけどねえ」
ストゥルツが穏やかに応じた。その目には親しみがあった。
「そうそう、行き場がない俺らの親父たちみたいな奴らのことも拾ってくれた……まあ、この村のおっかさんみたいなもんだな」
「そうだ、そうだ、あんたに世話になってねえ奴はこの村にはいねえ」
(行き場がない……つまり、この人たちはどこからか流れてここにやってきた?)
戦士たちを含め、口々に話す人々を、オーレリアはさりげなく見渡す。
ハイドランド人はハイドランド人とわかる風貌をしているし、カザック人も見た目で『なんとなくカザック人っぽい』という感じがする。以前南の国を訪れた時に見た人々も、独自の風貌をしていた。
同様に、ヴォーバリア人に特徴的な容貌があるとすれば、長身かつ手足が長め、骨格はしっかりしていて、彫りの深い顔立ちをしているといった感じになるだろう。髪は淡めで色は金や灰、褐色が多く、瞳も薄い色が多い。だが、ここにいる人たちはそれに加えて、ハイドランド系の北方大陸人っぽい人、ミーナに似た容貌の人、メイヤーンの街で見た東方系の商人に似た感じの人、色々いる。
(……ストゥルツはその中でもやっぱりちょっと変わってる……)
オーレリアは、ノイを含めた村人たちに目を細める彼へと目をやった。
赤毛の人を見たことがないわけではないが、彼ほど鮮烈な赤髪は珍しいし、この村の誰にも同じ特徴を持つ人はいないようだ。彼が自らの母親を「異民族」と形容した理由が理解できた。
(それより、私、完全に忘れ去られてない?)
初体験に新鮮な気持ちになっていると、ノイと目が合った。
話題の中心にいるがゆえの優越を見せるかと思うともなしに思ったのに、彼女は「ごめんね、挨拶の途中だった」と心底申し訳なさそうに身を縮めた。さらに面食らう。
「あんたが話すとすぐ脱線しちまうから、俺が紹介する」
苦笑と共にストゥルツが後を受けた。
「ノイは俺の育ての親で、村の連中が言っていたように、ここの世話役みたいなもんだ。ノイ、彼女がハイドランドのオーレリアだ」
「よろしくね。ここは大陸と比べたら寒いだろう? 辛くないかい?」
「え、ええ……」
(よ、よろしく……? って、ええと、うまく取り計らうとか、仲よくとか、そういう意味よね?)
尊称どころか、姓にも言及されない紹介も初めてなら、ざっくばらんな物言いも、素朴な親しみを向けられるのも初めてだった。
オーレリアがこれまで受けてきた挨拶には、常になんらかの下心があった。
『初めまして』の後に、『お噂以上に美しい』だの、『ハイドランドの至宝にお目にかかれて光栄です』だの、どこかで聞いたようなセリフが続き、陶酔や妬み、野心といった暗い感情を含んだ視線が絡みついてくる。
そんな人間と『よろしくする』気は当然ない。頭の中で目の前の相手を蹴る妄想をしながら、顔に微笑を浮かべて、それでおしまい。言葉をかけることすら稀だった。
だが、目の前の彼女に含むところはないように思う。
(こういう相手にどうすればいいのか、私、知らない……)
そう気づいて、どっと汗が噴き出した。
どうしよう、と思った瞬間、思い浮かんだのはソフィーナだった。
あの子なら、きっと……――。
「は、じめまして。私は、オーレリア・リニ……オーレリアです」
カッコ悪いことに、声が上擦った。心臓もドキドキ鳴っている。
たかが挨拶だ、でもオーレリアはその『たかが』をまともやったことがない。現に、後ろでミーナが「ちゃ、ちゃんと挨拶してらっしゃる……」とめちゃくちゃ驚いている。その通りではあるのだが、あの子とは一度きっちり話をつけようと思う。
「お、気遣い? ……も、その、ありが――」
「待って、オーレリアさま。フードを取り忘れていらっしゃ――」
「ストゥルツさま、お帰りなさいませ」
ミーナの慌て声に、人垣向こうからの声が重なった。
媚びているようでいて、本質的には他者を見下している、ハイドの城で日常的に馴染んでいた類の声音に、一瞬で頭が冷えた。




