営業
「私のこと、何だと思ってるの?」
その言葉を聞いた瞬間。
俺は、何も言えなくなった。
彼女は怒鳴っているわけではなかった。
むしろ、静かだった。
だからこそ、余計に重かった。
「……どういう意味?」
ようやく俺がそう聞くと、彼女は少しだけ困ったような顔をした。
「どういう意味って……」
「要するに?」
口から出た。
その瞬間。
彼女の表情が変わった。
「あ」
小さく、そんな声が聞こえた。
俺自身も気づいていなかった。
また言っていた。
「……それ」
「何?」
「今のもそう」
「?」
「『要するに?』ってやつ」
彼女は少し黙った。
「Aって、私と話してるときもそうなんだよね」
「どういうこと?」
「私が何か話すと、途中で『要するに?』って聞くじゃん」
俺は黙った。
「それだけじゃない」
彼女は続ける。
「私が何を言ったら喜ぶかとか、何を言ったら嫌がるかとか……そういうのを、すごく見てる感じがする」
「それは……」
「最初は、ちゃんと私のこと考えてくれてるんだと思ってた」
彼女は俯いた。
「私が好きなもの覚えてくれてたり、嫌なことを避けてくれたり。欲しいって言ったものを買ってくれたり」
俺は何も言わなかった。
「でも、最近わかってきた」
彼女が顔を上げる。
「それって、私を見てるっていうより……私を分析してるんじゃない?」
心臓が、一瞬だけ強く鳴った。
「……分析?」
「うん」
彼女は頷いた。
「私がどういう言葉に反応するのかとか。どうしたら機嫌がよくなるのかとか。どう言えば私がAから離れないのかとか」
「そんなこと――」
否定しようとして。
止まった。
できなかった。
なぜなら。
心当たりがありすぎた。
彼女が疲れている日は、無理に話しかけない。
機嫌が悪いときは、好きな話題を出す。
何か欲しそうにしていたら買ってあげる。
嫌がることは避ける。
喜ぶことをする。
それ自体は、恋人なら普通なのかもしれない。
でも俺の場合。
それを自然にやっていたわけではなかった。
相手の反応を見て。
その反応から次の行動を決めていた。
営業と同じだった。
相手を見る。
反応を見る。
考える。
言葉を変える。
そして、相手に自分の望む方向へ進んでもらう。
俺は、それを恋愛だと思っていた。
でも。
彼女からすれば違ったのだ。
「彼女には今って営業なんでしょ?」
「……え?」
「私に対しても営業の話し方で接してくるよね?」
彼女は少しだけ笑った。
でも、その笑顔は嬉しそうなものではなかった。
「私を何だと思っているの?」
そして。
「それによっては、別れようよ」
部屋が静かになった。
俺は彼女の顔を見た。
何か言わなければならない。
そう思った。
でも。
何も浮かばなかった。
いつもなら、言葉なんていくらでも出てくる。
営業なら。
相手が怒っているとき。
相手が不安そうなとき。
相手が迷っているとき。
どういう言葉を使えばいいのか。
どういう順番で話せばいいのか。
俺にはわかる。
だから。
「ごめん」
と言えばいいのか。
「そんなつもりじゃなかった」
と言えばいいのか。
「これから直す」
と言えばいいのか。
その瞬間。
頭の中で、いくつもの選択肢が浮かんだ。
そして。
俺は気づいた。
俺は今でも、この状況を「どう言えば彼女を引き止められるか」という問題として考えている。
彼女が何を感じているかではなく。
どうすれば関係を維持できるか。
その答えを探している。
「……ああ」
小さく声が出た。
彼女は黙って俺を見る。
俺は、妙に冷静だった。
彼女の言っていることは正しい。
たぶん。
彼女はずっと我慢していたんだろう。
俺に悪意があったわけではない。
でも。
悪意がなければ、人を傷つけないわけじゃない。
むしろ。
俺は彼女に対して、ずっと自分のやり方を押しつけていた。
だったら。
答えは簡単だった。
「……別れようか」
「……え?」
彼女が驚いた顔をする。
「いや」
俺は続けた。
「たぶん、そのほうがいいと思う」
「A……」
「ごめん」
俺は頭を下げた。
それだけだった。
泣くこともなかった。
怒ることもなかった。
引き止めることもしなかった。
彼女も何も言わなかった。
しばらくして。
「……そっか」
それだけ言った。
俺たちは別れた。
あまりにも簡単だった。
*
その後。
俺は別に落ち込まなかった。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
仕事も普通にできた。
契約も取れた。
数字も落ちなかった。
むしろ。
彼女と別れたことで、仕事に集中できるようになった気さえした。
数週間後。
別の女性と知り合った。
付き合うことになった。
最初は普通だった。
一緒に食事をした。
映画を見た。
話をした。
俺は相手のことを知ろうとした。
何が好きなのか。
何が嫌いなのか。
どんなことをされると嬉しいのか。
