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アリソンがくれた本を開き、ページをぱらりとめくる。そしてすぐにぱたり、と閉じた。
「やっぱり納得いかない! なんであのアリソンが、そんなひどい目に遭わなきゃいけないの」
大きな声を上げたと同時に、自室の扉が開きリリーが顔をのぞかせた。
「どうなさったんです? そんな大きな声を出して」
「私、やっぱりこのまま放っておけないわ。このままじゃアリソンがあんまりにも報われないし、下手をしたら殺されるかもしれないのよ?」
腹立ち紛れに抱えていたクッションを思い切りぼすん、とベッドに投げつけた。
「そりゃあ確かにいくらなんでもおかわいそうだと思いますけど、でも双方のご当主様が決めたことですもの。アリソン様自身も納得づくみたいですし、どうしようも」
「それが一番納得できないんだってば! なんでアリソンったら、あんなふうになっちゃったのかしら。アリソンらしくない」
もちろんアリソンの何もかもを知っているわけじゃないし、誕生日のあの一度きりしか会っていない。でも評判というものは、引きこもっていてもそれなりに聞こえてくるものなのだ。
貴族界で令嬢の鑑と言えば、アリソン。アリソンと言えば令嬢の中の令嬢なのだ。いつだって凛として輝いていて、努力に裏打ちされた自信に満ちていて。それなのに、不幸な婚約がアリソンをあんな無気力な人間に変えてしまった。それが悔しい。
誕生日パーティで自分に言葉を投げつけたアリソンは、もっと強く凛としていた。きっとアリソンの日常の努力が透けて見えたせいだろう。思わず納得してしまうほどの説得力があった。だからこそずっとあの言葉が記憶に残っていた。生まれ変わるには、アリソンに教えを請うしかない。そう思うくらいに。
でもそのアリソンが、あんなに気弱に人生をあきらめている。自分のしてきたことはすべて無意味だった、努力を積み重ねてきた日々は無駄だったと思い込んでいる。それが無性に腹が立った。
むう、と口を尖らせ思案する。
「もしマルセルが本当にそんな悪事を企んでいるんだとしたら、国に訴え出れば婚約だってなかったことにならないかしら? 何か証拠か何かを見つけて、妻殺しの大罪人として突き出すのよ! どうかしら」
「証拠なんて、どうやって見つけるんです? 話だってあんなに断片的じゃ、とても相手にしてもらえませんよ」
リリーの返答に、フィンは眉を寄せた。
「それが問題よね。もしもマルセルが婚礼後すぐにアリソンを殺そうとしているんだとしたら、その実行犯がいるはず。あのゴロツキたちはそのために雇われたってことはないかしら」
リリーの顔色がさっと変わった。
「ちょっと、フィンお嬢様? 何をするおつもりなんですか。危ないことをなさるつもりなら、このリリー。許しませんよ?」
リリーががしっと肩をつかみ、ゆさゆさと前後に揺さぶる。
「そ、そんなこと言ったって、見て見ぬふりはできないわ。大丈夫。そっと離れたところから奴らを監視するくらいなら」
「絶対だめです! お嬢様はあいつらに顔を知られてるかもしれないんですよ? もしもお嬢様が口封じに命を狙われたりしたら、私は……」
リリーが体をぶるりと震わせた。
「それに今は他の人の婚約なんて気にしてる場合じゃありません。まずは傷ついたお心を癒して、体をゆっくり休めるのが先決ですとも」
こうなっては仕方ない。
曖昧に返事を濁し、リリーをどうにか落ち着かせた。そして翌日、適当な嘘をついてフィンはひとりで屋敷を飛び出したのだった。
◆◇◆
アリソンにとって、自身が貴族として生まれついたということは何より特別なことだった。別に平民よりも偉いからとか、贅沢ができるからなんてことじゃない。平民には平民の、貴族には貴族の務めというものがある。その責任の重さは、貴族がはるかに上だ。
ならば貴族として生まれついた以上、恥ずかしくない生き方をせねばならない。そのための努力も研鑽も責務だと思っていた。
もちろん貴族の中にも、どうしようもない人間が多くいるのは知っている。何の努力もせず特権を行使するだけの者、自分の立場に安穏と胡坐をかいて怠惰に生きている者だって少なくない。でもそのひとりに自分がなる気はさらさらなかった。
けれどまさか、婚姻によって自分がそのひとりになり下がるなんて思ってもみなかった。
