第5話:みんな笛の音についていった①
戦線に復帰して数日。俺の生活もまた、緩やかに元の軍律へと組み込まれていった。
ようやく回ってきた非番の午後に、安物のコーヒーが注がれたマグカップを手に取る。その湯気の向こう側から、場違いに陽気な旋律が鼓膜を叩いた。
営倉のカビ臭い静寂よりも、この休憩室に流れる軽薄なほど陽気なサックスの音色の方が、よっぽど俺の耳には新鮮に響く。
「ったく、軍歌なんて聴いてたら戦う前に脳みそが錆びちまう。俺はもっとこう、都会的でスピーディーなジャズが好みなんだ」
リュオンは、磨き上げられたパイプを指先で弄びながら、自慢げに笑う。彼がどこからか調達してきた旧式の蓄音機からは、スワスチムの錆臭い前線には似つかわしくない、華やかな旋律が響いていた。
「少尉。その都会的な旋律、悪くはないが、この基地には少しばかり洒落すぎじゃないか?」
俺が苦笑いしながら応じると、リュオンは待ってましたと言わんばかりに身を乗り出した。
「そうか? 実家の妹も、俺が送ってやった最新のディスクが気に入ったらしくてさ。お前らももっと感性を磨けよ。音楽はいいぞ」
リュオンは上機嫌に妹の話を続ける。その軽口を聞き流しながら、俺は斜め向かいに座るクローディアを盗み見た。
彼女はと言えば、驚くほどいつも通りであった。カップを持つ指先は微塵も震えず、背筋は定規を当てたように真っ直ぐに伸びている。
一週間前、彼女は民間人の命を塵ほどにも思わず、俺の制止をノイズと切り捨ててレールガンの照準を固定した。あの時の、すべてを拒絶して自閉した凍てつくような顔が、脳裏にこびりついて離れない。
だが、今の彼女はどうだ。コーヒーを啜り、優雅に談笑の輪に加わっている。俺と怒鳴り合ったことも、引き金に指をかけたことも、まるで最初から無かったかのように。
負い目も、引け目も、あるいは俺への反発すらもない。以前の少し頭の固い、だが“規律に忠実なクローディア中尉”という名のシステムが、そこに完璧な形で再現されていた。
過去を無かったことにできるその精神構造。それが、どんな怪物と対峙するよりも、俺の背筋を冷たく撫でる。
「中尉。あなたもこの周波数帯域の音楽を推奨しますか?」
リルの問いかけに、クローディアは淀みのない動作で応じる。その瞳は、光学センサー特有の冷ややかな光を宿したまま、俺の胸の内を見透かそうとしているかのようだ。
「私は遠慮しておく。少尉、静寂こそが一番の贅沢だ。音が重なると、どうしても昔の戦地を思い出す。落ち着かないんだ。任務を完遂するためには、余計な喧騒は排除したい」
不要なノイズを完全にシャットアウトするかのような断絶を受け、リルは静かに視線を俺へと転じさせた。“触らぬ神に祟りなし”というわけである。
「准尉。あなたの心拍数から推測するに、ジャズよりも馴染みのある旋律の方が、効率的のようです。故郷の民謡を再生しましょうか? データバンクから該当する旋律を抽出可能です」
故郷の歌。
脳裏に、夕焼けに染まった麦畑と、その中を走る小さな影がフラッシュバックした。幼い妹が、音程の危うい声で口ずさんでいた、優しくて少しだけ悲しい調べ。
……だめだ。思い出すな。それはもう、この世界のどこにも存在しない音だ。喉の奥が不自然に渇き、胃の底に鉛を流し込まれたような不快感が込み上げる。
「いや、いい。音楽なんて、戦場じゃノイズにしかならん」
即座に思考を遮断し、冷めきったコーヒーを一気に飲み干した。椅子が床を擦り、乾いた音を鳴らす。その余韻を断ち切るように、俺は立ち上がった。
「機体の調整に行ってくる。とっくに新品のパーツが用意されてるはずだろうからな」
「なら、俺も機械いじりに付き合うか。リル、中尉のことは任せるぞ」
「お任せ下さい」
休憩室を後にした俺とリュオンは、第一整備ドックへと足を向けていた。
