初契約
目の前にいる夫婦を見ながら、俺は手に持っていた資料を開いた。
初めてだった。
今日、まともに人と話すのは。
それまでの家では、会社名を名乗った瞬間に断られるか、インターホン越しに数秒話して終わりだった。
商品について説明することすらできなかった。
それが今は違う。
目の前の男性は、多少面倒そうな顔をしているものの、俺の話を聞く姿勢を見せている。
隣には奥さんもいる。
俺は資料に目を落とした。
「えっと、今回ご案内させていただいているのが、防災用品になります」
「防災用品ねえ」
男性が資料を見る。
「はい。最近、地震だったり大雨だったり、いろいろと災害が増えているじゃないですか」
「まあ、そうだね」
「それで、いざという時にご家庭で使えるようなものをいくつか取り扱っていまして」
俺は商品の写真を指差した。
「こちらなんですが、国内で製造されている商品でして、耐久性もしっかりしています」
「へえ」
男性の反応は薄い。
俺は少し焦った。
もっと興味を持ってもらわなければ。
でも、どうすればいい。
昨日までの研修で教わったことを思い出す。
商品の特徴を説明する。
メリットを伝える。
必要性を説明する。
それだけだ。
俺は次のページをめくった。
「こちらはラジオなんですけど」
「ラジオ?」
「はい。災害が起きた時って、停電したりスマートフォンが使えなくなったりする可能性がありますよね」
「まあね」
「そういう時に情報を得るために使えるものです」
俺は商品の写真を見せた。
「このラジオ、かなり丈夫でして」
「そんなに?」
「はい。例えば、二階から落としたとしても、外側はかなり傷つくと思いますけど、音が出なくなるようなことはありません」
「二階から?」
男性が初めて少しだけ興味を示した。
「はい」
「そんなことする人いる?」
「まあ……普通はいないと思います」
俺は苦笑した。
男性も少し笑った。
その瞬間、妙に安心した。
少なくとも、完全に拒絶されているわけではない。
「でも、災害の時って何が起きるか分からないですから」
「確かにね」
奥さんが資料を覗き込む。
「これ、結構小さいですね」
「そうなんです。持ち運びもしやすいです」
「ラジオって今でも使うんですか?」
「災害時には、まだまだ役に立つと思います」
俺はそう答えた。
次の商品へ進む。
「それと、こちらが非常食です」
「缶詰?」
「はい。普通の非常食だと袋に入っているものも多いんですけど、こちらは缶詰になっていて、さらに真空パックされています」
「へえ」
「保存期間も六年あります」
「六年?」
男性が資料を手に取った。
「結構持つね」
「はい。買ってすぐ食べるものではなくて、もしもの時のために置いておくものなので」
奥さんが頷いた。
「それなら、置いておいてもいいかもね」
俺は少しだけ自信を持った。
話を聞いてもらえている。
しかも、商品のことについて質問までしてくれている。
さっきまでとは全然違う。
営業って、こういうことなのか。
俺は少しずつ話すことが楽しくなってきた。
「あと、こちらがガスですね」
資料をめくる。
「このガスは専用のカセットコンロで使うタイプになっています」
「普通のやつとは違うの?」
「はい。こちらの商品専用になっています」
男性が少し眉を上げた。
「専用かあ」
「災害時に使えるように設計されていますので、ご家庭に一つ置いておくと安心だと思います」
俺は説明を続けた。
話しているうちに、最初の緊張は消えていった。
男性も最初ほど面倒そうな顔をしていない。
奥さんも資料を見ながら話を聞いている。
俺は最後に、全体をまとめるように話した。
「災害って、いつ起きるか分からないじゃないですか」
「そうだね」
「だからこそ、何か起きてから準備するより、何もない時に準備しておく方が安心だと思います」
男性は黙った。
俺は少し待った。
そして男性が資料を閉じた。
「ふ〜ん」
「……はい」
「もう少し説明を聞きたいから、ちょっと居間にあがって」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……え?」
「ここで立ったまま聞くのもあれだから」
「あ、はい!」
俺は慌てて返事をした。
家の中に入る。
玄関から廊下を抜け、居間へ案内される。
俺は靴を脱ぎながら、頭の中で一つの言葉が浮かんでいた。
――これは来たんじゃね?
