83 守り、閉じ込める結界
いた。
土煙と焼き焦げた空気の先に人影が見える。
サタンが立っている。
煙の向こうで、彼の瞳だけが静かに光っていた。
外へは出られる。
逃げられない。
助けも来ない。
交易もできない。
狩りもできない。
なぜなら雷虎が見張っているから。
サタンの影が、ゆらりと揺れた。
結界へ向け、ゆっくりと歩みを進める。
空が再び唸った。
轟音とともに、二条目の雷がサタンめがけて叩き落とされる。
だがその雷は、彼に届く寸前で不自然に軌道を歪めた。
まるで何かに掴まれたかのように向きを変え、雷の色と大きさが変わり、雷虎の潜む崖の方向へと弾き飛ばされる。
閃光が遠くで炸裂し、地が震えた。
崖の岩は音を立てて崩れ、雷虎は身を引いた。
直撃したように見えたが、死んではいないだろう。
サタンは足を止めない。
揺らぎひとつ見せぬまま、結界へと踏み入る。
黒い膜が静かに波打ち、彼の姿を呑み込んだ。
「サタン様!!ご無事ですか!?」
ゾイルはサタンに駆け寄る。
サタンの体表を覆っていた魔力が霧散している。
怒りであれだけ体外にあふれ出していた魔力が……だ。
「魔力は霧散。インドラから授かった耐電能があるはずなのに体がしびれている。やはり噂にたがわぬ化け物だな」
「結界の外に雷虎が見張っているなんて……」
「ああ、気配や魔力を隠すことが上手いな。魔力感知にも反応しなかったし、全く気が付かなかった」
「ええ、私も常に気配を探っていましたが雷が落ちるまで全く気が付きませんでした」
「だが、雷を出す直前は、必ず魔力が検知できる」
「なるほど。魔法を放つ前のほんのわずかな溜め時間に感知できるというわけですか。では二条目の雷を防げたのは、直前に感知していたのですか!?」
「ああ、来ると分かったから、灰雷を放ったのだ。いわゆる誘導雷だ」
*
雷が落ちきる、その刹那。
サタンは掌を横へ払った。
空気を裂く灰色の稲光が走る。
天から降る白雷は、サタンの放った灰雷に吸い寄せられ、サタンを逸れてより大きな灰雷となり雷虎へ向かった。
天が割れたかと思うほどの轟音は、まるで開戦の号令となった。
*
「刹那のタイミングで……そんなことを」
ゾイルはあっけに取られる。
精密なタイミングで、さらに雷が相手より大きくなければ成立しない。
上位魔獣である雷虎の攻撃をいなすこの方も、たしかに魔界の上澄みにいるのだ。
恐ろしい成長スピードと戦闘センス。
そして知識の深さ。
「しかし、この避け方だと俺の消費が大きすぎる」
「やはり、私が空間を切ってみるしかないですね」
ゾイルは思案する。
ただ不安もあった。
自分はサタン様のように魔力感知はできない。
気配や殺気などは感じることはできるが、雷虎の気配の隠し方は尋常ではない。
雷を放った瞬間、タイミングよく空間を裂くことはできるかだ。
常に対象を視界に収めておく必要がある。
「おい、お前達」
サタンの低い声が、すすけた村の空気を一枚はがすみたいに響いた。
先ほどのような怒鳴り声ではない。
だが、逆らう余地のない圧がそこにあった。
焚き火の残り香と、濡れた土と、錆びた鉄の匂い。
村人たちは肩をびくりと跳ねさせ、反射的に身を縮める。
視線だけが逃げ場を探してうろつき、それでも結局、黒い影のように立つサタンへと引き寄せられていく。
栄養失調でまともに動けない体を無理やり動かす。
足がもつれる。
石ころに蹴つまずき、泥を跳ね上げ、誰かが「ひっ」と短く息を漏らした。
恐怖で身体が先に動き、心が置いていかれている。
そんな走り方だった。
サタンは顎をわずかに上げ、村の広場で火にかけられていた大鍋を示す。
サタンが怒りを噴出したときに火は消え、スープは冷えている
鍋は煤で真っ黒に焼け、縁の欠けた部分から冷えた油膜みたいなものがこびりついていた。
ふたは半分ずれ、内側の影が覗いている。
影の中には、幼子のパーツがただの湯で煮られ浮いていた。
「あの鍋の骸は弔ってやれ。食料は」
言いかけて、サタンは一度だけ村人たちの顔を見回す。
彼らの頬はこけ、唇は乾ききって割れ、目の白い部分が異様に目立つ。
