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居場所

実家から帰ってきた日の夜。

俺は、いつもより少しだけ早くベッドに入った。

別に疲れていたわけじゃない。

仕事をしていたわけでもないし、誰かと会っていたわけでもない。

ただ、何もしていなかった。

それなのに、妙に疲れていた。

天井を見ながら、今日、母親に言われた言葉を思い出す。

――ぶっきらぼうになった。

――常にセールスマンみたい。

――正直、関わりづらい。

そして最後に、

「五回も同じ理由で別れてるなら、普通は気づくけどね」

と言われた。

普通。

その言葉が、妙に引っかかった。

俺は普通じゃなくなったんだろうか。

大学を卒業したばかりの頃は、もっと普通だった。

友達とくだらない話をして、ファミレスで飯を食って、将来は金を稼いで自由に暮らしたいなんて話していた。

仕事だって、最初はそういう理由で選んだ。

金。

自由。

それだけだった。

今はどうだ。

金はある。

時間だって、普通の会社員よりは圧倒的にある。

なのに、何もない。

いや。

「何もない」というより――

何があるのか分からない。

スマホを手に取った。

SNSを開く。

数分眺める。

閉じる。

動画を見る。

面白くない。

別の動画を見る。

やっぱり面白くない。

スマホをベッドに放り投げる。

「……暇だな」

声に出してみた。

けれど、その「暇」という言葉すら、どこか違う気がした。

俺は時間を持て余しているわけじゃない。

時間ならいくらでも潰せる。

動画を見ることもできる。

買い物だってできる。

旅行にだって行ける。

仕事だって、やろうと思えばいつでもできる。

それでも、何をしても長続きしない。

昔なら、もっと単純だった。

金が欲しい。

だから働く。

契約を取る。

金が入る。

嬉しい。

それだけでよかった。

今は違う。

契約を取っても、

「そう」

で終わる。

金が入っても、

「まあ、増えたな」

くらい。

褒められても、

「そうですか」

くらい。

感情が動かない。

なのに、仕事をしていないと落ち着かない。

そこだけは変わらなかった。

翌朝。

目覚ましが鳴る前に目が覚めた。

時計を見る。

午前八時。

会社に行くにはまだ早い。

もう一度寝ようと思った。

けれど眠れない。

布団の中でしばらく天井を眺める。

すると、頭の中に会社の風景が浮かんできた。

事務所。

机。

営業車。

資料。

インターホン。

そして、契約書。

なぜか、それを思い浮かべた瞬間だけ、少しだけ頭がすっきりした。

「……仕事、行くか」

別に誰かから連絡が来たわけでもない。

今日、出勤しろと言われたわけでもない。

それでも、俺は着替えた。

久しぶりにネクタイを締める。

鏡を見る。

そこに映っていたのは、三年前の俺とは別人だった。

髪型も変わった。

服装も変わった。

表情も変わった。

何より――目が違った。

昔はもっと、人の顔を見ていた気がする。

今は、人の顔を見ると、先に考えてしまう。

何を考えている。

何を警戒している。

何を欲しがっている。

何を言えば動く。

そんなことばかり。

自分でも嫌になるくらい自然に、そういうことを考えていた。

玄関を出る。

外の空気を吸う。

「……やっぱ、こっちだな」

そう思った。

何が「こっち」なのかは分からない。