さっきまでとは明らかに違う。
ここまで話を聞いてくれる人なんて、今日初めてだ。
しかも家の中まで入れてもらった。
これは契約に近づいている。
俺はそう思った。
居間に通されると、夫婦が向かいに座った。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
俺も座る。
テーブルの上に資料を並べる。
改めて見ると、普通の家庭の居間だった。
テレビ。
ソファ。
棚。
壁に掛かった時計。
どこにでもありそうな光景だった。
でも、俺にとっては特別だった。
ここまで入れてもらったのだから、絶対に無駄にはしたくない。
「それでは、先ほどの商品の続きなんですが――」
俺は説明を続けた。
防災用品について。
それぞれの使い方。
保管方法。
必要になる場面。
資料に書いてあることを、一つずつ説明していく。
分からないことを聞かれた時は、分かる範囲で答えた。
答えられないものについては、正直に「確認します」と伝えた。
すると男性が言った。
「君、新人?」
「はい」
「そうだと思った」
「分かります?」
「なんとなくね」
少し恥ずかしかった。
「まだ入ったばかりなので」
「そうか」
男性は笑った。
「でも、ちゃんと説明するね」
「ありがとうございます」
その言葉が妙に嬉しかった。
会社ではまだ何もしていない。
同期と比べても、俺には何の実績もない。
そんな俺を、この人はちゃんと話を聞いてくれている。
それだけで嬉しかった。
そして気がつけば、かなり長い時間話していた。
最初は「手短に」と言っていた男性も、今ではこちらの話を遮ることはほとんどない。
奥さんからもいくつか質問が出た。
「これはどのくらいの期間使えますか?」
「保存する時はどこに置けばいいですか?」
「災害があった時はどう使うんですか?」
俺は一つずつ答える。
最後に男性が妻を見る。
「どうする?」
奥さんは少し考えた。
「置いておいてもいいんじゃない?」
「そうだな」
男性が俺を見る。
「これ、お願いしようかな」
「……!」
心臓が跳ねた。
契約。
今、契約って言った?
「ありがとうございます!」
俺は思わず頭を下げた。
「じゃあ、こちらの書類に――」
手が少し震えていた。
ペンを持つ。
必要事項を確認する。
名前。
住所。
連絡先。
契約内容。
何度も確認する。
間違えてはいけない。
俺にとって初めての契約なのだから。
書類を書き終える。
夫婦に確認してもらう。
そして、正式に契約が成立した。
「……ありがとうございます」
自分でも分かるくらい、声が震えていた。
男性は、
「こっちこそ」
と答えた。
俺は資料を片付けた。
玄関まで見送ってもらう。
「ありがとうございました!」
「頑張ってね」
「はい!」
玄関のドアが閉まる。
俺は家の前に立った。
そして。
「よっしゃ〜!」
思わず声が出た。
拳を握る。
ガッツポーズ。
「初めての契約!」
誰も見ていないことを確認してから、もう一度拳を握った。
嬉しかった。
本当に嬉しかった。
朝から何件も回った。
何度も断られた。
営業ですと言っただけで切られた。
必要ありませんと言われた。
時には詐欺じゃないかと疑われた。
それでも続けた。
そして、最後に一件。
初めて、自分の力で契約を取った。
金額なんて、この時はどうでもよかった。
とにかく嬉しかった。
俺にもできる。
そう思った。
車へ戻る。
時計を見る。
まだ時間は残っている。
俺は次の家へ向かおうとした。
その途中で、ふと思った。
さっきの家。
少し古かった。
家も大きかった。
そういえば、まだ説明していない商品がある。
防犯用品。
住宅設備。
そして、リフォーム。
俺は会社から渡された資料を見た。
「……これも売れるんじゃないか?」
そんなことを考えた。
でも、今日は初契約を取った。
まずは会社に戻って報告しよう。
そう思い、車を走らせた。
会社に戻る。
扉を開ける。
「戻りました!」
俺が声を出す。
先輩社員が振り向いた。
「お、早かったな」
「契約取れました!」
「マジ?」
「はい!」
俺は書類を見せた。
「初契約?」
「そうです!」
先輩社員が書類を見る。
「おお……」
少し驚いた顔をした。
「やるじゃん」
「ありがとうございます!」
俺は嬉しかった。
初めて褒められた。
会社に入ってまだ間もない。
右も左も分からない。
そんな自分でも契約を取れた。
俺はこの時、本気で思った。
――この仕事、向いてるかもしれない。
その後、契約内容を確認してもらい、必要な処理を進めた。
俺は席に座り、ようやく一息ついた。
窓の外は少しずつ暗くなっていた。
今日一日で、何十軒もの家を訪問した。
そのうち、まともに話せたのはほんの一部。
契約までたどり着いたのは一件。
たった一件。
でも俺にとっては、それが大きかった。
スマートフォンを見る。
自分の手元に残る報酬を計算してみる。
「……これが積み重なったら」
思わず笑ってしまう。
もっと取れるようになったら。
今日より効率よくなったら。
一日に何件も取れるようになったら。
月に何十件も取れたら。
俺はどれだけ稼げるんだろう。
そんな想像が膨らんでいく。
大学を卒業したばかりの俺には、まだ何もなかった。
大した貯金もない。
社会人としての経験もない。
仕事だって始めたばかり。
それでも。
今日、初めて自分の力で金を生み出した。
その感覚が、たまらなく嬉しかった。
会社を出る。
外はすっかり暗くなっていた。
俺は家へ帰る。
疲れていた。
足も痛い。
肩も重い。
それでも、気分は悪くなかった。
むしろ、妙に清々しかった。
ベッドに横になる。
今日のことを思い出す。
インターホン。
何度も断られたこと。
最後に話を聞いてくれた夫婦。
居間での会話。
そして契約。
俺は目を閉じた。
「……明日も取れるかな」
そう呟いた。
この時の俺は、まだ知らなかった。
今日取った一件の契約が、会社ではどう評価されるのか。
そして。
明日、俺を待っているのが褒め言葉ではないことを。
ただ、この夜だけは。
俺は自分が成功したような気分で眠った。




