↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/8

営業

「私のこと、何だと思ってるの?」

その言葉を聞いた瞬間。

俺は、何も言えなくなった。

彼女は怒鳴っているわけではなかった。

むしろ、静かだった。

だからこそ、余計に重かった。

「……どういう意味?」

ようやく俺がそう聞くと、彼女は少しだけ困ったような顔をした。

「どういう意味って……」

「要するに?」

口から出た。

その瞬間。

彼女の表情が変わった。

「あ」

小さく、そんな声が聞こえた。

俺自身も気づいていなかった。

また言っていた。

「……それ」

「何?」

「今のもそう」

「?」

「『要するに?』ってやつ」

彼女は少し黙った。

「Aって、私と話してるときもそうなんだよね」

「どういうこと?」

「私が何か話すと、途中で『要するに?』って聞くじゃん」

俺は黙った。

「それだけじゃない」

彼女は続ける。

「私が何を言ったら喜ぶかとか、何を言ったら嫌がるかとか……そういうのを、すごく見てる感じがする」

「それは……」

「最初は、ちゃんと私のこと考えてくれてるんだと思ってた」

彼女は俯いた。

「私が好きなもの覚えてくれてたり、嫌なことを避けてくれたり。欲しいって言ったものを買ってくれたり」

俺は何も言わなかった。

「でも、最近わかってきた」

彼女が顔を上げる。

「それって、私を見てるっていうより……私を分析してるんじゃない?」

心臓が、一瞬だけ強く鳴った。

「……分析?」

「うん」

彼女は頷いた。

「私がどういう言葉に反応するのかとか。どうしたら機嫌がよくなるのかとか。どう言えば私がAから離れないのかとか」

「そんなこと――」

否定しようとして。

止まった。

できなかった。

なぜなら。

心当たりがありすぎた。

彼女が疲れている日は、無理に話しかけない。

機嫌が悪いときは、好きな話題を出す。

何か欲しそうにしていたら買ってあげる。

嫌がることは避ける。

喜ぶことをする。

それ自体は、恋人なら普通なのかもしれない。

でも俺の場合。

それを自然にやっていたわけではなかった。

相手の反応を見て。

その反応から次の行動を決めていた。

営業と同じだった。

相手を見る。

反応を見る。

考える。

言葉を変える。

そして、相手に自分の望む方向へ進んでもらう。

俺は、それを恋愛だと思っていた。

でも。

彼女からすれば違ったのだ。

「彼女には今って営業なんでしょ?」

「……え?」

「私に対しても営業の話し方で接してくるよね?」

彼女は少しだけ笑った。

でも、その笑顔は嬉しそうなものではなかった。

「私を何だと思っているの?」

そして。

「それによっては、別れようよ」

部屋が静かになった。

俺は彼女の顔を見た。

何か言わなければならない。

そう思った。

でも。

何も浮かばなかった。

いつもなら、言葉なんていくらでも出てくる。

営業なら。

相手が怒っているとき。

相手が不安そうなとき。

相手が迷っているとき。

どういう言葉を使えばいいのか。

どういう順番で話せばいいのか。

俺にはわかる。

だから。

「ごめん」

と言えばいいのか。

「そんなつもりじゃなかった」

と言えばいいのか。

「これから直す」

と言えばいいのか。

その瞬間。

頭の中で、いくつもの選択肢が浮かんだ。

そして。

俺は気づいた。

俺は今でも、この状況を「どう言えば彼女を引き止められるか」という問題として考えている。

彼女が何を感じているかではなく。

どうすれば関係を維持できるか。

その答えを探している。

「……ああ」

小さく声が出た。

彼女は黙って俺を見る。

俺は、妙に冷静だった。

彼女の言っていることは正しい。

たぶん。

彼女はずっと我慢していたんだろう。

俺に悪意があったわけではない。

でも。

悪意がなければ、人を傷つけないわけじゃない。

むしろ。

俺は彼女に対して、ずっと自分のやり方を押しつけていた。

だったら。

答えは簡単だった。

「……別れようか」

「……え?」

彼女が驚いた顔をする。

「いや」

俺は続けた。

「たぶん、そのほうがいいと思う」

「A……」

「ごめん」

俺は頭を下げた。

それだけだった。

泣くこともなかった。

怒ることもなかった。

引き止めることもしなかった。

彼女も何も言わなかった。

しばらくして。

「……そっか」

それだけ言った。

俺たちは別れた。

あまりにも簡単だった。

*

その後。

俺は別に落ち込まなかった。

少なくとも、自分ではそう思っていた。

仕事も普通にできた。

契約も取れた。

数字も落ちなかった。

むしろ。

彼女と別れたことで、仕事に集中できるようになった気さえした。

数週間後。

別の女性と知り合った。

付き合うことになった。

最初は普通だった。

一緒に食事をした。

映画を見た。

話をした。

俺は相手のことを知ろうとした。

何が好きなのか。

何が嫌いなのか。

どんなことをされると嬉しいのか。

どんな言葉を嫌がるのか。

そして。