ただ、会社へ向かう道を歩いていると、妙に落ち着いた。

会社に着く。

ドアを開ける。

「おはようございます」

「お、来たか」

先輩が振り返る。

「最近休んでたじゃん。もう復活?」

「まあ、そんな感じです」

「じゃあ今日からまたガンガンいこうぜ」

「はい」

それだけだった。

誰も俺が何を考えているのかなんて聞かない。

俺も、何も説明しない。

それでよかった。

仕事では、余計なことを話さなくていい。

数字を出せばいい。

契約を取ればいい。

それだけ。

机の上に資料を置く。

何となく一枚めくる。

商品説明。

価格。

保証。

施工内容。

見慣れた文字。

その瞬間、不思議なくらい安心した。

「これだ」

俺はそう思った。

ここなら、俺は何をすればいいのか分かる。

何を言えばいいのかも分かる。

何を見ればいいのかも分かる。

結果が数字で出る。

契約を取れば評価される。

契約が取れなければ、自分の問題。

単純だった。

人間関係みたいに、

「どうしてそんなことを言ったのか」

とか、

「どうして嫌われたのか」

とか、

「本当はどう思っていたのか」

とか。

そんなことを考えなくていい。

少なくとも、仕事の中では。

「行ってきます」

俺は営業車に乗った。

久しぶりの外回りだった。

エンジンをかける。

カーナビを設定する。

目的地を確認する。

そして、住宅街へ向かった。

一件目。

インターホンを押す。

「はい」

「突然すみません。〇〇のAと申します。防災用品について――」

「結構です」

ガチャ。

二件目。

「はい?」

「〇〇のAと申します。実は――」

「間に合ってます」

ガチャ。

三件目。

「すみません、今ちょっと――」

ガチャ。

昔なら、これで少し腹が立っていた。

今日は違った。

「……まあ、こんなもんか」

淡々と次へ行く。

四件目。

反応なし。

五件目。

留守。

六件目。

「結構です」

七件目。

「そういうの興味ないので」

八件目。

「忙しいんで」

それでも、何とも思わなかった。

むしろ、

「次」

という言葉が頭の中に浮かぶだけだった。

九件目。

インターホンを押す。

少し間があって、女性が出た。

「はい」

「突然失礼します。〇〇のAと申します。三分だけお時間いただけないでしょうか」

自分でも驚くくらい、自然に言葉が出た。

女性が少し黙る。

「三分……ですか?」

「はい。すぐ終わります」

「……じゃあ、三分だけなら」

「ありがとうございます」

その瞬間。

昔なら、

「よし、話を聞いてもらえる」

と思っていた。

今は違った。

相手の声。

間。

言葉。

全部が情報に聞こえる。

三分なら許可した。

つまり、長話は嫌い。

時間を気にしている。

だったら――

と、頭の中で次の言葉を組み立てる。

それがあまりにも自然だった。

玄関先で簡単に説明する。

女性は最初こそ警戒していたが、質問を一つした。

俺は答える。

もう一つ質問が来る。

また答える。

会話が続く。

そのまま家の中で詳しく説明することになった。

そして。

契約書を書くことになった。

「ありがとうございます」

ペンを置いた女性に頭を下げる。

「こちらこそ、説明ありがとうございました」

「いえ」

家を出る。

ドアが閉まる。

俺は営業車に戻った。

契約書を見る。

一件。

たった一件。

それなのに、妙な感覚があった。

嬉しい。

……のか?

