72 疑念の勇者と氷獄に封じられた魔
「……俺はな」
低い声だった。
怒鳴り声ではない。
むしろ、思い出話をするような、静かな調子だった。
「この辺りに、住んでたんだ」
勇者の背後で、瓦礫が崩れる音がする。
それでもグレンデルは、視線を逸らさなかった。
「森も、川も、岩場も……夜になりゃ静かでよ。獣の声と、風の音だけの場所だった」
その目が、細く歪む。
「だが、人間どもは違う」
グレンデルは鼻先で笑った。
「城を建て、結界を張ってよ。安全圏から酒を飲んで、歌って、火を焚いて、馬鹿騒ぎしやがる」
指先が、石畳を掻いた。
爪が削れ、火花が散る。
「俺は何度も――何度も、ぶち切れたさ」
声が、わずかに低くなる。
「だがな……通れなかった」
グレンデルは、天を仰ぐように顔を上げた。
「見えない壁だ。踏み出せば、弾かれ、焼かれ、戻される」
そして、ゆっくりと勇者を見る。
「結界ってやつだ」
その一言に、城の空気が冷えた。
「一昨日までは、な」
沈黙が落ちる。
遠くで、まだ生きている兵の呻き声が、かすかに響いていた。
「おかしいと思わねぇか? 何年も、何十年も、ぴくりとも動かなかった壁がよ……“一昨日から”消えた」
グレンデルの口が、ゆっくりと裂ける。
「王がいるだろう?」
城の奥を、顎で示す。
「人間の中心。命令するやつ。守られるだけのやつ」
毛むくじゃらの巨体が、一歩前に出る。
「俺はな、この城を壊しに来たんじゃねぇ」
グレンデルは、歪んだ笑みを浮かべた。
「“結界の向こうで一番笑ってたやつ”を、引きずり出しに来ただけだ」
勇者は槍を構えたまま、息を殺す。
グレンデルは、低く、確信に満ちた声で言った。
「止めるなら、来い。だが覚えとけ――壁が消えたのは、偶然じゃねぇ」
その言葉が、夜よりも重く城に沈む。
「誰かが、“通っていい”って言ったんだ」
勇者の脳裏に、あの魔族の男の顔がちらつく。
あの男の目的は、いったい何なのだ。
背後には、王の間。
退路はない。
グレンデルが、鼻で息を吐いた。
その熱だけで、少女の前髪が揺れる。
「……小せぇな」
低い声。
からかうようでいて、油断はない。
次の瞬間、壁が砕けるほどの一撃が振り下ろされた。
勇者は跳ねるように飛び退いた。
床を転がり、石片が背中に当たる。
――遅れた。
腕が痺れ、槍先がわずかに下がる。
「っ……!」
グレンデルの拳が、真横を通り過ぎる。
凄まじい風圧が、頬をかすめた。
当たっていれば、終わっていた。
怖い。
喉が締めつけられる。
足が、逃げろと叫んでいる。
神力は昨日、ネクロドリュアとの戦いでほとんど使い切っていた。
それから、まだ十分には回復していない。
魔界の瘴気の中では、神力は回復しづらい。
しかし、ここで引くわけにはいかない。
これ以上、城の兵たちの犠牲を出したくなかった。
勇者の目が、物陰にいるエリスを捉える。
エリスの炎の魔法は強力だ。
だが、城の内部で広範囲の炎を使うわけにはいかない。
「エリス……火、点で!」
声は震えていない。
自分でも驚くほど、冷静だった。
「灼光線!」
回避困難な光のように速い炎のビームが、グレンデルを襲う。
グレンデルの肩で、一瞬だけ光が弾けた。
燃えない。
広がらない。
ただ、皮膚を焼く痛みだけを残す。
「ぐっ……!」
巨体の動きが止まる。
勇者は、その隙に全体重を乗せて踏み込んだ。
腰が悲鳴を上げる。
腕が引きちぎれそうになる。
それでも、槍は真っ直ぐだった。
「ルーメン・スラスト! ――天光穿!」
狙うは脇腹。
毛皮の薄い場所。
骨の隙間。
ミスリルの穂先が、肉へ食い込む。
――浅い。
「なんて硬い皮膚なの!?」
血は出る。
だが、致命傷にはほど遠い。
次の瞬間、勇者の身体が宙に浮いた。
掴まれた。
小さな胴が、片手で持ち上げられ、締め上げられる。
「ぐっ……うぅ……!」
とっさに薄く神力で体を覆う。
だが、メキメキと骨が軋んだ。
肺から空気が抜ける。
「軽い……」
グレンデルの声が、近い。
視界が暗くなる。
――いや。
まだだ。
「目……!」
「炎閃!」
エリスの閃光魔法が、グレンデルの目を眩ませる。
グレンデルが顔を背けた、その一瞬。
勇者は歯を食いしばり、槍をグレンデルの太い腕へ思いきり突き立てた。
骨と肉に当たる感触。
掴む力が、緩む。
勇者は床に落ち、そのまま転がった。
息を荒くしながら、再び立ち上がる。
脚が震える。
腕が上がらない。
体が軋む。
