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見慣れた自室の天井を見つめながら、フィンは海よりも深い息を吐き出した。
『他に大切な人ができたんだ。さよなら、フィン』
脳裏によみがえったその声を、頭をぐしゃぐしゃにかきむしり追い出した。
降ってわいた婚約解消から、五日が過ぎた。あれから一日のほとんどをベッドの上で過ごしている。ローグが去ったあとあまりのショックから失神し、高熱を出して寝込んだのだ。
どうにか熱は下がったものの、泣き過ぎて瞼がまともに開かないほど腫れ上がり、嗚咽する声ももはやガサガサだ。
「ふっ……! うぅっ……」
シーツの向こうで、リリーが心配そうにのぞき込んでいるのはわかっている。でも顔を出す気にはなれなかった。できることなら、このまま一生シーツにくるまっていたい。屋敷どころかこの部屋のシーツの中で引きこもり続けたいくらいだ。
(きっと魔石オタクの私と一生をともにするのが不安になったんだ。いつだって魔石に夢中で、ちっとも普通の令嬢らしくないから。だから呆れて他の人に……)
ローグは悪くない。そもそもこんな自分に婚約を申し入れてくれたこと自体が、奇跡だったのだ。
ローグと出会ったのは、とある令嬢の誕生日パーティだった。他の招待客の子息令嬢たちが、魔石オタクの変わり者の自分を指差し笑う中で、ローグは優しく声をかけてくれた。
『魔石と話ができるなんて、君はすごいね』
皆の輪から離れ、ひとり寂しくお守り代わりの魔石のペンダントをなでていたら、頭上から声が降ってきた。
『え?』
何の役にも立たないただのきれいなだけの魔石に情熱を傾ける自分を受け入れてくれる人なんて、家族やリリーたち以外には誰もいない。きっとからかいにきたのだ。
そんな卑屈な気持ちで顔を上げれば。
『誰にも聞こえない声が聞こえるなんて、とても素敵だよ』
そう言って笑うローグの顔は、まるで優しいお日様みたいだった。
それからしばらくして、ローグが婚約を申し入れにやってきた。
なぜローグが自分を気に入ってくれたのかはわからない。魔石に向ける真っ直ぐな情熱が素敵だったから、と言っていたけれど。
自分は次男で、優秀な兄と比べ何の取り柄もない。嫡男じゃないから家督も屋敷も継げないし、せいぜい官吏として王宮の端っこで地道に働くしかできない。それでもよかったら一緒に人生を歩んではくれませんか。
そう言われて、天にも昇る気持ちだった。あれから三年、これからもこんな穏やかな幸せがずっと続くと思っていた。なのに――。
(やっぱり私には過ぎた幸せ、だったんだよね。こうなったら、ローグの新しい恋を応援してあげなくちゃ。それがローグの幸せなら)
ローグが好きになるくらいだ。きっと素敵な令嬢なのだろう。心優しくてかわいくて、女性としても伴侶としてもとびきり素敵な。
ひっくり返ったって、そんな女性にはなれない。ただの魔石オタクの引きこもり令嬢には、生まれ変わったって無理だ。
「私……ローグの優しさに、甘えてきたんだわ。君はそのまま変わらなくていいって言う言葉を鵜呑みにして、何の努力もせずにきてしまったもの」
後悔の言葉が口をついた。
魔石オタクであることは変えられなくても、苦手な社交を頑張るとか義家族ともっと関係を積極的に深めてみるだとか、何かやれることはあったはず。なのに無理をしなくていい、というローグの言葉に甘えてしまったのだ。もっと頑張ればよかった。駄目なら駄目なりに、努力を重ねればよかったのに。
「今さら気づいたって、遅いよね。だって私はもう、ローグの婚約者じゃないんだもん……」
幼い日から集めてきた魔石たちからいつもなら聞こえてくるはずの、にぎやかな声が聞こえない。とりどりの色も暗くくすんで見える。
幼い日に投げつけられた、ある言葉がよみがえった。
アリソン・ルグレイ。ローグと出会った誕生日パーティの主役だった少女。裕福な伯爵家のひとり娘で、見た目も所作も話し方も、招待客への接し方も、同じ年頃とは思えないくらい素敵な令嬢だった。
そのアリソンへの贈り物として、フィンはきれいな便箋やハンカチと一緒に、お気に入りの魔石を持参した。
『これ、私が大切にしている魔石なの。よかったらどうぞ』
生まれてはじめて誕生日パーティに呼んでもらえたことがどうにも嬉しくて、舞い上がっていたのだろう。それが間違いだった。
『魔石? なぜこんなものを私に?』
一瞬にしてアリソンの顔から笑みが引いた。
『あの、魔石はすごくきれいだから。それにお守りにもなるし』
