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3分だけ

水曜日。

俺は、会社へ行かなかった。

サボった。

と言っても、最初から辞めるつもりだったわけじゃない。

むしろ逆だった。

どうすれば契約を取れるのか。

それを考えるために、俺は一日を使うことにした。

朝、目が覚める。

時計を見る。

いつもなら急いで着替えて会社へ向かう時間。

けれど今日は、その必要がない。

ベッドの上でスマホを手に取る。

検索欄に文字を打ち込む。

『訪問販売 会話 コツ』

検索。

いくつもの記事が出てくる。

営業の基本。

話し方。

信頼関係。

相手の話を聞く。

笑顔。

相槌。

いろいろ書いてある。

俺はその中から、特に訪問販売に使えそうなものを探した。

しばらく読んでいると、ある考え方が目に入った。

――最初から長時間話すと思わせない。

例えば。

「3分だけお時間いただけないでしょうか?」

そう言う。

俺は画面を見つめた。

「……なるほど」

確かに。

インターホン越しに、

「少しお時間いいですか?」

と言われるより、

「3分だけ」

と言われたほうが、まだ聞いてみようと思うかもしれない。

人間、一度「3分なら」と決めてしまうと、その後で話を途中で切り上げることに少し抵抗が出る。

そういうことらしい。

俺はメモ帳に書いた。

三分だけ。

それだけ。

次の記事を見る。

そこには、商品のメリットだけを話し続けるのはよくない、と書かれていた。

商品の良いところだけを並べると、相手からすれば当然「売りたいから言っている」と思われる。

だから、購入を妨げない程度のデメリットを一つ伝える。

そのほうが、かえって話を信じてもらいやすくなる。

「……これも使えそうだな」

例えば、

「もちろん、これだけで全部の災害に対応できるわけではありません」

そう言ってから商品の価値を説明する。

良いところしか言わない人より、少し悪いところも言う人のほうが信用される。

言われてみれば、その通りだった。

さらに読み進める。

そして、もう一つ気になるものを見つけた。

相手が何を不安に思っているのかを見つける。

家族。

災害。

防犯。

古い家。

高齢者。

子ども。

人によって気にしていることは違う。

そこを見つけて、その不安に合った商品を提示する。

そうすれば、相手は話を聞きやすくなる。

俺はスマホを置いた。

「……これだ」

何となくだけど。

今までの俺には、こういうものが足りなかった気がする。

俺は商品を説明していただけだった。

相手が何を考えているのかなんて、ほとんど考えていなかった。

ただ資料に書いてあることを説明して。

断られたら次へ。

それだけ。

だから契約が取れなかった。

でも。

もし相手の話を聞いて。

相手が何を気にしているのかを見つけて。

そこに合わせて話すことができれば。

「もしかしたら、いけるんじゃないか?」

そんな気がしてきた。

時計を見る。

十二時。

ちょうどいい。

俺は着替えた。

そして家を出た。

今日は、試してみる。

ただそれだけだった。

*

最初の一件。

インターホンを押す。

「はい」

女性の声。

「こんにちは。○○会社のAと申します」

一瞬の間。

「訪問販売ですか?」

「はい。防災用品について――」

「結構です」

プツッ。

切れた。

「……」

俺は苦笑した。

まあ、こんなものだ。

次。

ピンポーン。

「はい」

「こんにちは。○○会社のAと申します。防災用品について――」

「間に合ってます」

プツッ。

「……二件目」

まだ何も変わらない。

三件目。

ピンポーン。

「はい」

「こんにちは。○○会社のAと申します」

いつものように会社名を名乗る。

そして続ける。

「本日は防災用品について、3分だけお時間をいただけないかなと思いまして――」

沈黙。

俺は待った。

「……3分だけ?」

「はい。3分だけで大丈夫です」

すると。

「まあ……3分くらいなら」

「ありがとうございます」

扉が開いた。

俺は一瞬、心の中でガッツポーズをした。

三件目。

まだ契約どころか、話を聞いてもらえるだけ。

それでも昨日までとは違う。

俺は玄関先で、まず相手の話を聞いた。

「最近、地震とか多いですけど、防災用品って何か用意されていますか?」

「一応、水とかは置いてありますけど……」

「なるほど」

「でも、何が必要なのかよくわからなくて」

俺は、その言葉を聞いた。

――何が必要なのかわからない。

そこだ。

昨日までの俺なら、資料を開いて商品の説明を始めていた。

でも今日は違う。

「もしよければ、そのあたりを中心に簡単にご説明します」

相手が頷く。

俺は、必要以上に話さなかった。

商品の特徴を全部説明するのではなく、相手が気にしている部分に絞る。

そして、最後にこう言った。

「もちろん、これを置いたから安心というものではないです。水や食料など、他にも準備しておく必要があります」

相手の表情が少し変わった。

「そうですよね」

そこから、会話が少し続いた。

そして。

結果的に契約につながった。

「……ありがとうございます」

頭を下げる。

家を出た瞬間。

「……マジか」

思わず笑った。

三件目。

契約一件。

昨日まで三十六件回ってゼロだったのに。

たった数個の言葉を変えただけ。

もちろん、たまたま相手が話を聞いてくれた可能性もある。

でも。

俺は確信し始めていた。

やり方を変えれば、結果も変わる。

それが、妙に嬉しかった。

*

その日の午後。

