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28.兄

 雲間に垣間見える太陽は徐々に高くなっていき、やがて天頂に到達して、水平線へと降っていく。

 いくつもの島影が現れては後方に消えていった。時折喧しく飛び交う白い鳥や、滑るように水面すれすれを飛ぶ、翼の長い鳥を見かける。

 ヴォーバリア人たちはその間ずっと巧みに船を操った。帆で風をとらえ、ある時はまっすぐ、ある時はジグザグに走る。それでもどうしようもない時は、協力して櫂を漕いだ。

 そのすべてが新鮮で、オーレリアはひたすら彼らの作業を見つめた。胡乱な者、邪魔者を見る目を受けている自覚はあったが、知った話ではない。一人一人の一挙手一投足が巧妙に合わさって、この大きな船を動かしているとわかるのは、すごいを通り越して、感動的だった。


 やがて、北の地の短い昼の時間が終わりを迎えた。空全体が不吉なほどの赤に染まる。所々に浮かぶ雲は夕日の赤と影の黒。見る者を圧倒するかのような色合いに、言葉もなく、ただただ空を眺める。

「今日はあの島に船を停めて、夜を明かす」

「……何かいた」

 ストゥルツがやってきて、左舷前方の島を指した。その方向に目を向ければ、夕日を映して赤く染まった入り江の端にある岩の上から、犬ほどの大きさの影が海中へと飛び込んだ。

「ああ、シーリエン、魔物の一種だ。お伽話にいるだろ、歌声で船乗りを惑わして、海中に引きずり込むやつ」

「そんなのがいるところで泊まるの?」

 驚くオーレリアに、ストゥルツは肩をすくめた。

「本当に危ないのは、物理的に襲ってくるキラゥケンとか、ハーヴグーヴァだな。シーリエンにお伽話ほどの害はない。心が弱った奴、後ろ暗いことのある奴を惑わすというだけだ」

「惑わす……」

「幻覚を見せたり、頭の中に直接話しかけてくるような感じがしたり……。ターゲットの悩みや願望に添った誘惑をかけてくる厄介なのもいる」

「……似たようなのがハイドランドにもいた。街にはいなかったけど……」

「大陸でも海でも、弱い魔物が人の多いところ、開けた場所や明るい場所には出てこないというのは共通だ。人気のない場所で、朝夕や夜の闇に紛れて、心に揺らぎのある人間に狙いを定める」

「心の揺らぎ……」

 旅の間中、悩まされてきた悪夢の数々を思い返して、オーレリアは自嘲する。

 父母や兄への憎悪と自分への嫌悪、ソフィーナを始めとする他人への嫉妬と怨嗟、破壊と破滅への願望――兄や騎士団長が気をつけろと言うはずだった。オーレリアには魔物につけ込まれる要素しかない。


 なんの気なしにストゥルツを見て、オーレリアは目をみはった。彼もオーレリアと同じ表情をしている。

 彼にも魔物につけ込まれるような闇がある? オーレリアと違って真っ当に生きているように見えるのに?


「大陸では魔物自体減っているが、こっちではまだまだ健在だ。恐ろしく強い戦士がある日いなくなったなんて時は、大抵シーリエンのようなタイプの魔物の仕業だ。……怖いか?」

「……いいえ。生きた人間の方がよほど怖い」

 覚えた驚きと疑問を咄嗟に封じて、先ほど魔物が消えた海中を指さした。にこりと笑いかける。

「気に入らない相手を陥れるために利用できないか――なんて考えるのは私みたいな人間だもの」

 目を丸くしたストゥルツが次の瞬間、吹き出した。「確かに怖い」と笑う。

 彼の顔から暗い陰が消えたことも、言いたくないことを聞かないで済んだことにも、密かに胸を撫でおろした。

(私ってほんと馬鹿だ、この若さで新興国の元首になったんだもの、表面的な印象はどうあれ、色々抱えていないはずがないのに)