使える神力は、ほとんど残っていない。
神力切れ。
それでも、槍を構える。
「……来い」
声は、まだ幼い。
だが、その目は、これ以上殺させないと覚悟した者の目だった。
グレンデルは、血を垂らしながら笑う。
そのときだった。
「そろそろ代わろうか?」
サタンが、勇者に声をかけた。
いつの間にそこにいたのか。
誰にも分からないほど自然に、城の背景に溶け込んでいた。
緊迫した空気の中、なんとも気の抜けた問いだった。
勇者やエリスはもちろん、グレンデルでさえも驚いた顔でサタンを見る。
「なんだと貴様。お前がこの勇者の代わりに、俺と戦うとでも?」
「ああ。お前の相手は俺がしようか? 時間は取らせない」
「人間風情が……調子に乗りやがって」
「お前は俺が人間に見えるのか……」
サタンは、少しだけ肩をすくめる。
「まあ、この身なりなうえ、魔力を抑えているから仕方ないか」
「ぺらぺらと……うるさい奴は死ね」
グレンデルは、サタンへ拳を振り下ろした。
サタンは少しだけ魔力を解放し、身にまとった魔力の腕でグレンデルの拳を受け止める。
「なっ!?」
「中級魔人ってところか……」
サタンは、拳を受け止めたまま淡々と言う。
「おい、お前。このまま立ち去れば見逃してやってもいい」
グレンデルの顔が歪む。
「南の森に、インドラが治める魔物の国ができる。そこで協力することが条件だがな。どうだ?」
「インドラ? 誰だそいつは?」
グレンデルが唸る。
「俺は地獄のネフィリムの一族。わけの分からん奴の下に仕える気などない! 我らは誰にも従わない!」
「地獄の住民だったか」
サタンの脳裏に、アスカントの顔が浮かぶ。
「では、お前にもう用はない。さらばだ」
サタンは静かに呟いた。
「――灰凍の氷獄」
囁かれた瞬間、周囲の空気が死んだ。
熱も、音も、呼吸すらも拒むように、世界が一拍遅れて凍りつく。
足元から這い上がるのは、白でも蒼でもない。
光を吸い込むような、暗い氷霧だった。
それは霧でありながら刃を持ち、触れた大地を軋ませ、砕き、封じていく。
空間そのものが冷却され、霜は対象を中心に檻の形を取り始めた。
無数の氷柱が逆巻くように生え、内側へ、内側へと収束していく。
「なッ!? 動け……助けて……母ちゃん……」
その一言を残し、グレンデルの巨大な体はたちまち霜に覆われた。
逃げ場はない。
凍結は外側からではなく、内側から染み出してくる。
呼気は白くならない。
吐いた瞬間に凍り、肺の奥で砕け散るからだ。
氷は割れない。
溶けない。
時間すら閉じ込める。
やがて氷獄は静止し、そこには時間が止まった氷像だけが残った。
悲鳴も、抵抗の痕跡もない。
ただ、永劫の寒さに屈した存在の名残だけが、沈黙の中に封じられていた。
「静かな時間を過ごせ」
サタンは振り向き、勇者に声をかける。
「終わったぞ」
「寒い……」
勇者は小さく震えながら、ぶっきらぼうに答えた。
「……なんで助けたの? 頼んでない」
「なんだ? 怒っているのか?」
「怒ってない!!!」
なんだ、この気持ちは。
情けない。
ふがいない。
最後まで戦いたかった。
でも、あのまま戦っていたら、私はきっと――。
また、救われてしまった。
「いや、怒ってるじゃん……。エリス、こいつの面倒を見てくれ」
「なんでここに来たの。あなたには関係ないはずよ」
勇者はサタンに食ってかかる。
「関係ないことはないだろ。この情報を教えたのは俺だし、お前、また神力切れを起こしそうだったし……」
力不足を指摘されたようで、勇者はかちんときた。
「この怪物を城の中に入れたのは、あなたじゃないの!!?」
「何言ってんだ、お前?」
サタンが眉をひそめる。
「そうよ、リツカ。さすがに言いがかりよ」
エリスも勇者をたしなめた。
「だって、おかしいじゃない!?」
勇者は声を荒げる。
「何十年も破られなかった結界が、あなたが来た頃に破られて、魔獣や魔人たちが町を襲うだなんて……!」
「……」
サタンは黙った。
「どうして黙るの?」
勇者は、サタンに否定してほしかった。
「リツカ……きっと疲れているのよ。今日は休みましょう」
「何が目的なの?」
勇者の声が震える。
「私たちに恩を売りたいの? そうやって油断させて、殺す気なの?」
「……油断させて殺す、か」
サタンは一瞬だけ目を伏せた。
次いで、小さく肩をすくめる。
その仕草は、戦いで見せた圧倒的な存在感とは、あまりにもかけ離れていた。