飢えは、恐怖よりも先に人を削る。
「俺たちが持っている物を、すべてやろう」
「……ほ、ほんとに……」と誰かが呟いた。
声は風に折れそうなほど細い。
村人の一人が、震える指で鍋のふたを押さえ、遅い動作で開けた。
重い金属が擦れる音が、妙に大きく耳に刺さる。
中にあったのは、頭部の無い小さな遺体だった。
頭部だけは弔ったらしい。
極限の飢えの狂気の中にわずかに残った理性。
この村でもう少し飢えが進めば、死体の脳を啜っていたのだろう。
村人の説明は、途切れ途切れだった。
「あ、あれは……飢え死にした魔人の子で……」
喉が鳴る。
言葉にすると、現実が硬い塊になって胸へ落ちてくる。
「……俺の……息子で……」
最後の一語は、絞り出したというより、血の滲む吐息だった。
父親の頬を、泥の筋をなぞるように涙が落ちる。
泣いているのに、声が出ない。
ただ顎が震え、鼻から荒い息が漏れる。
その涙のせいで、いっそう惨めに見えた。
父親は唇を噛み、赤く裂けたところから滲む血を拭おうともしない。
「腹が減ったって……言って……死んでった」
そこで言葉は崩れ、肩が大きく上下する。
「鍋に……」
彼は、鍋の縁に額をこすりつける。
それはこの世にいない息子への謝罪をするかのように。
サタンはそれを見下ろし、わずかに目を細める。
哀れみなのか、怒りなのかは判別しづらい。
ただ、空気の温度が一段下がったように感じられた。
「弔え」
短い命令が落ちる。
村人たちはうなずく。うなずくしかない。
だが、そのうなずきには、恐怖だけではなく、救われた者がようやく息を吸うときの、かすかな安堵も混じっていた。
村人はサタンとゾイルの提供した食料を無言で黙々と食す。
極限状態で急にたくさん食べると、体内の電解質のバランスを崩し死ぬことがある。
リフィーディング症候群という。
これは知識ではなく、自身の飢えの経験からの指示であった。
サタンはわざと少量を村人に配る。
配給は少しずつ増やすようにゾイルに言いつける。
サタンは、その様子を無表情で見る。
食事とは、状況が違えば、かのように虚しいのか。
飢え(本能的な欲)と罪悪感(理性的な食への拒絶)がこのような状況を生み出しているのだ。
先日の砂漠での食事を思い出す。
食事が終えることを見守ると、一人を呼びつけた。
「アバドンはお前たちにどう説明した?」
「アバドン様は雷虎から守るため、この結界を施してくれました。この結界の要はあの祭壇に祀られているクリスタルです」
「あのクリスタルが壊れれば、この結界は消えると?」
「おそらくは……アバドン様からはあのクリスタルを丁重に扱うように言われております」
「……わかった。アバドンがこの結界を施したのはいつだ?」
「約3か月前です」
「その間、アバドンは一度も来なかったのか?」
「はい。何かあったのかと気が気ではなかったのですが、様子を伺いに外に一歩でも出れば、雷虎の餌食に」
「ここに残った者は結界に閉じ込められたというより、立てこもったのだな」
「はい……戦う力……いえ、勇気もなく……」
「そうか。事情は分かった。ゾイル!」
「はい。サタン様。いかがされました?」
「俺は一度、村から出る。タマも心配だしな。勇者達と合流後、雷虎を撃退する。お前はこの村に残り、村人たちに食料を配りながら戦いの準備をさせろ」
「しかし、サタン様。私たちの手持ちでは、皆に行き渡る食料は本日分しかありませんよ。」
「今から取ってくる」
「え?」
するとサタンは結界に再び歩き出した。
結界の外に出た瞬間サタンの姿は消えうせた。
「さ、サタン様?」
透明化か?
いや、気配がまるでない。
「まさか……空間転移」
アバドンが鉱山でやってのけた移動魔法だ。
たしか座標と目的地の地形が分かることが、術の発動条件のはず。
となれば、行先はインドラ様の拠点だろう。
魔力の消費が大きく、膨大な魔力を持つものしか扱えぬ術だ。
とはいえ、これから雷虎と戦うというのに、魔力は大丈夫だろうか?
「……サタン様なら何とかするか。さて……俺は俺のやれることをしよう」
サタンに対して、絶大な信頼を寄せるゾイルだった。




