初経験
営業初日。
俺は朝から妙に緊張していた。
昨日までとは違う。
昨日までは会社の中で説明を聞いているだけだった。
今日は違う。
実際に客の家へ行き、自分でインターホンを押して、自分で話をしなければならない。
営業車の助手席には、会社から渡された資料が置かれていた。
防災用品について書かれたパンフレット。
何度も読んだ。
商品の特徴も一応頭に入っている。
値段も覚えた。
契約書の書き方も教わった。
準備はできている。
あとはやるだけ。
「……よし」
俺は小さく呟いて、営業車を降りた。
最初に向かったのは、比較的新しい住宅が並んでいる地域だった。
道路の両側に家が並んでいる。
庭のある家。
二階建ての家。
駐車場に車が止まっている家。
平日の昼間だからなのか、通りにはほとんど人がいない。
静かだった。
俺は一軒目の家の前で立ち止まった。
表札を見る。
普通の家だった。
何も変わったところはない。
俺は資料を持ち直した。
そしてインターホンの前へ立つ。
指を伸ばす。
一瞬だけ止まる。
押す。
ピンポーン。
電子音が響いた。
数秒。
十秒。
誰も出てこない。
俺はもう一度押した。
ピンポーン。
すると、インターホンから声が聞こえた。
「はい?」
「あ、突然すみません。私――」
そこまで言ったところで、相手の声が変わった。
「営業ですか?」
「あ、はい。えっと、防災用品の――」
「結構です」
ブツッ。
切れた。
「……」
俺はその場に立ったまま、数秒動けなかった。
え?
終わり?
これだけ?
まだ何も話してないんだけど。
俺は苦笑いを浮かべながら、その場を離れた。
まあ、最初なんてこんなものだ。
そう思った。
次の家へ向かう。
インターホンを押す。
ピンポーン。
「はい」
「突然すみません。私、〇〇という会社の者で――」
「結構です」
ブツッ。
「……」
三軒目。
ピンポーン。
「はい?」
「突然すみません。防災用品のご案内で――」
「間に合ってます」
ブツッ。
「……」
四軒目。
ピンポーン。
誰も出ない。
五軒目。
ピンポーン。
「営業なら結構です」
ブツッ。
六軒目。
留守。
七軒目。
「必要ありません」
ブツッ。
八軒目。
留守。
九軒目。
「そういうのいいです」
ブツッ。
十軒目。
誰も出ない。
十一軒目。
出たと思ったら、俺が会社名を名乗った瞬間に切られた。
十二軒目。
「詐欺とかじゃないですよね?」
「いえ、そういうものでは――」
「じゃあ大丈夫です」
ブツッ。
俺は家の前でため息をついた。
何なんだ。
全然話を聞いてもらえない。
会社では、「とにかくインターホンを押せ」と言われていた。
それは分かる。
訪問しなければ何も始まらない。
でも、実際にやってみると想像以上だった。
そもそも、話すところまでいかない。
商品を説明する以前の問題だった。
時計を見る。
まだ昼過ぎ。
時間はある。
俺は気持ちを切り替えた。
「まだまだこれからだろ」
そう言い聞かせる。
住宅街を歩く。
また一軒。
インターホンを押す。
ピンポーン。
「はい?」
「突然すみません。〇〇という会社の――」
「すみません、今忙しいんで」
ブツッ。
また一軒。
「営業ですよね?」
「はい」
「結構です」
ブツッ。
また一軒。
誰も出ない。
また一軒。
明らかに家の中に人がいる気配はするのに、出てこない。
俺は少しずつ疲れてきた。
足も痛い。
スーツの中は暑い。
資料を持っている腕も重くなってきた。
それでも歩く。
インターホンを押す。
断られる。
また歩く。
また押す。
また断られる。
その繰り返しだった。
気づけば、二十件近く回っていた。
契約どころか、まともに話を聞いてくれた人すらいない。
会社を出る前は、もっと簡単に考えていた。
商品を説明すれば、必要な人なら買ってくれる。
そんなふうに思っていた。
でも違った。
そもそも商品説明までたどり着けない。
営業って、こんなに難しいのか。
そんなことを考えながら、俺は次の家へ向かった。
インターホンを押す。
ピンポーン。
しばらくして、女性の声がした。
「はい?」
「あ、突然すみません。〇〇という会社の者なんですが、防災用品のご案内で――」
「必要ないです」
ブツッ。
「……」
俺は黙った。
もう何度目だろう。
会社名を言う。
営業だと分かる。
断られる。
ほとんどこのパターンだ。
そして、ふと思った。
もしかして、営業だと分かった時点で警戒されているんじゃないか。
そりゃそうだ。
突然知らない人間が家に来て、「商品を売ります」と言っている。
自分が逆の立場だったら、俺だって警戒する。
むしろ当然だ。
そんなことを考えながら歩いていると、スマートフォンを見る。
時刻は十四時を少し過ぎていた。
「……もうこんな時間か」
思ったより時間が経っている。
午前中からずっと歩き回っているのに、成果はゼロ。
このままではまずい。
俺にはノルマがある。
契約を取らなければ、給料はない。
昨日、上司から言われた言葉が頭に浮かんだ。