 思い通りに生きられないのは、きっとオーレリアだけじゃない。


 入り江で過ごしたその夜は、やはり夢を見た。だが、ハイドランドで見たものとは少し内容が違っていた。

 暗がりから足音が近づいてくる。兄だ。穏やかなのに冷たい、いつもの目で、「ここにいたのか」と微笑んだ。

 彼の後ろから兵士たちが現れてオーレリアをとらえ、抵抗を無視して部屋に押し込んだ。かわいらしい小物と色で彩られた、オーレリアにとっての悪夢のようなあの部屋だ。

 逃げ出そうと扉を開ければ、きらきらしたドレスや宝石が雪崩れ込んできた。

 物は次々に増え、オーレリアを埋めていく。もがいても、もがいても出られない。

 絶望に駆られる中、腕がつかまれた。引っ張り上げられて、ほっとできたのは一瞬で、その先にいたのは父。締まりのない顔で笑っている。

 瞬時に嫌悪が膨れ上がって、全力で腕を振り払おうとするが、まるで蛇のように腕が絡みつく。

 ジユウニナドサセナイ――。

 おどろおどろしい声に全身が震えた。

 叫びたくなったが、歯を食いしばって堪え、眦を吊り上げる。

(もう言いなりにはならない――)

 手に触れた何かをつかんで、父に全力で打ち付けた。

 がさっと音を立てて砕け散ったのは、色褪せた青の花冠。舞い上がった乾いた花弁が、渦となって父を覆っていく。それでなお父はオーレリアを放さない。

 花弁に助けられて抗い続けるオーレリアの耳に、小さな音が届いた。

(……波? なんで……)

 砂浜を洗い、船を打ち、引いてくる別の波とぶつかる、騒々しくもなぜか懐かしいあの音だ。どんどん大きくなっていく。

(そう、か、これ、魔物の見せる悪夢だ……)

 燃えるような赤が脳裏に走った。その色にストゥルツを連想した刹那、父もかつての自室も霧散した。


「……」

 少しずつ意識が浮上していく。薄目を開ければ、ぼんやりと船倉の天井板が見えた。

(まだ夜明け前……)

 静かに身を起こせば、同じ寝台でミーナが丸まって寝ている。少し離れた場所ではガラファが壁にもたれかかり、片膝を立てた状態で目を閉じていた。

 狭い船室はオーレリア専用で、ミーナとガラファしか出入りしない。他はストゥルツを含め、甲板や島の浜で寝ているらしい。何度も思ったことだが、蛮族という話は根も葉もない、ただの噂で、ヴォーバリア人は相当に紳士なようだ。


 忍び足で、甲板に続く梯子を登る。板扉を静かに押し上げれば、強い風に髪が巻き上げられた。寒さに顔をしかめながら、外に出、板をそっと嵌め直す。

 手を温めようと、吐息を吹きかけてみたが、風と呼気の湿気のせいで余計冷たくなっただけだった。

「あれ、姫さん、もう起きたのかい」

「あなたは……見張り?」

 姫と呼ばれるのは嫌だ。でも、オーレリアも声をかけて来たヴォーバリア人の名前を知らないのだ、そこには触れないことにする。

「ここはもうあなたたちの国に近いのでしょう」

 敵はいないはずでは、とほのめかしたオーレリアに、彼は「平和な発想だねえ」と苦笑した。

「俺たちの間じゃ、強い奴が正義だ。大陸の国みたいに長、あんたたちふうに言えば、王か、王は血で選ばれるわけじゃねえし、長子が親の跡を継ぐって決まってるわけでもねえ。従ってるほうも一緒だ、強い奴にゃ従うが、隙を見せりゃ寝首を掻きにいく」

「あなたもストゥルツの首を狙っているとでも?」

「チャンスがありゃな。ヴォーバリアの男はみんなそうだ」

 面倒事に巻き込まれるのはごめんだと釘を刺すつもりで出した言葉だったのに、あっさり肯定されて、目をみはった。どうやらその辺の感覚は、ハイドランドと本気で違うようだ。