重厚な気密扉が開くと、そこには一週間前までの死臭の漂う鉄屑の山ではなく、白々しいほどに磨き上げられた愛機たちが、それぞれの専用ケージに鎮座していた。
俺の標準型トリオンに、リルの解析仕様トリオン。そして、重装甲高火力を誇るリュオンとクローディアのギガントが二機。いつもの景色だ。
「へえ、軍上層部もたまには粋な真似をするじゃないか。予備パーツをごっそり回してくるとはね。おかげで、僕の相棒の歪んだフレームも、新品に差し替わってやがる」
リュオンが口笛を吹きながら、愛機の主脚に歩み寄る。その手つきは、単なるライダーのそれではない。指先で装甲の合わせ目をなぞり、わずかな段差やボルトの締め具合一つで、整備兵の腕を値踏みするような鋭さがあった。
さらに、隣に鎮座する俺のトリオンの検分まで始めてしまう。よほど機械いじりが好きらしい。
「准尉、こいつの出力系統を見てみろよ。第四世代の改修キットが組み込まれてやがる。まあ、設計自体は三十二年も前の骨董品だけどな。そういえば中央じゃ、そろそろ次世代機の先行量産が始まったって噂だぜ?」
「俺たちのような“墓場”の住人には、縁のない代物だな」
「違いねえ。けどさ、機械ってのは最新ならいいってもんじゃない。要は、乗り手がどれだけその鉄塊の限界を引き出せるかさ。そうだろう?」
リュオンはそう言いながら、自分のギガントではなく、なぜか俺のトリオンの主脚の裏側に潜り込んだ。本来なら整備兵が扱うはずの微調整ダイヤルを、手慣れた様子で弄り始める。
「おい、少尉。何をしてる」
「出力の同調が甘いんだよ……ほら、これでレスポンスが〇・一秒は縮まる。ったく、ここの整備兵はマニュアル通りに組むことしか知らねえ」
その手際は、以前リルの体内の爆弾を解除した時と同じく、迷いがない。一介のMA乗りにしては、あまりに現場の裏側を知りすぎている。
「お前、やけに機械に詳しいな。中央の学校じゃ、そんなことまで習うのか?」
俺の問いに、リュオンの動きが一瞬だけ止まった。だが、彼は顔を伏せたまま、くぐもった声で笑いを漏らす。
「さてね。人に歴史あり、ってことさ……よし、こんなもんだろ」
リュオンはそれ以上語るのを拒むように、俺の機体の下から這い出してきた。油汚れを拭いもせず、彼は不敵な笑みを浮かべて自分のギガントへと視線を戻す。
しばらく沈黙が横たわる。ドックに響くのは、オートでシステムチェックを知らせる一定の周期で刻まれる電子音と、遠くで忙しなく動くクレーンの駆動音だけだ。
リュオンが不意に、何かを思い出したように俺の顔を覗き込んできた。
「准尉。あんたがいた南方のヲアルヅ戦線じゃ、MAが紙切れみたいに引き裂かれるってのは本当か?」
話題が、機体の調整から血生臭い戦場の記憶へと転換する。ありもしない古傷が痛むような錯覚。俺は義肢の左肩を、無意識にさすっていた。
「ああ。知っての通りヲアルヅ人は、半人半皇獣だ。武器も持たず、ただの爪と牙で装甲をバターみたいに切り裂く。マシンガンの弾幕の中を踊るように近づいてくるんだ。特に国王直属の聖騎士団は、純粋な暴力の格差を見せつけてくる。ヘアツゥ人のように搦め手を使ってこないだけマシだがな」
「生身で、か。そいつはぞっとしないな」
リュオンが初めて、少しだけ真面目な顔をした。彼にもそれなりに腕に覚えはあるのだろう。だからこそ、俺のかつての戦果が気になっているようだった。
まだまだ彼が求めるエースの座とやらは、遠くにあるらしい。
そんなりとめもない会話を嘲笑うかのように、緊急招集の警報が鳴る。
「真面目な話をすると、これだ。ああ嫌だ嫌だ」
リュオンは大袈裟に肩をすくめ、肩に担いでいたパイプを、まるでどうでもいい鉄屑のようにドックの床へ無造作に放り投げた。
「愚痴るなとは言わん、行くぞ」
休日気分を粉砕された俺達は、互いに肩をすくませ合いながらも、足早にドックを後にするのだった。