少しずつ、俺の中にいつもの感覚が戻ってきた。

相手の反応を見る。

その反応に合わせて自分の言葉を変える。

相手が喜ぶ方向へ話を持っていく。

最初は、それでうまくいっていた。

でも。

ある日。

「Aって、なんか変だよね」

そう言われた。

「何が?」

「なんていうか……」

彼女は少し考えてから言った。

「話し方が営業っぽい」

俺は笑った。

「また?」

その瞬間。

自分でも少し驚いた。

「また?」

彼女は聞き返した。

「……何が?」

「いや、なんでもない」

それからしばらくして。

その関係も終わった。

理由は、ほとんど同じだった。

また別の女性と付き合った。

そして。

また同じことを言われた。

「なんか、私のことをちゃんと見てない気がする」

「どういう意味?」

「Aは私がどう思うかばっかり考えてる。でも、A自身が何を思ってるのか、よくわからない」

また。

別れた。

三人目。

四人目。

そして五人目。

結果は、ほとんど同じだった。

「営業みたい」

「話を誘導されてる感じがする」

「こっちの反応を見て言葉を変えてるよね」

「一緒にいるのに、なんか距離がある」

最初の頃は、俺も不思議だった。

「なんで毎回同じこと言われるんだ?」

でも。

五人目と別れた頃には。

さすがに気づき始めていた。

問題は相手じゃない。

俺だ。

*

ある休日。

俺は実家に帰った。

特に用事があったわけではない。

ただ、なんとなく帰りたくなった。

久しぶりに見る家は、昔と何も変わっていない。

玄関。

廊下。

リビング。

昔、自分が使っていた部屋。

全部そのままだった。

「おかえり」

母親が言う。

「ただいま」

俺はソファに座った。

父親もテレビを見ていた。

しばらく、どうでもいい話をした。

仕事のこと。

最近のこと。

そして。

俺は恋愛について話した。

「最近、彼女と別れた」

「また?」

母親が言った。

「うん」

「何人目?」

「……五人目」

母親が少し黙った。

「五回も付き合って、五回とも別れたの?」

「まあ」

「理由は?」

俺は答えた。

「……俺の話し方が営業みたいだから、とか」

すると。

母親は少し考えた。

そして。

「……あんた、かなり変わったよね」

俺は顔を上げた。

「変わった?」

「うん」

母親は俺を見る。

「昔はもう少し普通だったじゃない」

「普通って?」

「もっと話を聞いてたし」

俺は黙った。

「今は、なんていうか……」

母親が言葉を選ぶ。

「ぶっきらぼうになったし」

父親もテレビから目を離して、こちらを見る。

「常にセールスマンみたいな感じというか……」

少し間があった。

「はっきり言って、関わりづらいわね」

その言葉が、胸に刺さった。

恋人に言われるのとは違った。

親だったから。

俺が営業を始める前から、ずっと俺を知っている人だったから。

「……そんなに変わった?」

俺が聞く。

母親は少し困った顔をした。

「自分ではわからないの?」

「……」

わからなかった。

少なくとも。

自分では、普通に話しているつもりだった。

昔より少し効率的になっただけ。

無駄な話をしなくなっただけ。

そう思っていた。

「彼女にも、同じこと言われたんだよ」

俺が言う。

「五人とも」

母親は黙って俺を見る。

そして。

「彼女と五回も付き合って、別れた理由が一緒って……」

一度言葉を止める。

「普通の一般論なら、察するけどね……」

「……」

何も言えなかった。

その言葉の意味は、わかっていた。

五回。

五人。

別々の人間。

それなのに。

同じところを指摘されている。

だったら。

変わらなければならないのは、相手ではない。

俺のほうだ。

俺は黙って俯いた。

しばらくして、立ち上がる。

「そろそろ帰るわ」

「夕飯食べていかないの?」

「いいや」

「そう」

母親は、それ以上何も言わなかった。

父親も何も言わない。

その沈黙が、妙に気になった。

まるで。

これ以上言っても仕方がない。

そう思われているような気がした。

俺は玄関で靴を履く。

「じゃあ」

「気をつけてね」

「うん」

ドアを開ける。

外に出る。

歩きながら、さっきの言葉を何度も思い返した。

――かなり変わった。

――ぶっきらぼうになった。

――常にセールスマンみたい。

俺は三年間。

人を見ることばかり考えてきた。

何を欲しがっているのか。

何を怖がっているのか。

何を言えば動くのか。

どうすれば契約になるのか。

そればかり考えていた。

そして気づけば。

人と話すときにも、それをやるようになっていた。

「要するに?」

俺は小さく呟いた。

また、その言葉が出た。

でも今度は。

誰かの話を短くまとめるためじゃなかった。

自分自身に問いかけるように。

「要するに……俺って、どうなったんだ?」

答えは出なかった。

俺はそのまま歩き続けた。

そして初めて。

自分が変わってしまったことを、認めた。

それだけだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。