27.船出
あれから黒い雲が急速に空を覆ってゆき、午後からはストゥルツやガラファの言った通り、風が強まった。夜には雪になるだろうとヴォーバリア人たちは口を揃え、それもまた的中した。
雲に覆われて低くなった夜空から、白い雪花が続々と降りてきて、街を覆っていく。家や店に灯る明かりが雪の一片一片をほのかなオレンジ色に染め、街全体が闇の中に淡く浮き立って見えた。
昨日に引き続いて領主の館に泊まったオーレリアは、その光景をよく見たくて、ミーナに「風邪を引きますよ。というか寒い! なんでそんな変なことばっかりするんですかーっ」と文句を言われつつ、部屋の窓を開け放った。
街の上空を通って、顔に吹きつけてくる寒風は、刺すように痛くて、鼻の奥もつんとする。吐く息で視界がいちいち白く濁る。周囲は静まり返っていて、雪が降り積もる音が聞こえてくる。すべての感覚が新鮮だった。
それがオーレリアの母国での最後の夜になった。
翌朝は昨日が嘘のように晴れた。ほの暗いうちに雪の積もった街に出、その先の港へと向かう。
高い踵の靴を脱ぎ捨て、昨日港から戻る際にストゥルツを連れて見物した街で買った、不格好なブーツを履いた。獣の臭いがするけれど、温かい。
領主の館から外に出れば、路面は真っ白だった。恐る恐る足を出す。
足元で踏みしめられた雪がきゅっ、きゅっと音を立てる。ブーツを勧めてくれた店主は誠実だった。彼の言った通り、雪でも滑らない。
ストゥルツと、見送りに出てきた領主のリディラが話しているのを放って、オーレリアは一歩一歩確かめるように歩き出した。
「ちょっと、どこに行く気――」
「前に出ないで」
追いかけてきたガラファを、腕を横に伸ばして制する。
行く手の雪は薄明の中で青く浮かび上がっている。まだ誰にも踏まれておらず、歩くたびに、そこに自分の足跡が残っていく。
いずれ誰かの足跡が重なるか、溶けるかして消えてしまうだろう。
でも、少なくとも今、オーレリアは確かにここにいて、自分の意思と足で歩いていて、その痕跡を雪がとどめてくれる。
「……ひょっとして雪に足跡が残るのが楽しいとかいうやつ? 子供かよ」
馬鹿にされているのは確かだけれど、なるほど、これは子供のすることらしい、と知ったら、怒るより何より笑えてきた。
くすくすと笑い出したオーレリアを変な物を見る目で見ていたガラファが、「あんた、こんなこともやったことないのか」と呟いた。今度の声には馬鹿にするニュアンスはなかったので、素直に肯定する。
「そう。外を自由に歩いたのは、これまでの人生で二回だけ」
オーレリアは身を屈めて、微妙にどきどきしながら雪を手に取った。軽い。冷たい。痛い。
我慢して、丸めてみる。ちゃんと真っ白な球になって、満足を顔に浮かべた。この調子なら、幼い頃、絵本で見た雪だるまも作れるのではないだろうか。
「……出港が遅れちまうだろ。その辺にして領主んとこに戻りな」
冷たく、赤くなった指に息をかけて温めていたオーレリアは、いい気分に水を差されて眉根を寄せた。
眉尻を下げたガラファが頭を掻きながら、顎で後方のストゥルツたちを指し示す。
リディラと話していたストゥルツが、こっちを見て手を挙げたが、戻りたくない。
「私らの島でも雪なら降る。好きなだけ足跡つけて、雪玉でもなんでも勝手に作って遊べばいいだろ」
「……そんなことできるの」
人質として監禁、そうでなかったとしても、てっきりハイド城にいた頃のように閉じ込められると思っていたオーレリアは、目を瞬かせた。
「あんた、私らをなんだと思ってるんだよ」
「なんだって……なんだろう」
改めて考えたことがなかった。