――ノルマに到達するまで帰ってくるな。
冗談ではなかった。
俺はもう一度資料を確認した。
そして、住宅街を見渡す。
まだ家はたくさんある。
大丈夫。
まだ時間はある。
そう思った。
それからも訪問を続けた。
十五軒。
二十軒。
二十五軒。
数字だけが増えていく。
契約数はゼロ。
話を聞いてもらえた回数も、ほとんどない。
たまに出てきてくれる人がいても、
「そういうのは大丈夫です」
「間に合ってます」
「必要ありません」
それで終わる。
中には、インターホン越しに明らかに警戒している人もいた。
「どちら様ですか?」
「〇〇という会社の者です」
「本当に会社の方ですか?」
「はい」
「証明できるものあります?」
俺は会社から渡された身分証を見せる。
もちろんインターホン越しでは相手から見えない。
「……結構です」
また切られる。
俺は苦笑いした。
これでは話にならない。
夕方が近づいてくる。
時計を見る。
十五時。
まだ十五時なのに、俺は妙な焦りを感じていた。
理由は分かっていた。
この仕事では、時間がそのままチャンスの数になる。
一軒訪問する。
断られる。
次へ行く。
それだけでも時間は消費される。
そして、住宅街で営業できる時間にも限界がある。
昼間なら、在宅している人に話を聞いてもらえる可能性がある。
しかし夕方になると、状況が変わる。
仕事から帰ってくる人。
夕飯の準備をする人。
家族と過ごす人。
そんな時間帯に、知らない営業マンが訪ねてきたらどう思うだろう。
俺だったら嫌だ。
ましてや夜の七時や八時に突然インターホンを鳴らされたら、かなり警戒する。
たとえ話を聞いてくれたとしても、落ち着いて商品の話をするのは難しいだろう。
つまり。
実質的に、営業できる時間はもうそれほど残っていない。
俺は時計を見た。
十五時十七分。
「あと……十件くらいか」
なんとなく計算した。
一軒にかかる時間。
移動時間。
話を聞いてもらえる可能性。
いろいろ考えると、まともに訪問できるのはあと十件前後だろう。
十回。
その中で一件でも話を聞いてもらえればいい。
いや。
話を聞いてもらうだけじゃダメだ。
契約まで持っていかなければならない。
そう考えた瞬間、胃のあたりが重くなった。
「……厳しいな」
俺は小さく呟いた。
それでも歩いた。
十数分後。
少し古い住宅が並ぶ場所に出た。
周辺の家と比べても、少し大きめの二階建て。
外壁には年月を感じさせる部分があり、庭もそれなりに広い。
玄関脇には植木がいくつか置かれている。
俺はその家の前で立ち止まった。
表札を見る。
人が住んでいる。
車もある。
俺は一度深呼吸した。
そして、インターホンを押した。
ピンポーン。
今までと同じ音。
しかし、今日はもう何度も聞いた音だった。
だから、いつものように期待しなかった。
どうせ、
「結構です」
そう言われて終わる。
そう思っていた。
数秒後。
家の中から足音が聞こえた。
インターホンが繋がる。
「はい」
男性の声だった。
俺は会社名を名乗る。
「突然すみません。〇〇という会社の者なんですが、防災用品の――」
「防災用品?」
「はい」
いつもなら、ここで「結構です」と言われる。
しかし。
「で?」
「……え?」
「で? 手短にお願いしますよ?」
俺は一瞬、言葉を失った。
聞いてくれる。
この人は、話を聞いてくれる。
「……ありがとうございます」
自分でも分かるくらい、声が少し明るくなった。
「こちらの商品なんですが――」
「いや、ちょっと待って」
「はい」
「外で話すのもあれだから。玄関まで出るよ」
ガチャ。
家の中から鍵を開ける音がした。
そして玄関のドアが開いた。
出てきたのは、五十代後半くらいの男性だった。
体格は中肉中背。
髪には白いものが混じっている。
顔には少し疲れが見える。
俺は反射的に、その人の様子を観察していた。
後ろから女性も顔を出した。
おそらく奥さんだろう。
二人とも、営業マンに対して特別歓迎している様子ではない。
ただ、完全に拒絶しているわけでもない。
男性が腕を組んだ。
「それで?」
俺は資料を持ち直した。
「はい。実はですね――」
口を開こうとした瞬間、男性が言った。
「手短にお願いしますよ?」
「はい!」
俺は答えた。
そして、資料を開いた。
ようやく。
今日初めて。
俺は「客」と会話をすることができた。
時計を見る。
十五時を少し過ぎている。
まだ一日が終わったわけではない。
契約を取ったわけでもない。
何も決まっていない。
それでも。
俺は少しだけ思った。
――もしかしたら。
今日、初めて契約を取れるかもしれない。
この時の俺は知らなかった。
この家との出会いが、俺の営業人生において最初の大きな成功になることを。
そして同時に。
俺がこの仕事について抱いていた考えを、根本から変えてしまう出来事の始まりになることを。
ただ、その時はそんなことなど考えていなかった。
目の前の二人に、どうやって商品を説明するか。
それだけを考えていた。




