ーーのはじまり
大学を卒業した。
それだけなら、別に珍しいことではない。
世の中には毎年、何十万人もの大学生が卒業していく。俺もその中の一人だった。
ただ、俺には一つだけ、人より少しだけ自信があった。
頭は悪くない。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
いわゆるGMARCHと呼ばれる大学に入った。高校時代はそれなりに勉強したし、周りからも「頭いいね」と言われることは多かった。
だから当然、就職についてもそれなりに考えていた。
安定した会社に入る。
毎朝決まった時間に出社する。
上司に言われた仕事をこなす。
毎月決まった給料をもらう。
ボーナスをもらう。
そして、少しずつ昇給していく。
普通なら、それでいい。
むしろ、それが一番いいのかもしれない。
でも俺は、その「普通」があまり好きではなかった。
大学に入ってから、周りの社会人の話を聞く機会が増えた。
「朝七時に起きて、満員電車乗って、帰ってくるのは九時だよ」
「残業が多い月は本当にきつい」
「給料は悪くないけど、自由な時間がない」
そんな話ばかりだった。
もちろん、仕事だから大変なのは分かっていた。
でも、俺は思っていた。
――それって、何のために働いているんだ?
金を稼ぐために働いているのに、金を使う時間がない。
自由になるために働いているのに、仕事に人生の大半を持っていかれる。
だったら、最初から別の働き方をしたほうがいい。
俺はそう考えていた。
だから就職活動でも、普通の企業だけを見ていたわけではなかった。
成果報酬。
インセンティブ。
高収入。
自由な働き方。
そういった言葉に妙に惹かれた。
そんな時だった。
一つの求人が目に入った。
営業職。
完全歩合制。
成果に応じて報酬支給。
頑張った分だけ稼げる。
年齢や社歴に関係なく、実力次第で高収入。
そこに書かれていた言葉を、俺は何度も読み返した。
「……これじゃん」
思わず声が出た。
固定給ではない。
つまり、会社に時間を買われるわけではない。
自分が結果を出せば、その分だけ金になる。
逆に言えば、結果を出さなければ何もない。
普通なら、その部分を怖いと思うのだろう。
でも当時の俺は違った。
むしろ、燃えた。
自分の能力が、そのまま金になる。
そう思った。
会社員として何年も働いて、少しずつ給料を上げるより、自分の力で一気に稼いだほうがいい。
俺ならできる。
根拠はなかった。
でも、自信だけはあった。
求人を見る限り、扱っている商品も悪くなかった。
防災用品。
防犯用品。
住宅設備。
リフォーム。
どれも生活に必要なものだ。
特に防災用品なんて、災害の多い日本では需要がなくなることはないだろう。
防犯用品もそうだ。
家を守りたい人はいくらでもいる。
リフォームだって、古くなった家に住んでいる人なら必要になる。
売るものがしっかりしている。
成果を出せば稼げる。
時間の使い方も自分次第。
俺には、それが理想の仕事に見えた。
面接は驚くほどあっさりしていた。
「大学は?」
「◯大です」
「へえ。優秀じゃん」
「ありがとうございます」
「営業経験は?」
「ありません」
「まあ、最初は誰でもそうだからね」
面接官は笑った。
そして、俺の目を見ながら言った。
「うちは頑張った人間が稼げる会社だよ」
「はい」
「逆に、頑張らなかった人間には厳しい」
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
自分でも不思議なくらい、迷いはなかった。
むしろ、早く働きたかった。
面接の最後に、
「結果は後日連絡します」
と言われた。
俺は会社を出て、駅へ向かいながら思った。
――絶対ここだ。
数日後。
採用通知が届いた。
俺はほとんど迷わず承諾した。
こうして俺は、社会人になった。
入社初日。
会社へ向かう電車の中で、妙に気持ちが高ぶっていた。
今日から俺も社会人だ。
しかも普通の会社員じゃない。
完全歩合制。
自分の力で稼ぐ。
うまくいけば、同年代の何倍も稼げる。
そう考えると、満員電車に揺られていることすら、なんとなく馬鹿らしく感じた。
会社に到着すると、思っていたよりも普通のオフィスだった。
何人かの社員がパソコンに向かっている。
電話の音が聞こえる。
誰かが資料を整理している。
特別怪しい雰囲気はなかった。
「おはようございます!」
俺が挨拶すると、
「おう、おはよう」
と返ってくる。
思っていたより普通だった。
これなら大丈夫そうだ。
そう思った。
午前中は簡単な研修だった。
会社の説明。
商品の説明。
契約書の書き方。
注意事項。
営業の基本。
そして午後。
俺たち新人は、営業担当の社員から説明を受けた。