俺はさらに何軒も回った。

全部がうまくいったわけではない。

断られることもある。

話を聞いてもらっても契約にならないこともある。

それでも、以前とは感覚が違った。

インターホンを押す前に考える。

この家には何人くらい住んでいるんだろう。

家は新しいか、古いか。

玄関周りに何が置かれているか。

出てきた人は何を気にしていそうか。

話し方はどうするか。

どこまで話して、どこで止めるか。

そんなことを考えるようになった。

そして夕方。

少し大きめの家の前に立った。

周りの家より敷地が広い。

建物も少し古い。

俺はインターホンを押した。

ピンポーン。

「はい」

「こんにちは。○○会社のAと申します。防災用品について、3分だけお時間いただけないでしょうか?」

少し間があった。

「……3分だけなら」

「ありがとうございます」

扉が開く。

出てきたのは、また年配の夫婦だった。

俺は挨拶をして、話を始める。

「最近、地震が多いですよね」

「そうですねぇ」

「何か、防災対策ってされていますか?」

「まあ、昔から何となくはやってるんですけどね」

旦那さんが苦笑する。

「ちゃんとはできてないかな」

「なるほど」

俺は家の中をちらっと見る。

そこには、少し古い家具が見えた。

俺は一瞬だけ考える。

そして。

「地震のときに家具が倒れてくることもありますし、まずはそういうところから確認されたほうがいいかもしれません」

旦那さんが頷く。

「確かになぁ」

そこから、防災用品の話に移る。

食料。

ラジオ。

非常時の備え。

必要なものを説明する。

そして。

ふと、家の話になった。

旦那さんが言った。

「うちも結構古いからねぇ」

俺は、その言葉を聞いた。

頭の中に、昨日の上司の言葉が浮かんだ。

――古かっただろ。

――だったらリフォームまで持っていけ。

一瞬だけ、嫌な感覚がした。

でも。

俺は話を続けた。

「もしお家そのものについても気になるところがあるのであれば、確認だけしてみることはできます」

「確認?」

「はい。必要がなければ、もちろん無理にする必要はありません」

俺はそう言った。

相手が興味を持った。

そこから話は思った以上に進んだ。

防災用品だけでは終わらなかった。

最終的に、リフォームについても話を聞いてもらうことになった。

そして。

契約が決まった。

「……ありがとうございます」

家を出る。

俺は歩きながら、笑いをこらえられなかった。

「かなりアツい……」

防災用品。

そして、リフォーム。

昨日なら、一件三千円の契約を取っただけで怒られていた。

今日は違う。

俺は自分の力で、もう一つ契約を取った。

「俺……やっぱり向いてるんじゃね?」

そんな考えが、頭の中に浮かんだ。

*

会社に戻る。

契約の処理をする。

書類を確認する。

数字を入力する。

そして、精算が終わった。

俺は画面を見た。

今月の自分の報酬。

「……六十八万?」

思わず声が出た。

六十八万円。

もちろん、ここから税金などを考えれば、そのまま全部が手元に残るわけじゃない。

それでも。

大学を卒業したばかりの自分にとっては、とんでもない金額だった。

俺はしばらく画面を見つめていた。

「……マジかよ」

昨日まで。

この会社は地獄だと思っていた。

今日は違う。

いや。

会社そのものが変わったわけじゃない。

俺が変わった。

やり方を少し変えただけ。

それだけで結果が出た。

だったら。

もっとやれば。

もっと稼げるんじゃないか。

そんな考えが、自然と出てきた。

会社を出る。

空が少し暗くなっている。

俺は歩きながら、何度もスマホで銀行口座を確認した。

数字を見るたびに嬉しくなる。

「すげぇな……」

家に帰る。

冷蔵庫を開ける。

適当に食事を済ませようとして。

ふと、思った。

「……今日は外で食うか」

今までなら、そんなことを考える余裕もなかった。

でも今日は違う。

財布を見る。

中には、アルバイト時代とは比べものにならないほどの余裕がある。

俺は家を出た。

向かったのは、近所のファミレスだった。

別に高級な店じゃない。

むしろ、大学時代から何度も来ていたような普通の店。

席に座る。

メニューを開く。

「チーズインハンバーグ……」

それとライス。

注文する。

しばらく待つ。

料理が運ばれてくる。

俺は箸を持った。

「いただきます」

一口食べる。

「……うま」

思わず笑った。

別に、今まで食べたことがない料理じゃない。

それでも今日は違った。

自分で稼いだ金で食べている。

そう思うだけで、少し特別なものに感じた。

俺は食べながら、これからのことを考えた。

もっと稼ぐ。

もっと契約を取る。

もっと上に行く。

そうすれば。

好きなものを買える。

好きな場所へ行ける。

好きなときに休める。

大学を卒業したときに思い描いていた生活。

それが、ようやく始まった気がした。

「この生活、ずっと続くんじゃね?」

俺はそう思った。

財布の中身を確認する。

スマホを見る。

そして、また料理を食べる。

満足していた。

少なくとも、この瞬間の俺は。

自分の人生がうまくいっていると思っていた。

まだ知らなかった。

金額が大きくなるほど。

契約が増えるほど。

俺の中にある何かも、少しずつ変わっていくことを。

この頃の俺は、そんなことを考えもしなかった。

ただ。

「もっと稼げる」

そのことだけが、嬉しかった。

それが、今の俺だった。



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