妻となったのに後継ぎとなる子も産まず、女主人として家を守ることもない。結婚した本宅に足を踏み入れるどころか、近づくことさえ許されないのだ。そして、近隣に町もない辺鄙な地に立つ別邸に、自分ひとりだけが暮らす。まるで何か悪いことでもしたかのように、ひっそりと息をひそめて。
「そんな人生、何の意味があるのかしら。ふふっ。まぁ婿入りという体で結婚するのだから、ルグレイ家の名は残せたと言えなくもないのかしらね」
乾いた笑い声が、部屋の中に響いた。
ついさっきまで向かいに座っていた少女との出会いを、つと思い出す。
あれは確か九歳の誕生日パーティの席だった。魔石の声を聞けるなんておかしなことを言い出したフィンに、思わず眉根が寄った。聞けばろくに令嬢として受けるべく教育も満足に受けずに、日がな一日魔石を掘り集めて遊び暮らしているらしい。九歳と言えば、楽しいだけの子ども時代が終わり、淑女教育も本格化する頃合いだ。なのにいまだそんな貴族としての自覚に欠けた暮らしをしているなんて。
気が付いたら、つい辛辣な一言を投げつけていた。
今思えば人前であんなことをいうべきではなかった。それこそ淑女として失礼極まりない行動だ。きっと誕生日を迎えたことで、これからますます頑張らくなくては、と変に気負ってしまっていたせいだろう。
この先もう会うことはないだろう。あちらも自分をきっと避けるに違いないし、こちらとしても特に無理に付き合いをする関係性でもない。そう思っていたのだが。
「『立派な令嬢になるには、どうしたらいいか教えてほしい』だなんて、おかしな子。だとしたって、よりにもよって私にお願いにこなくたっていいでしょうに」
あえて自分に失礼な物言いをした相手に請うようなことではない。
突然押しかけてこられて、迷惑でなかったと言えば嘘になる。正直もう誰にも会いたくなかったし、憐れまれるのもごめんだった。でも――。
「ふふっ。皮肉なものね。唯一私のために怒って泣いてくれたのが、あの子だなんて」
両親は自分を道具としてしか見ていない。親戚だって、一族が存続できればそれでいいのだ。
それなりの関係を築いていたと思っていた令嬢たちも、今ではすっかり遠ざかった。かわいそうな婚約の末、社交界に顔を出すことももはやできず忘れされていくしかない存在と、もう付き合っても仕方がないということなのだろう。
けれどあの子だけは違った。自分のために、なんてひどい話だと本気で泣いて怒ってくれた。久しぶりに生身の人間の心に触れた気がした。打算とか見せかけだけの態度ではない、感情をむき出しにしたありのままの心に触れたような。そのことが何とも心を穏やかにしていた。
「フィン・ランバート、ね。本当、おかしな子」
もうきっと会うことはないだろう。あとひと月もすれば、自分は王都から遠く離れた僻地の別邸へと旅立つ身なのだ。
ひと月後には伴侶となる予定の婚約者、マルセルは、自分に欠片ほどの興味も抱いていない。関心があるのは、ただ婚姻によって手に入れる伯爵という称号と、それを使ってお金儲けをすることだけ。あぁ、あとは愛する恋人との生活もだろうか。
マルセルのどこか人を小馬鹿にしたような顔を思い出し、アリソンの眉が吊り上がった。
「……ふん」
形だけでもあんな男の伴侶となることが、悔しくてたまらない。もしも時を戻せるのなら、こんな運命から逃げ出してしまいたい。けれどもう今さらだ。それにあの男との婚姻がなければ、ルグレイ家は破滅せざるを得ないのだ。つまり自分は、ルグレイ家を救うための犠牲というわけだ。
もとから愛で結ばれた結婚ができるだなんて、夢を見ていたわけじゃない。それでももう少しましな人生が待ち受けていると思っていた。せめて貴族としての矜持くらいは心に残したまま、生きていけると。が、それももう叶わない。
時折見せるマルセルの何かを企んでいるかのような嫌な顔つきが、ずっと心に引っ掛かっていた。あの男が腹の底で何を考えているのか、わからない。もしかしたら自分が知らされているよりももっとよからぬことを、考えている可能性もなくはない。
それを思うと、すっと背筋に冷たいものが走る。そんな嫌な予感を、ぶるりと頭を振り追い出した。
「もう……何もかも遅いわ。今さらだもの」
けれどせめてあの子――フィンが、婚約解消の失意からわずかでも立ち直り幸せな人生を送ってくれたらいい。
そんなことを思った。




