75 羊が生まれる木
草原は、妙に静かだった。
風は吹いている。
遠くでは雲が流れ、風が波のように草の海を揺らしている。
だが、音がない。
虫の羽音も、鳥の鳴き声も、獣の気配もない。
勇者は周囲を見回し、眉を寄せた。
「……変じゃない?」
エリスが杖を軽く握り直す。
「ええ。風はあるのに、生き物の気配がありません」
サタンは草を一本摘み、指先で擦った。
葉は瑞々しい。
枯れてはいない。
だが、彼はゆっくりと視線を遠方へ向ける。
「いる」
その時だった。
前方の丘の斜面で、白いものが動いた。
「羊だ!」
勇者の声が弾む。
数頭の子羊が、草を食んでいた。
毛並みは雪のように白く、丸々としている。
牧場にいる家畜と、まるで変わらない。
タマキンが、ぴくりと耳を立てた。
「にゃ……肉」
尻尾を膨らませる。
「柔らかそうだにゃ。旅の保存食、確保するべきにゃ」
ゾイルはすでに動いていた。
言葉より先に行動する男である。
無言のまま弓を取り、膝をついて狙いを定める。
弦が、静かに引き絞られた。
「待て」
低い声。
サタンだった。
ゾイルの視線は、獲物に固定されたまま。
しかし、その瞬間。
ゾイルの指が止まった。
「……おかしい」
「え?」
勇者が覗き込む。
子羊が、ゆっくりと歩いた。
そして、止まった。
いや。
止まったのではない。
戻った。
同じ場所に、引き戻されるように。
「……?」
もう一頭の羊が草を食む。
数歩進む。
そして、ふっと浮いた。
「浮いた!?」
勇者が声を上げる。
羊の腹が、地面から離れていた。
四肢は空中で軽くもがいている。
しかし、逃げない。
いや、逃げられない。
ゾイルが目を細めた。
「……違う。浮いているんじゃない」
彼はさらに目を凝らす。
「繋がっている」
羊と草の間に、何かが繋がって見える。
勇者も目を凝らした。
そして、息を呑む。
羊の腹から、まっすぐ地面へ――。
木の幹が生えていた。
それは臍の緒のように、羊と大地を繋いでいる。
皮膚を貫いているのではない。
最初から、そこに“生えている”のだ。
羊は歩いていたのではなかった。
幹の届く範囲を、回っているだけだった。
風が吹く。
羊の体が、植物のように揺れた。
幹は太いが、かなりしなやかな物質のようだ。
勇者は思わず呟く。
「……なに、あれ……?」
エリスが低く呟いた。
「……バロメッツ」
「知ってるの!?」
エリスは即座に、勇者の腕を掴んだ。
「近づかないで!」
珍しく強い口調だった。
「地獄の悪魔の創造物と伝えられている存在です。動物でも植物でもない……境界の生き物です」
タマキンが首を傾げる。
「でも、羊にゃ?」
「違います」
エリスは草原を指差した。
羊の周囲だけ、円形に地面が露出している。
そこだけ、草が一本も生えていない。
「……あの円の内側に入った者は呪われます」
「呪い?」
「結界型の呪いです。生命力を吸われ、衰弱し……死にます」
勇者の喉が鳴る。
「じゃあ、あの草がない場所って……」
「餌の範囲です」
エリスは静かに言う。
「あれは草を“食べている”のではありません。生命を吸っているのです」
沈黙。
ゾイルが静かに立ち上がった。
「……なるほど。つまり、中に入らず幹を切断すればいいのだな」
彼は弓を下ろす。
腰の刀を抜く。
そして、鞘に収めたまま構えた。
魔力が練り上げられる。
天使戦で見たときよりも、数段濃密な魔力だった。
サタンがわずかに口角を上げる。
「ほう」
ゾイルの周囲の空気が震えた。
風が収束する。
「疾風一刀流・三ノ型――界断」
抜刀は一瞬だった。