どんな言葉を嫌がるのか。
そして。
少しずつ、俺の中にいつもの感覚が戻ってきた。
相手の反応を見る。
その反応に合わせて自分の言葉を変える。
相手が喜ぶ方向へ話を持っていく。
最初は、それでうまくいっていた。
でも。
ある日。
「Aって、なんか変だよね」
そう言われた。
「何が?」
「なんていうか……」
彼女は少し考えてから言った。
「話し方が営業っぽい」
俺は笑った。
「また?」
その瞬間。
自分でも少し驚いた。
「また?」
彼女は聞き返した。
「……何が?」
「いや、なんでもない」
それからしばらくして。
その関係も終わった。
理由は、ほとんど同じだった。
また別の女性と付き合った。
そして。
また同じことを言われた。
「なんか、私のことをちゃんと見てない気がする」
「どういう意味?」
「Aは私がどう思うかばっかり考えてる。でも、A自身が何を思ってるのか、よくわからない」
また。
別れた。
三人目。
四人目。
そして五人目。
結果は、ほとんど同じだった。
「営業みたい」
「話を誘導されてる感じがする」
「こっちの反応を見て言葉を変えてるよね」
「一緒にいるのに、なんか距離がある」
最初の頃は、俺も不思議だった。
「なんで毎回同じこと言われるんだ?」
でも。
五人目と別れた頃には。
さすがに気づき始めていた。
問題は相手じゃない。
俺だ。
*
ある休日。
俺は実家に帰った。
特に用事があったわけではない。
ただ、なんとなく帰りたくなった。
久しぶりに見る家は、昔と何も変わっていない。
玄関。
廊下。
リビング。
昔、自分が使っていた部屋。
全部そのままだった。
「おかえり」
母親が言う。
「ただいま」
俺はソファに座った。
父親もテレビを見ていた。
しばらく、どうでもいい話をした。
仕事のこと。
最近のこと。
そして。
俺は恋愛について話した。
「最近、彼女と別れた」
「また?」
母親が言った。
「うん」
「何人目?」
「……五人目」
母親が少し黙った。
「五回も付き合って、五回とも別れたの?」
「まあ」
「理由は?」
俺は答えた。
「……俺の話し方が営業みたいだから、とか」
すると。
母親は少し考えた。
そして。
「……あんた、かなり変わったよね」
俺は顔を上げた。
「変わった?」
「うん」
母親は俺を見る。
「昔はもう少し普通だったじゃない」
「普通って?」
「もっと話を聞いてたし」
俺は黙った。
「今は、なんていうか……」
母親が言葉を選ぶ。
「ぶっきらぼうになったし」
父親もテレビから目を離して、こちらを見る。
「常にセールスマンみたいな感じというか……」
少し間があった。
「はっきり言って、関わりづらいわね」
その言葉が、胸に刺さった。
恋人に言われるのとは違った。
親だったから。
俺が営業を始める前から、ずっと俺を知っている人だったから。
「……そんなに変わった?」
俺が聞く。
母親は少し困った顔をした。
「自分ではわからないの?」
「……」
わからなかった。
少なくとも。
自分では、普通に話しているつもりだった。
昔より少し効率的になっただけ。
無駄な話をしなくなっただけ。
そう思っていた。
「彼女にも、同じこと言われたんだよ」
俺が言う。
「五人とも」
母親は黙って俺を見る。
そして。
「彼女と五回も付き合って、別れた理由が一緒って……」
一度言葉を止める。
「普通の一般論なら、察するけどね……」
「……」
何も言えなかった。
その言葉の意味は、わかっていた。
五回。
五人。
別々の人間。
それなのに。
同じところを指摘されている。
だったら。
変わらなければならないのは、相手ではない。
俺のほうだ。
俺は黙って俯いた。
しばらくして、立ち上がる。
「そろそろ帰るわ」
「夕飯食べていかないの?」
「いいや」
「そう」
母親は、それ以上何も言わなかった。
父親も何も言わない。
その沈黙が、妙に気になった。
まるで。
これ以上言っても仕方がない。
そう思われているような気がした。
俺は玄関で靴を履く。
「じゃあ」
「気をつけてね」
「うん」
ドアを開ける。
外に出る。
歩きながら、さっきの言葉を何度も思い返した。
――かなり変わった。
――ぶっきらぼうになった。
――常にセールスマンみたい。
俺は三年間。
人を見ることばかり考えてきた。
何を欲しがっているのか。
何を怖がっているのか。
何を言えば動くのか。
どうすれば契約になるのか。
そればかり考えていた。
そして気づけば。
人と話すときにも、それをやるようになっていた。
「要するに?」
俺は小さく呟いた。
また、その言葉が出た。
でも今度は。
誰かの話を短くまとめるためじゃなかった。
自分自身に問いかけるように。
「要するに……俺って、どうなったんだ?」
答えは出なかった。
俺はそのまま歩き続けた。
そして初めて。
自分が変わってしまったことを、認めた。
それだけだった。




