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74 人の世界の外側へ

「サタン様、アスカントは?」


ゾイルがサタンに尋ねた。


「さあな。けど、あいつなら俺の居場所くらい分かるだろう。放っておけ」


サタンは気にした様子もなく言う。


「それに、また俺は町に戻らなければならん。その時にでも拾っていくさ」


「えっ!? また戻るのですか?」


「ああ。雷虎を討てば、金がもらえるとのことだからな」


「金?」


「人間の間で、何にでも交換できる、持ち運びに便利な小さな金属だよ」


「何にでも……」


ゾイルの目がわずかに見開かれる。


「ああ。品物はもちろん、サービスも雑用も、なんでもやってくれるみたいだ」


「そんな便利な物が……。インドラ様が言っていた“貨幣経済”というものですね」


「ああ。取るに足りないと思っていた人間社会からも、学ぶことは多い」


「ただ遊び惚けていたわけではないようで、安心しましたよ」


「辛辣だな〜。なんか怒ってる?」


ゾイルはじとりとサタンを見る。


「サタン様をお待ちしている最中、魔獣たちが立て続けに襲いかかってきたのです」


強がっているが、その目はわずかに潤んでいた。


「まともに寝る暇もなく、食事はタマキンが作る、生臭さの香る心臓の串焼きばかり……」


俺が人間の町で飲食を楽しんでいる間、相当しんどい日々を過ごしていたようだ。


「ごめんて……。これやるから機嫌直して」


サタンはゾイルに、パンと小さな樽を差し出した。


「これは……いい香りの穀物の品。感謝します」


「この一帯は、質のいい穀倉地帯でな。パンとビールという酒がうまかった」


サタンは少し考えながら続ける。


「雷虎の討伐クエストの報酬で人間の貨幣を手に入れたら、それを元手に、インドラの国と人間との間で貿易しようと考えている」


「人間との貿易ですか」


ゾイルは少しだけ眉をひそめる。


「インドラ様とサタン様がそういう方針であれば、私どもに異論はありません」


そして、静かに言葉を続けた。


「私は人間が嫌いです。ですが、このたびの同行で、少しは人間について知れればと思います」


「ああ。くれぐれもよろしく頼む」


サタンは真面目な声で言う。


「あの人間たちと敵対すると、今後の計画に支障をきたすからな」


そこでサタンは、ふとゾイルを見る。


「……ところでゾイル。お前、俺が町に行っている間に、魔力がかなり増えているな。何があった?」


俺は、ゾイルの魔力量がまるで別人のように変化していることが気になっていた。


「いえ。さっき言った通りのことしかしていませんよ?」


ゾイルは不思議そうに首を傾げる。


「ひたすら戦って、心臓を食べていました」


――心臓だろうな。


ルシファーが、心の中でサタンに告げる。


――心臓には魔力を上げる効果があるとでも?