斬撃は見えない。
音もない。
だが、数十歩先にあるバロメッツの“幹”が、遅れて切断された。
ぷつり。
羊の体が、宙に跳ねる。
次の瞬間、動かなくなり、草の上に転がった。
結界の円が消える。
タマキンが一目散に駆けた。
「にゃーーーー!!!」
「待って、タマちゃん!」
勇者の制止は間に合わない。
だが、何も起きなかった。
呪いの気配もない。
ゾイルが頷く。
「本体は幹だ。切ればただの肉だ」
タマキンが噛みついた。
一口。
固まった。
「……ニャにこれ」
珍しく真顔になる。
「……うまい」
ゾイルも恐る恐る口にした。
「これ、生で食えるのか? ……旨いな」
「私は、さすがに炙らせてもらうわ」
エリスは薄く切り取った肉片を受け取り、炎の魔法で炙ってから口に運ぶ。
そして、目を見開いた。
肉は羊より柔らかく、野性味がない。
深いコクがあり、後味には花の香りのような、わずかな甘さが残る。
サタンは指先で血を掬い、舐めた。
黄金色の液体が、舌に広がる。
「……なるほど」
彼は微笑んだ。
「血が蜂蜜とは。悪魔が好むわけだ」
風が吹き、草原が再び揺れた。
だがもう、そこに“羊の呪い輪”は存在しなかった。
「休憩がてら、食事にしよう」
荒れた岩場の野営地。
エリスは地面に小さな魔法陣を描き、指先を鳴らした。
ぱちり、と音がして、空中に小さな炎が生まれる。
薪も火打石もない。
ただ、彼女の掌の上で、橙色の火が静かに揺れていた。
「せっかくだし、ちゃんと料理するわよ。バロメッツは鮮度が命なんだから」
倒したばかりの羊型魔獣――いや、魔植物と言うべきか。
バロメッツの肉を、エリスは手際よく切り分ける。
普通の羊肉よりも赤みが濃く、断面からはほのかに青い蒸気が立ちのぼっていた。
エリスは小鍋に、邪キャベツ、香玉ねぎ、黒糸もやし、岩塩と香草を入れる。
それから、革袋に入った黒い蜜を一滴だけ落とした。
「それ、何だ?」
ゾイルが眉をひそめる。
「奈落蜜。バロメッツ独特の臭みを消して、風味を増してくれるの」
彼女は鍋を火の上に浮かせ、炎の温度を指先で調整する。
強すぎれば、煮立って風味が飛んでしまう。
弱ければ、肉が固くなる。
炎は生き物のように揺れ、鍋底だけを均一に炙り続けた。
じゅう……と音がして、甘い香りと、少し鉄の匂いが混じった独特の香りが広がる。
「はい、魔ジンギスカン完成」
差し出された皿には、薄く焼かれたバロメッツの肉。
表面はこんがり。
中心は、わずかに桃色だった。
勇者が恐る恐る口に運ぶ。
最初に感じたのは、意外なほどの柔らかさだった。
噛んだ瞬間、肉がほろりとほどける。
羊の甘い脂が、舌に広がった。
蜜の優しい風味。
そして、バロメッツの蜂蜜のような血のコク。
それらが肉の味を、最大限に引き出している。
まるで最高級のステーキのような、自然な甘みと口どけだった。
次の瞬間、体の奥がじんわりと温かくなる。
「……あれ?」
指先まで、血が巡るような感覚。
冷えていた身体が、火に当たったみたいに温まっていく。
「これ、ただの肉じゃない……」
エリスが得意げに笑う。
「魔力を少し含んでるの。疲労回復と、軽い活力効果があるわ。だから魔界じゃ高級食材よ」
ゾイルも一口食べ、無言になる。
数秒後、静かにもう一切れ取った。
タマキンは皿に顔を突っ込み、夢中で食べ始める。
サタンは、おいしさのあまり、うっとりとまどろんでいた。
「……おかわり、あるか?」
サタンの言葉に、エリスは肩をすくめた。
「あるわよ。もう一頭いるもの」
焚き火代わりの魔法の炎が、魔界の闇の中でゆらゆらと揺れていた。




