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完全歩合制

初めての契約を取った翌日。

俺は、いつもより少しだけ早く会社に着いた。

昨日のことが頭から離れなかった。

初めてインターホンを押して、何度も断られて、それでも一件一件回って。

そして最後に、契約を取った。

たった一件。

それでも俺にとっては大きかった。

昨日、会社に戻ったときも、先輩から「初日に契約取ったのか」と驚かれた。

だから、今日も少しくらい褒められるんじゃないか。

そんなことを考えていた。

むしろ、少し期待していた。

「初日に契約を取ったんだから、もしかしたら俺、結構やれるんじゃないか」

そんな自信まで、ほんの少しだけ芽生えていた。

会社のドアを開ける。

「おはようございます」

「おう」

いつものように、何人かがパソコンに向かっていた。

昨日と変わらない光景。

俺は自分の席に座り、鞄を置いた。

すると、すぐに声がかかった。

「A」

「はい?」

振り返ると、上司が立っていた。

「ちょっと来い」

「……はい」

俺は立ち上がった。

別室へ向かう。

その瞬間、俺の中では勝手に話が出来上がっていた。

――昨日の契約の話だ。

たぶん褒められる。

「初日にしてはよくやったな」

とか。

「その調子で頑張れ」

とか。

もしかしたら、先輩たちの前で紹介されるかもしれない。

そんなことまで考えていた。

別室のドアが閉まる。

上司が椅子に座った。

俺も向かい側に座る。

一瞬の沈黙。

そして――

「なぜリフォームまで頼まなかったー!!」

「――っ!?」

耳が痛くなった。

というより、怒鳴り声があまりにも大きくて、何を言われたのか一瞬理解できなかった。

別室に入った意味がないんじゃないかと思うほどの声だった。

「え……?」

俺は固まった。

上司は机を叩く勢いで続ける。

「お前なぁ!! あの家、見ただろうが!!」

「はい……」

「古かっただろ!!」

「……はい」

「だったら、なんでリフォームまで持っていかねぇんだよ!!」

俺は何を言えばいいのかわからなかった。

昨日、俺が取ったのは防災用品の契約だった。

俺としては、それだけでも十分だった。

だから正直に聞いた。

「なぜですか?」

上司の眉間に皺が寄る。

「なぜですかって……」

「しっかり契約は勝ち取りましたよ??」

言ってから、少しだけ自信があった。

契約は契約だ。

昨日まで一件も取れなかった自分が、初めて取った。

それを評価してもらえると思っていた。

しかし。

「馬鹿なのか?」

「……え?」

「そんな安い防災用品一個売ったところで、どうやって会社が儲かるんだよ」

上司は呆れたように息を吐いた。

「それ、いくらだった?」

「……三千円です」

「そうだよ。三千円だ」

上司は指を三本立てる。

「三千円」

その数字を、わざわざ強調する。

「そんなもん売って、はい契約取れました、よくやりましたってなると思ってんのか?」

俺は黙った。

「家、古かっただろ?」

「……はい」

「だったら、地震が来たら危ないとか、耐震がどうとか、そういう話を作ってリフォームまで持っていけよ」

「作って……?」

思わず聞き返した。

「そうだよ」

上司は当然のように言った。

「相手が何も知らないなら、こっちから話を作ってやればいいんだよ」

その言葉を聞いた瞬間。

昨日までの俺の中にあった何かが、少しだけ崩れた。

俺は、昨日の夫婦を思い出した。

家に招いてくれた旦那さん。

隣で話を聞いていた奥さん。

俺の話を聞いて、商品について質問してくれた。

そして契約してくれた。

俺は、あの人たちが納得したから契約したと思っていた。

少なくとも、自分ではそう思っていた。

だけど。

この会社にとっては違うらしい。

三千円の契約。

それだけだった。

「お前さぁ……」

上司が椅子の背もたれに体を預ける。

「営業ってのは、相手が出せる金を全部出させる仕事なんだよ」

その言葉が妙に残った。

全部。

相手が出せる金を。

「一件取ったからって満足してんじゃねぇぞ」

「……」

「お前は金を取れる家に行って、三千円だけ取って帰ってきたんだよ」

俺は何も言えなかった。

何を言っても怒られる気がした。

「馬鹿なのか?」

上司が吐き捨てる。

「黙んなよ、この出来損ないがよぉ!」

「……すみません」

結局、それしか言えなかった。

部屋を出る。

廊下を歩きながら、俺は自分の手を見た。

昨日までなら、契約を取った手だった。

今日は、何かを間違えた手に見えた。

席に戻る。

誰も何も聞いてこない。

さっきの声は、たぶん外まで聞こえていた。

それでも誰も何も言わなかった。

俺も何も言わなかった。

パソコンを開く。

画面を見る。

でも、文字が頭に入ってこない。

――今どき、こんな会社あんのか……。

そう思った。

大学を出て。

就職活動をして。

「成果を出せば稼げる仕事」を探して。

そして、俺はここに来た。

もっと自由で、もっと稼げる場所だと思っていた。

実際には違った。

固定給はない。

残業代もない。

ノルマはある。

契約を取っても、その契約の金額が小さければ怒られる。

しかも、もっと金を出させろと言われる。

入社してまだ二日。

それなのに、俺はこの会社がどういう場所なのか、少しずつわかり始めていた。

*

その日の仕事が終わった。

家に帰る。

玄関を開ける。

靴を脱ぐ。

「……疲れた」

誰に言うわけでもなく呟いた。

部屋に入る。

鞄を置く。

ベッドに倒れ込む。

体が重い。

昨日とは全然違う。

昨日は、初めて契約を取った嬉しさがあった。

今日は違う。

ただ疲れていた。

