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このまま事を進めるわけにはいかない。ローグと完全に思いがすれ違ったまま突き進んでしまったら、きっともう二度と以前のような関係に戻れない。
フィンは意を決して、帰り際ローグを呼び止めた。
「ローグ。ふたりで少し話さない? 温室へ行きましょう」
黙って後ろをついてくるローグの表情は、険しい。
いつも日の光であたたかい温室は、今日に限ってどこか寒々しい。決して薄曇りの天気のせいだけではないはずだ。
「ローグ、さっきの話をする前に、聞きたいことがあるの。どうしてここのところずっと、私を避けているの? 目だって合わせようとしないし、私に会わないようにこそこそお父様に会いにきたりして。ね、どうして?」
ローグがはっとしたように、身を強張らせた。体からにじむ拒絶の色に、心が震える。
そっとローグを見やれば、その両手は固く握り締められていた。
「それは……だから、僕は……」
言い淀むローグの心にある思いは、一体なんだろう。婚約解消なんて極端な方法を使って傷つけてしまった、なんて気まずさだけではないはずだ。他の理由がきっとある。
「ローグは……、ローグはどう思っているの? これからのこと。これから先の、私たちのこと」
いつかは話さなければならないことだ。それが今日なのか、アリソンを救い出してからなのかの違いで。先延ばしにしていたって、傷が浅くなるわけじゃない。
ぎゅっと洋服の上から、ペンダントの魔石を握りしめた。
「私は、ずっとローグのことを考えてる。今まではローグがそばにいてくれるのが当たり前だった。それが日常になっていたし、いつまでも平穏であたたかい日々がこの先も続いていくんだって思ってた。でも」
でも、その当たり前がわからなくなった。
「婚約したら結婚して、当たり前のように娘から妻に、妻から母になるのが人生の答えだと思っていたの。こんなに穏やかで幸せなんだから、きっとそれでいいんだって。だから自分の心の声を聞いたことなんて、一度もなかったの。何もかもわかった気でいたの」
「心の、声?」
こくり、とうなずいた。
魔石の声はたくさん聞いてきたのに、自分の声は聞こえない。聞こうともしなかった。自分が何を望んで、どんな人生を歩みたいのかも、何を大切にしていきたいのかも。
「いつだって聞けたのに、聞かなかった。知ってると思ってた。でも何もわかってなかったの。私自身の、本当の気持ち。ローグへの気持ちも、自分自身に対する思いも」
アリソンの宿題は、恋だけじゃなかった。きっと自分自身への問いなのだ。自分は何者で、何を信じて、何を愛して大切にして、どう生きていきたいのか。そのうちのひとつが、恋であり愛なのだ。
「いつかはちゃんと考えなきゃいけないことだったんだろうなって、気づいたの。いつかはこうして向き合わなきゃいけなかったんだって。できればこんなふうに、ローグとぶつかって気づくんじゃなければもっとよかったんだけど」
ローグの目の奥で、不安の色が揺れていた。
「君は、何もかもわかったの? 自分自身の心も、これからのことも」
「……うん」
ローグはゆっくりと足元に視線を下ろした。
「あなたがさっきあんなに反対したの、私を心配してのことだってことはよくわかってる。ローグは優しいから」
たとえ婚約者でも、そうじゃなくても、きっと一度縁を繋いだ相手に冷たくできるような人じゃない。だからこそ、なぜこうも自分を避けるのかがわからないのだ。こんなにわかりやすく避けられたら、絶対に傷つくとわかっているはずなのに。
「私は、アリソンを守りたい。もちろん自分の身を守るためでもあるけど、アリソンは私の憧れなの。あんなふうになれたらいいなって、思う。凛としていて気高くて、賢くてきれいで。でも私は生まれた時から、私なの。私自身にしか、なれないってようやくわかった」
「君は、君でしかない? どういう意味だい」
そう問いかけるローグの声は、かすかに震えていた。
「きっと誰だってそうなの。あんなふうになりたい、とかもっとこうなりたい、とか。いつだって自分にないものをほしがって、手を伸ばすの。でもそれが本当に自分にとって必要なものなのか、価値のあるものなのかは自分で決めるしかないのよ」
他の誰かにとってはただの屑石でも、自分にとって魔石はいつだって心を躍らせる情熱そのもので、きっと一生ともにあるもの。他のものだって、きっと同じだ。
「私には魔石がとびきりきれいで素敵なものに思えるみたいに、その価値は私にしか見えないものなの。聞こえない大切なもの。そして私にとってのローグは――」
言いかけた時、ローグの体が大きく傾いだ。
ガタンッ!
