29.化
「どこ行ってたのさ。いっつも起こされても起こされてもしつこく寝続けようとするくせに」
男に甲板の跳ね上げ式の板扉を持ち上げさせたオーレリアは、船室の暗がりの中にガラファを見つけた。
「邪魔」
梯子を上ってこようとしていた彼女を、自分が下ることで押し戻す。
床に足をつけるなり、「今日も安定で感じ悪いね」と半眼を向けてきた彼女に、「元気な証拠」と微笑めば、「性格も直んないね」と唸った。
背後で扉が閉じた途端、潮騒が遠のいた。奥でミーナが「起きたなら起こしてくださいよぅ」などと、侍女を自称するわりに詰めが甘いことを言っているのが聞こえる。
海風で乱れた髪を手櫛で整え、オーレリアは梯子の脇にいるガラファに改めて向き直った。
「ガラファ、ストゥルツの兄の妻について、詳しく教えなさい」
先ほどヴォーバリア人男性からその話を聞いたオーレリアは、檻の中に追いやっていた猫を久しぶりに引っ張り出し、それで全身をすっぽり覆った。
そうして世間知らずで人畜無害な可憐なお姫さまを装うと、城の中でそれしかやることがなかったせいで得た話術というか詐術というかを駆使して、男から『ストゥルツの兄の妻』についての情報をまんまと引き出した。彼女について探っていると悟られないよう、様々な話題を挟みながら、さりげなく。
それによれば、女性はハイドランドの北東にある低い山脈を挟んだ隣国アストの王女だったようだ。
そう聞いても、オーレリアにはアストがどんな国か、その女性がどんな人かよく知らないし、なぜその国の王女がストゥルツの兄と縁付いたのかも、いまいちわからない。
(お兄さまもカザックの陰険眼鏡文官も説明しようとしてくれていたんだから、いくら気に入らなくても聞いておけばよかった……)
『勉強なさい、レリア。知識はあなたを助けてくれる』
メリーベルさまの声がまた響いて、凹みに凹んだ。いくら父が邪魔をしてきたと言っても、彼が死んだ後は勉強しようと思えばできたのだ、やっぱり私は馬鹿だ、と。
だが、できないことがあるなら、できるようになればいい。
(知識がないなら、学べばいい――それだけのこと)
そう思い定めて、オーレリアは薄暗い船倉の中、斜に構える女戦士を見つめる。
「ストゥルツの嫁になる話が出ていたのを誰かから聞いたってわけか。嫉妬?」
はっと息を吐き出したガラファの顔には、オーレリアに対するわかりやすい嫌悪だけではなく、苦みがあった。
彼女はストゥルツと縁ができたオーレリアだけじゃない、彼を狙っているというその女性のことも嫌いなはずという見込みは当たったようだ。であれば、情報を引き出すことができる。
「するわけがない。私は嫉妬する方じゃなくて、常にされる方。さりげなくそれを煽って、危害を加えられるところまで持っていって、それをなんでもない顔をして返り討ちにするのだけが楽しみ――そういう人生を送ってきたの」
涼やかに微笑めば、ガラファは口をぽかんと開けた後、「性格、悪いを通して最悪だ……」とげんなり漏らした。
「今更ですよ、ガラファさん。オーレリアさまは嫌いな人の不幸を内心で高笑いして見ていられる人ですけど、そういう人を陥れるのはもっと好きなんです」
「……ミーナ」
「他人に洒落にならない嫌がらせをする人は、王さまや妾妃さまのお気に入りであってもいつの間にか消えちゃってましたもん」
「いい加減口を噤む賢明さを身につけなさい」
ぎろっと睨めば、ミーナはしまったという顔をして身を縮めた。
「……」
眉間に皺を寄せてオーレリアとミーナのやり取りを見ていたガラファは、「変な奴でもあるってか」と身も蓋もないセリフを吐いて、鼻を鳴らした。
「なんにせよ、人にものを訊く態度じゃないね」
顎を突き上げた彼女に見下ろされて、オーレリアは両目を眇めた。
「もったいぶっていないで、速やかに話しなさい。知らないなら知らないでそう言いなさい」
「っ、その態度を言ってるんだっ」
訳が分からない、何が言いたいの、と顔をしかめるオーレリアに、ミーナが大きくため息をついた。
