81 砂漠の端、山脈の始まり
砂漠の端。
石が増え、辺りは黄色から灰色の景色へと移り変わる。
山脈の麓までラシードはゴーレムで送ってくれた。
「世話になった」
「礼はいい。それより気を付けて」
「ラシードさん、ありがとうございました」
「……勇者とは不思議な者だな。我ら魔族の天敵なはずなのに、敵意を向けようとかそういう気にならないのだ。精霊のおかげか、おまえ自身の気質によるものか……」
勇者はきょとんとした顔でラシードを見つめる。
「それはきっとラシードさんがいい人だったからです」
「いい人か……っははは」
静かなラシードが大声で笑った。
「お前なら……魔族と人間の架橋になれるかもしれぬな」
「いいですね!それ!私もやってみたいです!」
勇者はサタンとの会話や旅でなんとなく人間と魔族の共存は可能なのではないかと感じていた。
サタンも人間の国と貿易したがっているようだし。
何よりこのパーティーでの旅は、刺激的で楽しい。
砂漠の夜風が、ようやく熱を失い始めていた。
ムカデ型のゴーレムの脚が砂を細かくかき分け、さらさらと乾いた音を立てる。地平線の向こうには、低い岩山の影が黒く横たわり、その手前にぽつぽつと灯りが見える。
人の住む場所だと分かるが光が揺らいでいる。
結界だろうか?
ゴーレムを止めたラシードは、背からゆっくりと降り立つ。長衣の裾が風に揺れ、砂が舞う。
勇者も続いて地面に足をつけるが、着地の瞬間わずかに膝が沈み、体が揺れた。
ほんの一瞬だが、サタンの視線がそこに止まる。
ラシードはそれを見逃さなかった。
「……少し、待て」
彼は懐に手を入れ、布に包まれた何かを取り出す。
指先で丁寧に包みをほどくと、小さなガラス瓶が現れた。
瓶の中の液体が淡く金色に光る。
光というより、内側から静かに発している微かな輝きだった。
砂漠の夜の冷えた空気の中で、それだけが暖かい色を持っている。
ラシードはそれを勇者に差し出す。
「これは?」
勇者が両手で受け取る。瓶は想像より温かかった。
揺らすと、とろりと粘度のある液体がゆっくりと壁面を流れ、微かな光の粒が尾を引く。
「これは神力を含んだ蜜だ。神力が枯渇して動けなくなる時に飲むといい」
エリスが思わず身を乗り出す。
「神力を……物質に? そんなこと……」
ゾイルも無言で眉を寄せる。
魔力を帯びた薬なら珍しくないが、これは違う。
瓶の周囲の空気がわずかに澄んでいる。
砂漠特有の重さが、一瞬だけ消えているようだった。
勇者は驚きと戸惑いの混じった顔で瓶を見つめ、頭を下げる。
「ありがとうございます」
そして顔を上げ、少しだけ躊躇してから尋ねる。
「もしかして、私の状態を知って?」
ラシードは小さく肩をすくめた。
「簡単な推測さ。魔界は神力が回復しずらいからな」
勇者の胸の奥が、わずかに冷える。
確かに、ここへ来てから息を吸うたびに何かが薄れていく感覚があった。
祈りを捧げても、以前のような満ちる感覚が戻らない。
戦闘の後、立ち上がるのに妙に時間がかかることも増えていた。
気づかないふりをしていただけだと、初めて理解する。
ラシードは村の方へ視線を向ける。
遠くの灯りが、夜の闇に小さく揺れている。
「この先の村に行くといい。アバドンの支配地域だが、今ならアバドンもベルゼ領内へ急襲中で不在だ」
ゾイルが警戒するように言う。
「支配地域に、わざわざ入れと?」
「雷虎と長く付き合った者たちだ。情報が欲しければ入ることだな。もし、現在アバドンと対立しているのならおすすめはしないがな」
「面識はないし。対立はしていない。しかしな……」
サタンは短く答える。
「そうです、こちらには勇者がいるんだ。魔人の村に勇者を引き連れていけば、戦線布告と受け取られても仕方ない」
「では、勇者と魔法使いさんはお留守番したほうがいいかもしれんな」
ラシードは砂の上に杖の先で地図を描く。
山脈、乾いた川跡、そして村の位置。
そのさらに先に、鋭い線で山を示した。
「雷虎は山脈から現れる。あれは放浪する魔獣じゃない。縄張りの外に出た時は、必ず理由がある」
サタンが静かに目を細める。
「餌不足か、追われたか……あるいは、呼ばれたか」
ラシードはわずかに笑う。
「察しがいいな」
そして杖で山の一点を軽く叩いた。
「その村なら、雷虎についての詳細の情報がきけるかもしれないよ」
勇者は小瓶を胸元にしまい込む。
その瞬間、かすかに温もりが伝わり、胸の奥の空虚が少しだけ和らいだ気がした。
ラシードは背を向け、再び砂漠へ歩き出す。
振り返らない。
ムカデゴーレムが砂を掻き、夜の闇の中へゆっくりと遠ざかっていく。
足音が消えるころ、勇者は小さく呟いた。
「……助けられてばかりだね」
「それは違う」
「え?」
「貸しを作っただけだ。あの男は、返してもらう気でいる。雷虎をよほど邪魔に思っているのだろうな」
そう言いながら、サタンの視線は勇者の胸元、小瓶のある位置に一瞬だけ向いていた。
神力の気配が、微かに夜気の中へ滲んでいる。
それはこの世界にとって、あまりに異質な光だった。
(あの瓶の中身、なんだか分かるか?)