「そうすりゃ俺もあんたみたいな、女神みたいに綺麗な嫁を……ってただの冗談だよ、そんな恐ろしい顔すんなよ、褒めてんのに……」

 彼の目を見つめ、微笑んだオーレリアに、男はいかつい顔の中にある太い眉の尻を下げた。


 情けない顔を無視して顎を軽く上げ、続きを促す。引き気味になりつつも、その意図に応じる辺り、察しは悪くないようだ。

「……と言っても、俺も含めてシャールゴール氏族にゃ、ストゥルツに逆らおうなんて無謀な奴はいないけどな。個人としてもべらぼうに強い上に、集団戦を指揮しても無敗、交渉事もうまい。右腕のメィムシュも切れ者ときてる」

 オーレリアは眉根を小さく寄せた。

 確かに強いようではあったけれど、昨日彼の幼少期を思い出した身には、それほど恐ろしい人には見えない。

「意外かい? あいつに抜かりはねえよ。あんだけ仲の良かった兄貴のことも返り討ちにしたしな」

「兄貴……?」

 心臓がどくりと音を立てた。ハイドランドでストゥルツが親兄弟を殺したという噂を聞いたが、彼本人によれば、父の死と彼は関係がなかった。だが、その後を継いだ兄については触れていなかった、と気付く。


 男はオーレリアの動揺に気づかぬまま、「なんだ、知らねえのか」と得意気に胸を張った。

「最終的に王になったのはストゥルツだけど、ヴォーバリアの統一を始めたのは奴の親父と二番目の兄貴のジゼルテだ。ストゥルツはハイドランドから戻ってきてから、ジゼルテに従う形で参戦した――元々はすっげえ仲良かったんだよ。ストゥルツはああいう見た目だろ? しかも争い事を嫌がるから腑抜けだと思われて、親父からも他の兄弟からもいないもん扱いされてたんだ。ジゼルテだけが気にかけてた。よく土産持ってうちの村に来てたぜ」

「それ、がなぜ返り討ちなんて関係に……」

 花畑で花の縄を掲げて笑っていた幼いストゥルツの姿が脳裏に浮かんで、知らず呼吸を詰める。

「まあ、ありとあらゆる面でストゥルツのほうが上だったからな。体つきもよけりゃ学もある、気性もさっぱりしてて、面倒見がいい。圧倒的な戦上手な上に、後ろ盾とやらが妙な口出しをしてくることも、そいつらにへりくだって好き勝手させることもねえ。戦功も人望もストゥルツのほうがってとなると、だんだん面白くなくなってきたんだろうな。ある日夜襲をかけられて、」

 目を見開いたオーレリアに、男は「だが、ストゥルツの方は全部察してた」と痛快そうに語る。

「それ自体が罠で、兄貴のほうは憐れ、海の藻屑と化しました、と」

「……そう」

 心の闇に付け込んでくる魔物について話していた時に彼が見せた表情の理由がわかった気がして、オーレリアは視線を伏せた。


 あの人はオーレリアと違って、実際に兄を殺した。それも仲の良かった相手を……。

(憎い相手を殺せないのと、大事な相手を殺すの、どっちが辛いかしら)

 オーレリアであれば前者だ。これまで生きてきた中での最大の後悔は、父をこの手で殺せなかったことだ。母や兄が今この瞬間生きていることも耐えがたい。

 でも、例えばソフィーナなら、きっと後者の方が辛いという気がする。それはわかるけれど、なぜソフィーナがそう判断するのか、オーレリアにはわからない。大事な人を殺す辛さが想像できない。

(……って、当たり前か。大事な人、いたことないもの)

 自嘲ではあったけれど、くすりと笑ったオーレリアに、ほっとしたのだろう。気を良くしたらしい、単純ではあるが善良な男は、次に声をひそめた。

「姫さん、島に着いたら、『兄貴の嫁』に気をつけな。女たちの話によりゃ、ストゥルツを殺せと兄貴を唆したのはそいつだってさ。その兄貴が死んだ今は乗り換えて、ストゥルツの妻の座に納まろうって、あれこれ画策してるぜ」


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