俺は天井を見る。

「俺、どれだけ働けばいいんだろうな……」

答えは出ない。

どれだけ契約を取れば、怒られなくなるんだろう。

どれだけ稼げば、一人で生活できるんだろう。

そもそも。

俺は何のためにここで働いているんだろう。

大学を卒業したとき。

俺はもっと自由になりたかった。

会社に縛られたくなかった。

働いた分だけ稼げるなら、そのほうがいいと思った。

それなのに。

働けば働くほど、自由が遠くなっている気がした。

スマホを見る。

時刻はかなり遅くなっていた。

明日も仕事。

そう思った瞬間、また体が重くなった。

「……寝よう」

考えても仕方がない。

俺は目を閉じた。

そして、そのまま眠った。

*

翌日。

目が覚めた。

カーテンの隙間から、かなり明るい光が入っている。

スマホを見る。

「……え?」

時刻は午前十一時を過ぎていた。

一瞬、何が起きているのかわからなかった。

次の瞬間。

「やばっ……!」

飛び起きる。

昨日までなら、もうとっくに会社へ向かっている時間だった。

急いで着替える。

顔を洗う。

適当に髪を整える。

朝食を食べる時間もない。

鞄を掴む。

玄関を出る。

駅まで走る。

電車に乗る。

時計を見るたびに焦る。

そして会社に着いたのは、昼を大きく過ぎた頃だった。

ドアを開ける。

「……」

静かだった。

人がいない。

いや。

奥を見る。

一人だけいた。

上司だった。

俺と目が合う。

「……すいません!! 遅れてしまいました」

頭を下げる。

怒鳴られる。

そう思った。

むしろ、怒鳴られて、そのまま「お前はクビだ」と言われることすら少し期待していた。

ここを辞める理由が欲しかった。

自分から辞める勇気がないなら、向こうから切ってくれればいい。

そんなことを思っていた。

しかし。

上司は怒鳴らなかった。

「……お前」

「はい」

「ここは完全歩合制の職場だ」

「……」

「自分の月間ノルマさえクリアすれば、何時に出社したって文句は誰も言いやしない」

俺は顔を上げた。

「……え?」

「わかったら、さっさと仕事をしろよ」

それだけだった。

上司はパソコンに視線を戻す。

俺はしばらく立ったままだった。

怒られなかった。

いや。

正確には、怒る必要がないのだ。

この会社には固定給がない。

俺が何時に来ようが、会社からすればどうでもいい。

俺が働かなければ。

俺の収入がゼロになるだけ。

「……そういうことか」

そこで初めて、完全歩合制という言葉の意味を実感した。

自由。

確かに自由だった。

何時に出社してもいい。

何時まで働いてもいい。

休んでもいい。

ただし。

その分だけ、自分の収入が消える。

会社は困らない。

困るのは俺だけだ。

俺は鞄を置いた。

そして、すぐに外へ出た。

*

その日は、ひたすらインターホンを押した。

一件。

二件。

三件。

断られる。

また押す。

断られる。

また押す。

話を聞いてもらえない。

それでも回る。

気づけば夕方。

そして夜。

最終的な訪問件数は三十六件。

契約は――

ゼロ。

「……最悪だ」

会社に戻って数字を確認したとき、思わず口から出た。

昨日、一件取れた。

今日は三十六件回って、ゼロ。

数字だけを見ると、自分が急に何もできなくなったように感じる。

帰宅する。

風呂に入る。

飯を食う。

寝る。

そして翌朝。

起きる。

仕事へ行く。

インターホンを押す。

断られる。

また押す。

断られる。

たまに話を聞いてくれる人がいる。

でも、契約にはならない。

また帰る。

寝る。

起きる。

仕事へ行く。

同じことを繰り返す。

何日経ったのか、途中からよくわからなくなった。

会社にいる時間より、家で寝ている時間のほうが長く感じる。

でも、実際には違う。

仕事をしている間は、ずっと気を張っている。

家に帰った瞬間、その反動で何もしたくなくなる。

スマホを見る。

動画を見る。

眠くなる。

寝る。

それだけ。

俺が思い描いていた生活とは、全然違った。

大学を卒業したとき。

俺は言っていた。

「自分のペースで働きたい」

「頑張った分だけ稼ぎたい」

「普通の会社員より自由になりたい」

全部、間違ってはいなかった。

ただ。

自由には、責任がついてくる。

そして完全歩合制という仕組みは、その責任を全部、自分に押しつけてくる。

会社は言う。

「働きたいなら働け」

「休みたいなら休め」

「ただし、金が欲しいなら契約を取れ」

それだけ。

単純だった。

あまりにも単純だった。

だからこそ、逃げ道がなかった。

ある日の夜。

俺はベッドに横になりながら、天井を見ていた。

「……俺、何やってんだろ」

返事はない。

スマホを見る。

通知はほとんどない。

時計を見る。

また目を閉じる。

明日も仕事。

またインターホンを押す。

また断られる。

それでも行かなければ、収入は増えない。

だったら行くしかない。

俺はそう考えた。

考えることすら面倒になっていた。

ただ一つだけ。

頭の片隅に残っていた。

――どうすれば、もっと契約を取れるんだ?

昨日までの俺なら、そんなことを考えなかった。

でも今は違った。

怒られたくない。

稼ぎたい。

生活したい。

そのためには、契約を取るしかない。

だったら。

契約を取れる人間になればいい。

俺はまだ知らなかった。

この会社で生き残るために身につけていくものが、後になって自分自身を苦しめることになるなんて。

そのときの俺には、知る由もなかった。



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