「オーレリアさま、人に何か頼む時はお願いするんですよ……」
「おねがい? お願いします、というあれ? を、私がする……」
知識としては知っている。父や母を始めとする他者を操るためにやったことも当然ある。だが、自分自身が何かを望んで人に頭を下げたことは、これまで一度もない。
(というか……私、自分が何かしたくて行動したこと、あったかしら……)
他人の言動を受けて、自分の行動を決めた記憶ばかりだ。あの人がムカつくから、あの人は自分に二心がありそうだから、あの人がこう言うならその逆に、という具合に……。
目を丸くするオーレリアに、ガラファは「やったことがないってことか……」とげんなり肩を落とした。
「あんたと話してるとおかしくなる。もうい――」
「いいえ、やります」
自分の興味を否定されて、興味のないものばかり押し付けられ、それに応ずるだけの生活はもう終わった。
(私には今、自分のために行動する自由、そのために何かが必要なら、人に『お願い』できる自由がある――)
唐突に湧き上がってきた興奮を宥めようと、オーレリアは唇を舌で潤し、再び口を開いた。
「お願い。ガラファ、ストゥルツの兄の妻だった女性について詳しく教えなさい」
「……それ、実質変わってないからな」
「オーレリアさま、お願いって付ければ、お願いになるわけじゃないです……」
「そうなの? じゃあ、それも教えなさい」
ガラファが額を押さえ、「頭痛がしてきた」と失礼極まりないことを呟いた。
* * *
「問題ないですってば」
何回目だろう、跳ね上げ扉の開く音の後、ストゥルツの声がした。それにミーナが変わらない返事をしている。
「一度も姿を見ていない」
「朝は甲板に上がっていらっしゃいましたよ」
「……何かあったのか」
「それで黙って引っ込む方じゃないでしょう。必要なら相談、じゃないか、文句を仰います……って、それも違う、相手のほうがひどい目に遭って、とっくに騒ぎになってます」
歯切れの悪いストゥルツに対し、ミーナは小気味いい。
海を行く船の船倉の部屋で、彼らのやり取りを小耳に挟みながら、オーレリアは卓上鏡の中に映る自分を見つめる。
(……これぐらいか)
顔と手指をオイルでマッサージし、血行が良くなったところで、桶の中の真水で慎重に顔を洗い、肌の具合を確かめた。
これぐらい念入りに肌の手入れをするのは、半年ぶりぐらいだ。周りから人がいなくなったのをいいことに、サボりまくっていた。
「あれこれ付けては落とし、付けては落とし……馬鹿みたいだな」
「みたいじゃなくて馬鹿なの。ハイドにいた頃は一日に何時間もかける羽目になっていたことを考えれば、省略している分、まだましだけれど」
船室でランプを掲げているガラファに鼻で笑われ、賛同する。
「時間や手間をかけようがかけまいが、さほど変わらないのに」
「……どの道、私は綺麗って?」
「そうよ。生まれつき肌が岩みたいに頑丈なのだと思う。手入れどころか、白粉に毒を入れられようが、虫の毒毛針やイラクサの混ざった花束を渡されようが、かぶれもしなければ、赤くなることすらない。日焼けもしないみたい。なまっちろくてみっともないのに、世間ではそれがいいんですって」
「毒……」
「中身はいわずもがな、外側の肌でさえ実は化け物同然だっていうのに、可憐だの、白雪のようだの、妖精のようだの、好き勝手に騒がれてきた。そんな人たちの言いなりにさせられてきた私も大概だけど、あの人たちこそ馬鹿そのもの」
毒を吐きながら、オーレリアは宝石でゴテゴテに飾られた化粧箱を手に取る。
要らないと言ったのに、カザックから出向してきた性悪文官が「あなたの最大の武器はその見た目でしょ。自ら放棄するとか、真正のアホを目指してるんですか」とか言って、勝手に持参品に入れたものだ。
腹立たしいが、事実役に立つこともあるようだ。そして、それこそがもっと腹立たしい。
ひょうひょうと言いたい放題だった眼鏡の男を思い出してむすっとしながら、オーレリアは白粉やら紅やらを取り出し、顔を作り上げていく。
(……ん?)