――正確に言えば、魔族の心臓に多く含まれる魔晶石だ。


「心臓料理か……」


「あ、確かに心臓料理はまずかったのですが、身体の調子は良かったですね」


「中位魔人くらいの魔力に成長しているな」


サタンは感心したように言う。


「素晴らしい剣技を併せ持つ今のお前なら、オーガにも勝てるだろう」


「サタン様がそうおっしゃるのであれば、そうなのでしょう」


ゾイルは少しだけ表情を緩めた。


「これでもっとサタン様のお役に立てることを、嬉しく思います」



城門から一キロほど離れた瞬間、空気が変わった。


王都の外に出ること自体は、勇者にとって初めてではない。


だが――。


“魔族の領域に足を踏み入れる”のは、これが初めてだった。


風が重い。


肌にまとわりつくような、湿り気を帯びた空気。


草の匂いに混じって、鉄と獣のような臭気がかすかに漂う。


遠くの地平線はわずかに紫がかり、雲の影が大地をゆっくりと這っていた。


少女勇者は無意識に、胸元のお守りを握る。


母親がくれた、手製のお守りだ。


――これが。


教会で聞かされていた。


魔界に近い土地では、瘴気が薄く広がり、人は知らぬうちに心を削られていく、と。


足元の草はまばらで、ところどころ焦げたように黒い。


鳥の声は少ない。


代わりに聞こえるのは、何かが遠くで地面を掻く音だった。


勇者は思わず、サタンの背中を見る。


平然と歩いている。


まるで、ただの散歩でもしているかのように。


「怖いか?」


振り向きもせず、サタンが言った。


「……少しだけ」


嘘だった。


かなり怖い。


背後から何かに見られているような気配が、ずっと消えない。


視線が、木の影や岩陰に潜んでいる気がする。


「正常だな」


サタンは淡々と言う。


「ここは“人の世界の外側”だ」


エリスが荷物を揺らしながら歩く。


「ほら、気にしすぎ。まだ外縁部よ。深部に行ったら、こんなものじゃないんだから」


「慰めになってない」


その時だった。


草むらが揺れた。


勇者は反射的に槍を構える。


次の瞬間、角の生えた大きな猿のような魔獣が顔を出した。


勇者と目が合った瞬間、その魔獣は長い鉤爪を振り上げて襲いかかってくる。


勇者は槍で鉤爪の一撃を受け止めた。


周囲に、金属がぶつかるような音が響く。


ものすごい力だ。


勇者の額に青筋が浮かぶ。


「ウキー!」


その声とともに、周囲の草むらから複数の猿型魔獣が顔を出した。


仲間だ。


「やばいかも……」


猿たちは木々の隙間から飛び出した勢いのまま地面を踏みしめ、勇者たちを取り囲んだ。


歯をむき出しにし、喉の奥で唸る。


その一匹が――ふと、サタンを見た。


目が合う。


瞬間。


猿の動きが止まった。


まるで時が固まったかのように、前足を踏み出しかけた姿勢のまま静止する。


牙を剥いたまま、喉の唸りが途切れた。


空気が、不自然に静まり返る。


サタンは何もしていない。


構えもしない。


ただ、そこに立っているだけだった。


次の瞬間、猿の体が小刻みに震え始める。


歯が、カチ、カチ、と鳴った。


一匹だけではない。


周囲の猿たちも次々とサタンへ視線を向け――硬直した。


唸り声は消えた。


代わりに漏れたのは、喉の奥から絞り出すような、かすかな悲鳴。


背の毛が一斉に逆立ち、尻尾が腹に巻きつく。


威嚇の姿勢のまま、後ずさる。


理解してしまったのだ。


これは、戦う相手ですらない。


捕食者だ。


一匹が甲高い叫び声を上げた。


それを合図に、猿たちは一斉に地面を蹴る。


互いにぶつかり合い、転び、木に激突しながら、我先にと森へ逃げ出した。


枝が折れ、葉が散り、土煙が巻き上がる。


数秒前までの殺気は、跡形もなく消え去った。


残ったのは、揺れる木々と静寂だけだった。


「逃げた……」


勇者は、あっけに取られる。


エリスが苦笑した。


「そりゃそうよ。上級魔族がいるもの」


勇者はサタンを見る。


「あなた、どれくらい怖がられてるの?」


「さあな。今は魔力をそれほど抑えていない」


「正直、その辺の魔獣より、あなたの放つ魔力の圧の方が恐ろしいわ」


エリスも引きつった顔でサタンを見た。


町中で見た時より、禍々しい魔力を放っている。


いや、本人には放出している気はなく、ただ漏れ出ているだけなのだろう。


――あれ、絶対“命の危険を感じた逃げ方”だった……。


勇者は心の中で呟いた。


街道は、次第に舗装が消え、岩場が増えていく。


木々は背が低く、枝はねじれ、葉は厚く硬い。


まるで、この土地そのものが生き物のようだった。


木の魔物が町に出たのだ。


自然物に擬態している魔物は、他にもいるのだろう。


「エリスにゃん、まだマタタビ持ってるのかニャ?」


タマキンはエリスの足に顔をこすりつけながら、上目遣いで見ている。


「もちろんよ。サタンさんから、タマさんがゲキマタタビ好きだって聞いたから、極上の乾燥ゲキマタタビを町中から持ってきたわ」


「このタマキン、一生あなたについていきますニャ」

もう完全に懐柔されている。

こうして一行は、魔族と人間が混ざった奇妙な隊列のまま進んでいく。


目指すは、雷虎の棲む草原地帯の果て。


岩山地帯である。

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