彼らはヴォーバリア人だ。北の海洋民族で、オーレリアの育った場所とは違う文化を持つ。
だが、人は人だ。オーレリアにとって『人』は皆敵だった。オーレリアの自由と尊厳を奪う存在――。
「私、そういえば、あなたたちのこと、よく知らない。あなたのことも。知らないのに、きっと私から自由を奪うに違いないって決めつけた……」
オーレリアのことを知ろうともせず、見た目だけであーだこーだ決めつけて、好き勝手に扱ったハイドランド人たちと何が違うのか――。
「……うちは自分の責任さえ果たしてりゃ、他人にがちゃがちゃ言わないよ。わかったら、さっさと戻ってあんたの責任を果たしな」
「嫌。その責任に私、納得いってない」
「っ、珍しく神妙だと思ったら、我がままなのは変わんないのかっ」
「っ、私に許可なく触れるなと言っているでしょう」
「知るかっ」
勝手にオーレリアの手をつかんで引っ張っていくガラファの手は、同じ人間なのかと思うほど温かい。
そのオーレリアをなぜかリディラは笑いながら迎えた。
噂や華やかな装いからのイメージと違って、オーレリアが宝石もドレスも好きではないことを彼女は知っていたらしい。改めてオーレリアに向き直った彼女から渡された餞は、物ではなく、言葉だった。
「『たくさんの本を読み、たくさんの人と話し、自らの五感でたくさんのものを感じて、学びなさい。自分の不出来を冷静に見つめ、正す努力をしなさい。自分が何を成すべきか考え、そのために為すべきことを実行なさい。決してあきらめることなく』――アーソニア家の者が授けられる人生訓です」
彼女は彼女の姉である、今は亡きハイドランド正后メリーベルそっくりの穏やかな笑顔で、「オーレリア・メルケ・キ・ハイドランド殿下のヴォーバリアへの航海のご安全と、先々のご多幸を心からお祈り申し上げます」と口にした後、鼓舞するかのように微笑んだ。
「ご武運を」
その瞬間、すとんと何かがオーレリアの中ではまった。
係留された船に乗り込み、水平線に顔を出した朝日に迎えられながら港を出た。漁に行くのだろうか、漁船と思しき船が複数、沖に向かっている、
ヴォーバリア人たちの船はそのどれよりも足が速かった。あっという間に白波の立つ場所まで来た。
空の大半を雲が覆う中、わずかな合間からオレンジの日が差し込む。海はまだ波がうねっていて、甲板に立って、遠ざかっていく祖国を見つめるオーレリアを上下左右に揺さぶった。飛沫混じりの凍えるような風は肌を切るように感じられた。
「寂しいか」
「まさか。いずれ焼き払おうと考えている土地よ」
物騒な答えに、ストゥルツはくくっと笑う。
「ストゥルツ、笑いごとじゃない。そいつに気を許すな。徹頭徹尾ろくでもないことしか言ってないだろう」
もっともな介入をしてきたのは、顔に傷のあるヴォーバリア人だ。風を見、帆の向きを調整している最中だった手を止め、飽きもせずオーレリアに猜疑と警戒の目を向けてくる。
「綺麗な笑顔で、歌うようにえげつないセリフを吐くもんなあ」
「やることなすこと過激。となると、故郷を滅ぼすってのも本気っぽいなあ」
「ま、祖国恋しさで泣き暮らされたり、恨まれたりするよりはいいけどよ」
同じ作業をする者たちがケラケラと笑うのを、傷の男は苦虫を嚙み潰したような顔で見た。ストゥルツも「退屈しなくていいだろ」と言いながら、その彼に向けて笑っている。
風にあおられた髪と、同じ風に舞い散った雫が視界を遮る。目を眇めた瞬間、大波に乗り上げた船が大きく傾いでよろけた。
倒れるかと焦ったのに、ストゥルツによって支えられた。相変わらず気安く触れてくる。
「……」
「? 何?」