もごもごと言葉を返せば、やりとりを見守っていた他の令嬢子息たちから一斉に笑いが起きた。
『魔石なんてただの石ころを、アリソン様の贈り物に? 嫌がらせのつもりかしら』
『ガラス玉以下のゴミがお似合いだ、とでも言いたいのか?』
『最低ね! 失礼にも程があるわ』
『あの子、暇さえあれば土だらけになって魔石を掘ってるそうよ』
『変な奴。魔石じゃなく、屑石の間違いだろ』
それまで楽しげだった場の空気が一瞬にして冷えた。
失敗した。魔石が好きだなんて皆に笑われるだけなんだし、誰にも言ってはいけなかったのだ。まして、贈り物なんかにしてはいけなかったのに。
後悔からうつむいていたら、アリソンが言った。
『あなたは自分の姿が周囲にどう映っているのか、令嬢としてどう振る舞うべきかがまるでわかっていないのね。令嬢としての矜持が足りないわ』
『矜持?』
『もっとしっかりなさいな。貴族の娘として必要な教養も矜持もない。ふさわしい振る舞いもできない。そんなことでは、大切なものを何ひとつ守れないじゃないの』
貴族の子として生まれついたからには、その一族の未来を自分が背負うのだという矜持を持つべきだ。たとえ子どもでも、自分の振る舞い方や考え方がゆくゆくは家の評判に返ってくるのだから、常に自分を磨く努力を怠ってはならない。
アリソンはそう説いて聞かせた。
呆然とするばかりで、何も言い返せなかった。皆の輪に戻る気にもなれず、ひとり過ごしていたらローグと出会った。
ローグとの出会いをくれたという意味では、アリソンに感謝している。言われた言葉も決して間違いだとは思わないし。それにアリソンは、笑う他の子息令嬢たちを止めてくれた。人を笑い者にして嘲笑うのは恥ずべきことだと言ってくれたし、アリソン自身はちらとも笑ったりしなかった。
だからアリソンを責める気持ちは全然ない。でもあまりに皆に笑われたのがショックで、以来屋敷に引きこもり一切の社交を止めた。どうせ自分は、アリソンのようにキラキラとした存在にはなれない。だったら土中でひっそりと身を潜める魔石のように、隠れていればいい。どうせ誰も自分のことなんて気にも留めないのだから、と。
でも、それは間違いだった。
(アリソンの言う通りだった。私がちゃんとしていなかったから、ちゃんと普通の令嬢らしく努力を重ねていなかったから、こんなことになっちゃったんだもの)
ローグを失った今、もう二度と幸せはやってこない。魔石の声ももうよく聞こえないし、輝きも失われてしまった。真っ黒な絶望とあきらめが、フィンの頭上に重く広がっていた。
カチャリ……。
何かがぶつかり合うかすかな音で、フィンは目を覚ました。
「あ、すみません。起こしてしまいましたね」
水差しとタオルを手にしたリリーが、心配そうにこちらをのぞき込んでいた。
「もうお熱はございませんね。よかった」
リリーの心からの安堵の声が、泣き過ぎて干からびた心に染みた。
ローグはもういない。でも自分にはまだ家族がいる。どんな自分も受け入れ、どんな時も見捨てずにあたたかく見守ってくれる両親と、そしてリリー。三歳の時からずっと自分に仕えてくれ、魔石掘りにも嫌な顔ひとつせずに付き合ってくれる、大好きなリリー。
(いつまでもこんなふうに引きこもってちゃだめ、だよね。この先も皆に心配をかけっ放しなんて)
フィンの頭に、ひとつの考えが浮かんだ。
「……ねぇ、リリー」
「何ですか? フィンお嬢様。何か食べたいものでも? 何でもご用意いたしますよ」
リリーが身を乗り出した。
「私、決めたわ」
「え?」
「私、アリソン・ルグレイに会いに行ってくる。会って、貴族令嬢としての矜持とあり方を教えてもらうの」
リリーの口が、あんぐりと開いた。
「アリソン・ルグレイって、あのルグレイ伯爵家のお嬢様ですか? なんでですかっ。なんであんな性悪令嬢のところに」
がしり、と肩を強くつかまれた。
「だめです! 絶対に行かせませんっ。あんな性悪令嬢のところに行ったら、ただでさえ傷心のお嬢様の心がズタボロになってしまいます」
誕生日パーティでの騒動をよく知っているリリーが反対するのは、無理もない。リリーにしてみれば、アリソンは大事な主の心を深く傷つけた張本人なのだ。わざわざ傷口に塩を塗り込む必要なんてない。それはそうだ。
けれどフィンは、一歩も引く気はなかった。
「だめよ。どうしても私、アリソンに会わなきゃいけないの。私には令嬢としての正しいあり方――そうよ、矜持というものをちゃんと学ぶ必要があるんだもの」
納得がいかないと顔に書いてあるリリーの顔を、フィンは真っすぐに見返した。