ルシファーがサタンに問う。
(蜜って言っていたから、蜜なんだろう?なんだか嘘くさい気もするが……)
(蜜も味をごまかすために入っているかもしれないが、成分の主体は下級天使の体の一部だ。天使の気配を感じるのだ)
ルシファーは嫌悪感がにじんだ声でサタンに告げる。
(うえ!?)
(天から落ちた下級天使を捕まえて売りさばいた連中がいるんだろう。おぬしの体質でなければ神力などそう簡単に得ることはできぬ)
(そういえば……以前ゾイルが天界から落ちてきた天使が上位魔人の間で売買されているといっていたな)
サタンはワの村で言っていた話を思い出した。
(ああ、あの話か。きっとこのような使い方をするためだったのだな……許せぬ)
ルシファーの中で魔界の新たな目的ができたようだ。
(もしかして天使を素材にすれば、身体や武器に神力を付与できるのか?)
(あまり気持ちのいいものでは無いが、そういうことも可能だろうな。ただし、魔界の瘴気に侵され、堕天する前に……天使でいるうちに処理する必要があるだろうな)
ルシファーは苦々しい口調で認める。
(勇者にはこのことは……)
(もちろん黙っておけ。ただし、勇者にあの蜜薬は飲ませないようにするのだ。もし勇者が飲めば光の精霊がどんな反応をするか分かったものではない)
天使と光の精霊は似て非なる存在だ。
天使は天界に住む神の創造物。
光の精霊は神の生まれたときに散り散りになった幾つもの分身。
話すことは無いが、思考は神に近い。
ルシファーとしても、光の精霊には気を遣うようだ。
怒りに触れることは避けなければならない。
神の極小の分身といっても、そこに意思はほとんどあらず。
幾つもの界を漂い、自然現象に魂が宿った存在。
勇者の清らかな魂は光の精霊と親和性が高かった。
(邪法により生み出された天使だった物か。そりゃ清らかで自然を愛する精霊は嫌がるだろうな)
「勇者、先ほどラシードからもらった瓶だが……それは飲むなよ」
「え?どうして……」
勇者はきょとんとして、瓶を持ち上げた。
「せっかくもらったのに」
「だからこそだ」
「どういう意味?」
「人からもらったものを悪く言いたいわけじゃない」
俺は勇者の手元を見ながら言った。
「ただ、お前には刺激が強い気がする」
「刺激?私はもう子供じゃないよ!」
人間社会では16歳になると大人扱いだ。
「魔力的な意味でな」
勇者は瓶を見て、それから俺を見る。
「そんなふうには見えないけど……むしろ神聖で優しい光に見える」
「見た目でわかるものばかりじゃない」
「サタンにはわかるの?」
「……少しな」
ルシファーが言うには、勇者の魂と相性最悪だと告げていた。
「お前、光の気配に引っ張られやすいだろ」
「……それは、まあ」
「なら余計にやめておけ。何が混ざってるかわからんものは、相性が悪いと面倒だ」
勇者は栓に触れかけた指を止めた。
「体調が悪くなるとか?」
「それで済めばいいがな」
「え」
「脅してるわけじゃない。ただ、わざわざ試す必要はない」
勇者は少し不安そうに瓶を見下ろした。
「じゃあ、どうするの?」
「俺が持つ。あとで調べるからしばし預かるぞ」
「サタンが?」
「そうだ。お前が飲んでよさそうな物とわかるまで……」
「珍しく世話焼き……」
「うるさい」
勇者はくすっと笑った。
空気が少しだけ和らぐ。
「……わかった。じゃあ任せる」
俺は無言で瓶を受け取った。