「うちの営業は基本的に訪問営業だから」
「はい」
「お客さんのところへ行って、インターホンを押す」
「はい」
「出てきてもらったら、話をする」
「はい」
「商品を説明して、必要だと思ってもらえたら契約」
そこまで聞けば、普通の訪問販売だった。
ただ一つ気になった。
「研修って、もう少し営業トークとか……そういうのはないんですか?」
俺が聞くと、先輩社員は少し考えてから答えた。
「まあ、やってれば覚えるよ」
「え?」
「人によって違うからね。自分で覚えたほうが早い」
そう言って笑った。
俺は少しだけ違和感を覚えた。
でも、すぐに気にしなくなった。
営業なんて、人と話す仕事だ。
やっていれば慣れる。
そういうものなのだろう。
夕方。
新人全員が集められた。
そこで初めて、会社の「本当のルール」を聞いた。
「うちは完全歩合制だから」
上司が言った。
「固定給はない」
俺は一瞬、言葉を失った。
もちろん求人にも書いてあった。
でも、実際に口にされると重みが違った。
「つまり、契約を取れなかったら……」
「金は出ない」
即答だった。
「一件も取れなかったら?」
「ゼロ」
部屋が静かになった。
誰かが小さく息を飲む音が聞こえた。
俺は隣を見る。
同じ新人の男が、少し不安そうな顔をしていた。
でも俺は違った。
むしろ、そこで自分に言い聞かせた。
――だからこそ、稼げるんだ。
成果がそのまま報酬になる。
なら、成果を出せばいい。
簡単な話だ。
上司は続けた。
「あと、月間ノルマがある」
ホワイトボードに数字が書かれる。
新人にとっては、それなりに高い数字だった。
「これを達成するまで帰ってくるな」
冗談かと思った。
誰かが笑った。
しかし、上司は笑っていなかった。
「文字通りだ」
空気が変わった。
「自分の数字は自分で作れ。誰も助けてくれない」
それだけ言って、上司はホワイトボードの前から離れた。
その日の研修は終わった。
帰り道。
同期たちと駅まで歩いた。
「ヤバくね?」
「思ってたよりキツそう」
「固定給ないって本当なんだな」
「俺、親に何て言おう……」
そんな声が聞こえてくる。
俺は黙っていた。
怖くなかったと言えば嘘になる。
でも、それ以上に興奮していた。
普通の会社員とは違う。
自分次第。
自分の力次第。
そう思っていた。
翌日。
さらに驚くことがあった。
朝のミーティングで、上司が新人に向けて言った。
「覚えておけ」
全員が顔を上げる。
「うちは、搾り取れるやつから搾り取る」
一瞬、意味が分からなかった。
「若くても、経験がなくても、売れるやつならどんどん仕事を回す。逆に売れないなら、それまでだ」
誰も何も言わない。
「会社は慈善事業じゃない。稼げる人間に稼いでもらう。それだけだ」
俺はその言葉を聞いて、妙に納得してしまった。
確かにそうだ。
会社なのだから、利益を出す必要がある。
売れる人間が評価される。
当たり前のことだ。
その時の俺には、それが異常だとは思えなかった。
むしろ、
――実力主義ってこういうことか。
そんなふうに考えていた。
そして、いよいよ営業に出る日が来た。
朝。
俺はいつもより早く起きた。
スーツを着る。
鏡を見る。
ネクタイを整える。
まだ大学を卒業したばかりの自分が、妙に大人っぽく見えた。
「よし」
小さく呟く。
今日は稼ぐ。
そう決めて家を出た。
会社に着くと、営業用の資料を渡された。
商品について書かれたパンフレット。
防災用品。
防犯用品。
住宅設備。
リフォーム。
それぞれの特徴が簡単にまとめられている。
「これ持って行って」
先輩社員が言った。
「はい」
「あと、分からないことがあったら電話して」
「分かりました」
「まあ、最初はそんなに取れないけどね」
その言葉に、俺は少しムッとした。
「取りますよ」
先輩は笑った。
「その意気込みだけは大事」
会社を出る。
営業車に乗る。
地図を確認する。
これから向かうのは、住宅街。
俺はハンドルを握りながら、頭の中でこれからの生活を想像していた。
契約を取る。
報酬が入る。
また契約を取る。
さらに報酬が入る。
そのうち月に何百万も稼ぐ。
好きなものを買う。
好きな店へ行く。
好きな時間に起きる。
誰にも縛られない。
そんな生活が待っている。
俺はまだ知らなかった。
この仕事で手に入れるものが、金だけではないことを。
人を見る目。
人と話す方法。
相手の言葉の裏側を考える癖。
そして――
いつか、それらが自分自身に向けられることになることを。
その時の俺は、そんなことなど考えていなかった。
ただ、金が欲しかった。
自由が欲しかった。
そして何より、
「俺ならできる」
そう信じていた。
それが、俺の社会人生活の始まりだった。