ふと、鏡の中、オーレリアの背後に映るガラファが、ちらちらとこちらを見ていることに気づいた。気のせい、もしくは粗探しのためかと思いきや様子が違う。そわそわしている。
「気になる?」
「っ、ならないっ、なるわけないだろっ」
顔を真っ赤にして目を吊り上げ……それで逆に悟った。興味があるらしい。物好きにもほどがある。
「そういえば、ヴォーバリアの女性は化粧しないの」
「……私がしないだけ」
「なんで」
「興味ない」
(そうは見えないけど……まあ、どうでもいいか)
片眉をひそめつつ、オーレリアは作業に戻った。
「……あんた、化粧、嫌いなのか? さっきからすっげえ不機嫌だけど」
「ずぅっと洗えるお人形扱い。物心ついた時には毎日顔から体からあれこれ塗ったくられて、あれを着ろ、これをつけろ。そのために何時間も動くなと強制されて、髪や肌が傷むから日にも風にも当たるな――好きになれるわけないでしょ」
「でも、できる」
「されている様子を見ている以外やることがなかったんだから、嫌でも覚える。元の造りがいいから、手の込んだことをする必要もないし、私ぐらい不器用でも様にならないはずがない」
「……そっか」
また馬鹿にしてくるか、呆れるかすると思ったのに、やけに大人しい。
仕上げに口紅を塗りつつ、オーレリアは自分の背後、鏡に映るガラファを改めて観察する。
金の髪は適当に切られていて短め。潮風のせいか手入れがぞんざいなのか、傷んでいて灰色交じりだ。日に焼けて健康的に色づいた顔には薄くそばかすが浮いていて、活発な印象を与えてくる。目は大きく、目尻に向けてつり上がり気味、瞳ははしばみ色、髪と同色の眉に整えられた形跡はない。唇の形は悪くないが、ひび割れている。
(よくよく見れば、それなりに整ってる。けど、まったく手入れされてない……)
手入れする気がないから? でも興味はありそうだ。そのくせ興味はないと言う。
(なんか面倒そう……)
煩わしいことはごめんだ。放っておこうと思ったのに、こっちを見ている彼女の表情はいつになく沈んで見える。
整え終わった眉の根を寄せつつ、オーレリアはなんとなく羊毛から取れた油脂を指に取った。
「こっちに来て」
「は?」
「いいから」
疑心を好奇心が上回ったのだろう、渋い顔をしつつも素直に近づいてきたガラファの顎を捕まえ、その唇に指を走らせる。
「っ、何すんだよっ、口紅なんて……」
「化粧じゃなくて治療。割れて血が滲んでいて、見ているこっちが痛いの。艶は出るけど、色はあなたの唇の色そのもの」
鏡をつっけんどんに差し出し、「ね?」と言えば、彼女は無言で自らの唇に魅入った。かさつきがマシになって、年頃の女性らしい輝きが出ている。
目を丸くしていた彼女は頬を微かに赤くした後、何かに耐えるように唇を引き結んだ。そして、そこを拭おうとして……結局やめた。
「……」
オーレリアには、彼女がなぜそうなのか、わからない。化粧に興味を持つ感覚にも、一切共感できない。
でも、彼女も何かを強いられて生きているのだとすれば、その苦痛だけはわかる気がした。