「……ローグ?」
ローグが大きく目を見開き、こちらを見つめていた。足元に転がっていたのは、バケツだった。多分足でその辺に置いてあったのを偶然蹴ってしまったのだろう。
「僕は……、僕は……」
ローグの口が、落ち着きなくぱくぱくと動く。けれど声は聞こえない。
「何? ローグ。あなたの気持ちを聞かせて。あなたの本当の気持ちが知りたいの」
ローグの喉仏がごきゅりと動いた。
「僕は、だから」
ローグの声が震え、落ち着きなく視線が彷徨う。
胸が苦しい。まるで押しつぶされそうに、痛い。でも今話さなければ、きっと何もかもうやむやなまま終わってしまう。
「なんだか……ずっと私、あなたを追いかけているみたい。ずっと追いつけないの。どんなに走っても、呼び止めてもあなたは振り向いてもくれない。背中を向けたまま、先へ行ってしまうの」
そしていつしか見えなくなる。その未来はすぐ近くまでやってきている気がして、たまらない気持になる。
「でももう背中ばかり見つめているのは嫌。ちゃんと向き合って。私に話して。あなたのこと。ローグが何を思っているのか、これからどうしたいのか。それがたとえどんな答えでも、私ちゃんと聞きたいの」
ローグは押し黙ったまま、動かない。
「逃げてばかりいないで、ちゃんと気持ちを聞かせて」
アリソンに宿題を出されて、ようやく恋がどんなものなのかがわかった気がする。
恋は、思っていたみたいに甘くなかった。ただ穏やかで陽だまりみたいにあったかいだけじゃない。好きだからこそ時にドロドロもやもやとして、ほろ苦くもあるし苦しくもある。きっとこれまでローグと育てていたのは、恋よりももっと手前の幼い気持ちだ。
それをもっとちゃんとした恋に育てるには、互いに乗り越えなければならないものがたくさんある。そのことにようやく気が付いたのだ。それは自分自身を知ることでもある。それをなくしては、恋も愛もうまくいかない。
今にも崩れそうになる決意を留めるように、ぎゅっと両手を握りしめた。
「お願い。ローグ」
目の縁で、視界がふるふると震えた。今はまだだめだ。泣いてはだめ。自分に強く言い聞かせ、ローグの反応を待った。
「僕は」
今にも消え入りそうな声が、告げた。
「僕は、君のことを」
ぶるりと体が震え、思わずぎゅっと目をつぶった。けれどローグはそのまま何も言わず、その場からも逃げ出したのだった。
一度空いてしまった距離というものは、なかなかに埋まらないものだ。追いかけっこと同じだ。どんなに風を切って死ぬ気で走っても、背中は遠くに見えたまま。
温室でのローグとの話し合いは、結局何も聞けないままに終わった。ローグが逃げ出したのだ。
『ごめん。僕は……。本当にごめん』
温室から走り去るローグの背中に、もはや切なさは感じなかった。代わりに、ふつふつグラグラと熱いものがお腹の底からわき上がった。
こちらが悲壮な覚悟で向き合おうとしたのに、これが形ばかりとは言え元婚約者への誠意ある態度なのか。
「フィンお嬢様、お顔が怖いです」
リリーに眉間の皺を強引に引き延ばされた。
「案外男性の方が、いざとなると弱かったりするんです。フィン様の本気に圧されて、つい怯えてしまわれたのかもしれませんね」
「そういう……もの、かしら?」
「えぇ。そうでございますとも」
リリーがそう言うのなら、きっとそうなんだろう。
リリーの顔になだめるような、困った笑みが広がった。昔から心がいっぱいいっぱいになりそうになって暴走しそうになると、リリーはいつもこの顔をする。
「わかったわ。リリー」
リリーがこの屋敷にやってきて、もう十年になる。
傭兵上がりの父親に叩き込まれた武術の腕は相当で、周囲からは男顔負けの女性として恐れられていたらしい。その反動なのか、リリーは女性らしいものへの憧れが強かった。貴族のご令嬢のもとで働かせてもらえば、いつかきっと自分にもおしとやかさや女らしさが身につくかもしれない。
そんな夢を抱いて、何の縁もないランバート家の門を叩いたのだ。
リリーは父に切々と訴えたらしい。もし自分をお嬢様専属のメイドにしてくれたら、全身全霊をかけてすべてのものから守る。だから自分をメイドとして雇ってくれないか、と。
そしてリリーはやってきた。
『はじめまして。リリーと申します。今日から私が、フィリィお嬢様をすべてのものからお守りさせていただきます!』
そんな第一声に、幼いながら自分は何かに身を狙われているのだろうかと本気で不安になった覚えがある。
結局リリーの思い描いていたような令嬢ではまったくなかったわけだけれど、今もリリーはこうしてそばにいてくれる。まるで本当の姉のように、あたたかく時に厳しい態度で、ひたむきに見守ってくれている。
「ごめんね。リリーにも色々心配かけちゃって」
本当ならアリソンを救い出す前に、すっきりローグとの問題に片をつけたかった。リリーがずっと心配してくれているのが、ひしひしと伝わってきていたから。
その気持ちが天に伝わったのか、その日の暮れはじめた頃になって、突然に事態が動いた。
「フィンお嬢様! ローグ様が……、ローグ様がおいでになりました。フィンお嬢様に大切なお話があるそうですよ!」