「俺がその気なら、さっき終わっていたぞ。というか、最初からいつでも殺せた」
勇者は奥歯を噛みしめた。
それを言われて、否定できない自分が何より腹立たしかった。
「……ほらな。怒っている」
「怒ってないって言ってるでしょ!!」
声が震える。
寒さのせいではない。
自分でも整理できない感情が、胸の奥で暴れていた。
サタンはしばらく勇者を見つめる。
それから、ふっと視線を外した。
砕けた石畳。
凍りついた瓦礫。
窓の向こうに灯る、人の明かり。
「目的か……」
低く、独り言のように呟く。
「この町は、人間の文化が面白いって聞いてな。魔人と同じ人型でも、文化も味覚も全然違う」
サタンは、少しだけ楽しそうに続ける。
「特に食事がいい。香辛料の使い方が独特だ」
「……は?」
勇者だけでなく、エリスも言葉を失った。
「……今、なんて?」
「だから、飯を食いに来た」
あまりにも場違いな答えだった。
戦禍が降りかかっている最中、そんな理由を口にする存在が、これまでにいただろうか。
「ふざけないで!!」
勇者が一歩踏み出す。
それは怒りというより、恐怖に近かった。
「そんな理由で、町が……人が……!」
「壊したのは俺じゃない」
サタンの声は静かだった。
否定でも、弁解でもない。
ただ、事実を述べるだけの声音。
「魔獣が来たのは俺のせいじゃない。結界が破られた理由も、俺は知らない」
「……嘘」
「嘘をつく意味がない」
その言葉には、奇妙な重みがあった。
力で黙らせることなど容易くできるはずの存在が、言葉だけで語っている。
「それに――」
サタンは、勇者へ視線を戻した。
まるで珍しい生き物を見るような目で。
「お前が“勇者”だから、少し気になっただけだ」
胸が、ひくりと跳ねた。
「……何、それ」
「力の源である神力を使い切って、なお折れない意思。限界だと分かっていて前に出る愚直さ」
サタンは淡々と言う。
「正直、嫌いじゃない」
勇者は息を詰まらせた。
褒められているはずなのに、屈辱のように感じる。
「でも安心しろ」
サタンは軽く手を振る。
「今は殺さない。というか、殺す理由がない」
そして、あまりにも平然と続けた。
「俺はただ――この町で少し人間を眺めて、飯を食って帰るだけだ」
「……信じられるわけない」
「だろうな」
即答だった。
「だから、無理に信じなくていい。疑ったままでいい。その方が、お前ら“人間らしい”」
沈黙が落ちる。
凍った空気が、少しずつ溶けていく。
エリスが、そっと勇者の肩に手を置いた。
「……今日は、もう十分よ。続きを考えるのは、明日にしましょう」
エリスは、勇者にこの場から離れるよう促す。
少し混乱しているようだから、今日のところはそっとしてあげよう。
エリスはそう思った。
人類の存亡の責任を、小さな双肩にかけられる“勇者”。
それを十六歳の女の子が背負うには、あまりにも重すぎる。
勇者は唇を噛み、最後にサタンを睨みつけた。
「……覚えておいて。あなたがどんな存在でも、私は――」
「分かってる」
サタンは、微かに笑った。
「次に会う時は、もう少し落ち着いて話そう」
そして、何でもないことのように言う。
「……俺は行く。この町の飯屋、夜が本番らしいからな」
そう言い残し、サタンはゆっくりと背を向けた。
その姿は、闇に溶けるように消えていった。
「おお、勇者! 無事であったか!?」
物音が止んだことで、王が恐る恐る姿を現した。
「いやはや、見事! この怪物を氷漬けにしてしまうとは!」
「いえ、それは……」
勇者が言いかけたところで、エリスが一歩前に出る。
「王様、勇者は怪我をしております。急ぎ手当てをしたいと思います」
そして、丁寧に頭を下げた。
「ねぎらいの言葉はまた後日、改めてお伺いします。今は失礼してもよろしいでしょうか?」
「え?」
勇者は、エリスと王のやり取りをぽかんとした顔で眺めていた。
かすり傷と、圧迫された痛みがあるくらいで、大怪我はしていない。
「おお、それは由々しき事態じゃ! よい、よい! 勇者の怪我が治り次第、盛大に祝杯を挙げることとしよう!」
「ありがたき幸せ。では、これにて……」
エリスは勇者を呪文で浮かせ、城から逃げるように立ち去った。
「……エリス。ありがとう」
「戦いでは、あまり力になれなかったからね……」
エリスは少しだけ微笑む。
「今日はもう休みましょう」
エリスと勇者は、エリスの家へ向かい、体を休めることにした。