片目を眇めて見られ、同じ顔を返した。
「相変わらず礼が言えないんだな、と」
――そうだった。
誰に対してもどんな時でもありがとうとごめんなさいを言う、そう教えてくれたのは幼いストゥルツだ。
またも忘れていたことが気まずくて、今度は顔全体をしかめた。
「……支えてと頼んだ覚えはないわ。勝手にやっておいて恩着せがましい――と言えば、これも相変わらず?」
「だな」
ストゥルツがやれやれとでもいうように首を横に振って、視線が逸れた。
その隙をついてオーレリアは息を吸い込む。そして、「あ、りがとう」となんとか口にした。が、声はすっかり裏返ってしまった。
(……なんで自然にできないんだろう)
咄嗟に顔を俯けたものの、体表に血が集まってくる。
お礼を言う――なんて難しいことなのか。多くの人はこれが当たり前にできるのだ。やはり自分は出来損ないだ、と痛感する。
ストゥルツが凝視してきているのがわかったから、余計居たたまれなくなった。
「やればできるじゃないか」
「……」
ふっという吐息が聞こえた後、かけられた言葉に目をみはった。顔を上げれば、ストゥルツのアイスグリーンの目の端は緩んでいる。
「こ、子供扱いしないでくれる。年下のくせに」
「年下と言ったって、半年程度だ。大体その俺より子供のくせに」
「っ」
腹立たしいが事実だ――唇の両端を下げて、オーレリアはストゥルツに背を向け、音を立てて舳先に座り込んだ。
「『妖精が舞うかのような、軽やかなお振る舞い』ねえ。噂ほど当てにならないものはないな」
「今さら、しかもあなた相手に取り繕ったって仕方がないでしょう」
「ひどい扱いだ」
唇を横に広げて歯を出してみたのに、ストゥルツの声には笑いが含まれている。
色々気に入らないけれど、最たるは不機嫌なオーレリアを気にする様子なく、横に座り込むところだろう。
「ミーナは?」
「はしゃいで船の先頭に行ったはずだけれど……って、戻ってきたわ」
船の進行方向を見遣れば、真っ青な顔をしたミーナが両脇を支えられてよろよろと歩いてくる。支えているのはガラファだ。うんざりとした顔をしてはいるが、文句も言わず、手荒に扱うわけでもない。
(ひょっとして……お人好し?)
なんとなくソフィーナが重なる。もっともあの子はせいぜい苦笑程度で、うんざりとした顔を見せることもなかったが。
「オーレリアさま、私、もうダメかもしれません……」
「船酔いで死ぬことはないそうよ」
「冷たいぃ、いつにも増して冷たいぃ」
「だって私にできることはいつにも増してないもの」
「オーレリアさまって、どこまでもリアリストですよね……見た目はお伽話の主人公なのに、ほんと詐欺……」
「……それだけのことが言えるなら、なおのこと大丈夫よ」
白い目を向けたが、死んだような顔をしているくせにミーナは止まらない。
「オーレリアさまはなんでそんなに平気なんですか……って、そうでした、見た目と違って、繊細さの欠片もない方でした……」
(本当のことだけれど、そこまで言う?)
ミーナのせいか、顔を引きつらせたオーレリアのせいか、ストゥルツを含む周囲のヴォーバリア人が吹き出した。
誰かに笑われる――これまでの人生で経験したことのない事態にオーレリアは顔を真っ赤にすると、八つ当たり半分にミーナを睨み、「船倉に行って、大人しく寝ていなさい」と権高に告げる。
「はーい……うー、気持ち悪……」
「……」
ふと、その彼女を支えるガラファと目が合った。
笑うわけでなく、嫌みを言うわけでもなく、オーレリアを見つめる彼女の様子に疑問を持ったが、彼女はすぐにミーナを連れて行ってしまった。