たぶん、嬉しい。

でも、昔みたいな高揚感はない。

拳を握って、

「よっしゃ!」

なんて叫ぶ気にもならなかった。

ただ、

「一件取れた」

と思った。

それだけだった。

車を走らせる。

次の家へ向かう。

途中、信号で止まった。

フロントガラスの向こうに、住宅街が広がっている。

同じような家。

同じような門。

同じようなインターホン。

俺はふと思った。

俺は、この三年間で何件の家を訪ねたんだろう。

何人と話したんだろう。

何人の顔を見たんだろう。

そして――

何人のことを覚えているんだろう。

考えてみる。

出てこない。

ほとんど覚えていない。

契約を取った人。

取れなかった人。

怒った人。

笑った人。

話を聞いてくれた人。

途中で帰った人。

全部、混ざっている。

名前すら思い出せない人もいる。

なのに、数字だけは覚えている。

月にいくら稼いだ。

何件契約した。

何件訪問した。

何%だった。

俺の頭の中に残っているのは、人じゃなくて数字だった。

「……まあ、仕事だしな」

そう呟いて、アクセルを踏んだ。

その日の夕方。

会社に戻る。

「今日どうだった?」

「一件です」

「お、復帰初日に一件か。いいじゃん」

「ありがとうございます」

「明日も頼むぞ」

「はい」

席に座る。

パソコンを開く。

数字を入力する。

今日の訪問件数。

契約件数。

売上。

それだけ。

入力を終える。

画面を見る。

数字が並んでいる。

それを見ていると、なぜか安心する。

人の顔よりも。

誰かの言葉よりも。

数字の方が分かりやすい。

数字なら、嘘をつかない。

一件は一件。

十万円は十万円。

取れたか、取れなかったか。

それだけ。

俺は、その分かりやすさが好きだった。

会社を出る。

家に帰る。

夕食を適当に済ませる。

風呂に入る。

ベッドに横になる。

今日のことを思い返す。

契約一件。

特別なことはない。

でも、今日はいつもより眠れそうだった。

なぜだろう。

答えは簡単だった。

俺には明日がある。

明日、また仕事に行けばいい。

またインターホンを押せばいい。

また人と話せばいい。

また契約を取ればいい。

それを繰り返せばいい。

少なくとも、何をすればいいのか分からない状態からは抜け出せる。

俺は目を閉じた。

そのとき、ふと実家で母親に言われた言葉を思い出した。

――常にセールスマンみたい。

「……別にいいだろ」

小さく呟く。

営業なんだから。

仕事なんだから。

むしろ、営業が上手い方がいい。

人の気持ちを読める。

話を続けられる。

相手が何を求めているか分かる。

契約につなげられる。

それの何が悪い。

そう考えた。

そして、その考えに自分で納得した。

納得してしまった。

翌朝。

俺はまた会社へ向かった。

その翌日も。

その次の日も。

気づけば、以前と同じ生活に戻っていた。

朝起きる。

会社へ行く。

営業車に乗る。

住宅街へ行く。

インターホンを押す。

断られる。

話を聞いてもらう。

相手を見る。

考える。

話す。

契約を取る。

数字を入力する。

帰る。

寝る。

それだけ。

けれど、以前と一つだけ違うことがあった。

俺は仕事をしているときだけ――

自分が何者なのか、考えなくて済んだ。

会社にいる間は、

「俺は営業だ」

それだけでよかった。

契約を取れば、

「俺はできる」

と思えた。

数字が悪ければ、

「もっとやらなきゃいけない」

と思えた。

そこには答えがあった。

やることがあった。

目的があった。

だから、楽だった。

仕事が終われば、また空っぽになる。

でも翌朝になれば、また仕事がある。

それでいい。

そう思うようになった。

ある日。

営業先へ向かう途中、コンビニに立ち寄った。

レジには店員がいた。

「袋いりますか?」

「いらないです」

「お会計――」

その瞬間。

俺は店員の表情を見た。

疲れている。

早く終わらせたい。

客との会話を長引かせたくない。

そんなことを、無意識に考えた。

そして自分で気づいた。

「……俺、何してんだ」

コンビニの店員相手にまで、相手の状態を分析している。

昔なら、そんなことは考えなかった。

ただ買い物をしていただけだ。

なのに今は違う。

人を見る。

言葉を聞く。

表情を見る。

その奥にあるものを考える。

そして、

「どうすれば相手が動くか」

を考える。

それが、もう癖になっていた。

俺はコンビニを出た。

営業車に乗り込む。

バックミラーを見る。

そこに自分の顔が映っていた。

「……まあ、いいか」

そう言って、車を走らせる。

気にするほどのことじゃない。

仕事ができるようになっただけだ。

人を見るのが上手くなっただけ。

そう思った。

そのときの俺は、まだ知らなかった。

仕事の中で身につけたものが、

仕事の外まで入り込んでいることを。

そして――

俺が「人を見る」と思っていたものが、

本当は「人を使えるかどうかを見る」ことに変わり始めていたことを。

それでも俺は、また次の家の前で車を止めた。

降りる。

資料を持つ。

玄関まで歩く。

インターホンの前に立つ。

一度、深呼吸する。

そして。

ピンポーン。

また、誰かの人生の前に立った。



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