70 サタン、お金を知らない
「おはよう、リツカ」
「おはよう、エリス」
「顔色がよくなったわね」
「うん。昨日は、あんな強い魔物がうようよいる城外に出ることを考えると怖かったけど……」
リツカは、少しだけ視線を落とす。
けれどすぐに顔を上げた。
「やっぱり私は、お母さんがいるこの町を守りたい」
「そう。あなたらしいわね」
エリスは満足そうにうなずいた。
そして二人は、再び仲間探しへ向かうのだった。
その途中だった。
「おい! 金がないってどういうことだ!?」
「うーん。金……金か。必要なら、最初に説明しないそっちが悪いじゃないか」
大声が聞こえた。
そちらへ目を向けると、なんと昨日の魔族――サタンが、宿屋の主人と宿の前で言い合いをしていた。
「なんか、お金のことで揉めているみたいね」
リツカは苦笑いしながら、その様子を見つめる。
思った通り、あの魔族はお金を持っていなかった。
「リツカ、どうする?」
エリスは、リツカがこれ以上、魔族の男と関わることを懸念しているようだった。
「エリス。昨日助けてもらったし、今回だけ手を貸してあげない?」
「……確かにそうね」
エリスは昨日、命まで救われている。
それどころか、瓦礫に埋もれた町人まで救い、治療までしてくれたのだ。
昨日の一食をごちそうしただけでは、とても釣り合わないだろう。
リツカとエリスは、宿屋の主人へ歩み寄った。
焼きたてのパンの香りが、宿屋の前に漂っている。
しかし、目の前の二人の間に流れる空気は、妙に張り詰めていた。
「……だから、俺は持っていないと言っている」
サタンは声を抑えているつもりらしかった。
だが、低く響くその声は、床板にまで伝わるようだった。
人間の旅人の格好をしている。
しかし、その立ち姿には妙な隙のなさがあった。
「持ってない、では困る!! どうするんだ? おお?」
宿屋の主人は、強気の姿勢を崩さない。
ここで許せば、宿屋の沽券に関わるからだ。
だが、その額には汗が浮いていた。
この男が“普通ではない”ことを、言葉ではなく肌で感じ取っているのだ。
「仕方ない……」
無銭飲食男の視線が、わずかに鋭くなる。
怒りの感情とともに、濃密な魔力が体から漏れ出した。
一瞬、空気が重く沈む。
「ヒッ!?」
そのとき、足音が静かに響いた。
リツカと、魔法使いエリスが歩み寄ってくる。
二人は視線を交わし、何も言わずに状況を理解した。
リツカの足取りは軽い。
だが、その目はサタンから離れていない。
エリスはローブの奥で、そっと魔力の流れを整えた。
「朝から、賑やかですね」
エリスの声は柔らかい。
だが、その一言で場の空気がわずかに緩んだ。
「この方が……代金を……」
主人が言いかけたところで、エリスは小さく頷く。
「承知しています」
そして、サタンを見る。
視線が交わった瞬間、言葉を交わさずとも通じるものがあった。
――魔族。
昨日、戦いの中で自分たちを助けてくれた存在。
リツカが、わざと明るく言う。
「ねえ。昨日、助けてくれたでしょ。あれ、すごく助かった」
サタンの眉が、ほんのわずかに動く。
「……礼なら、もういい」
「ううん」
リツカは首を振った。
「だからこそ、ここでは揉めたくないの」
エリスが、静かに続ける。
「人間の町では、“金”という形でやり取りをします。何かをしてもらったり、何かを受け取ったりした見返りとしてです」
「ああ、インドラがそんなことを言っていたな……」
「インドラ?」
リツカは、その名をどこかで聞いたことがあった。
昔のおとぎ話に出てきた気がする。
エリスは胸の谷間から銀貨を数枚取り出し、そっと宿屋の主人の手に置いた。
「この分は、私が払います。あなたが昨日、命を賭してくれたことへの返礼として」
主人はほっと息をつき、深く頭を下げる。
「ありがとうございます。助かります」
宿屋を後にした三人は、人間社会について話すことにした。
「人間の社会では、食べ物を食べるにもお金が必要なの」
エリスが説明する。
「物々交換だと持ち運びが大変だったり、食べ物だと腐ってしまったりするからね」
「人間も、もともとは物々交換だったのか?」
「ええ。物と物を直接交換していた時代があるわ。肉には肉、刃には刃、魔石には魔石、というようにね」
エリスは指先で、空中に小さな円を描く。
「でも、それでは不便だった。欲しいもの同士が、常に一致するとは限らないから」
リツカが口を挟む。
「パンは欲しいけど、剣はいらない、みたいな?」
「そう」
エリスは微笑んだ。
「そこで、人々は“皆が価値を認めるもの”を決めた。それが、金や銀なの」
エリスはさらに続ける。
「この硬貨は、食べ物にも、寝床にも、情報にも変わる。“今は使わない価値”を、あとに持ち越すための器なのよ」
サタンは、先ほどエリスが置いた銀貨を思い出す。
「……だが、それは嘘の価値だ」
「嘘ではありません」
リツカが、真剣な顔で言う。
「みんなが信じているから、本当になるんです」
サタンは黙った。
「だから、人間の町で何かをしようとしたら、これが必要なの」
エリスはサタンの前で、銀貨と金貨を見せる。
「それは、どうすれば手に入る?」
「たいていの場合、誰かの願いを叶えるともらえることが多いわ」
「昨日、お前たちの願いを叶えたようにか?」
「そう。あなたは町民を救ってくれた。だから今日、あなたが払えなかった宿代を私が払ったのよ」
「なるほど。……多すぎるな」
「?」
「どういうこと?」
「俺が受け取りすぎということだ」
この男は何を言っているのだろう。
リツカには理解できなかった。
危険極まりない中位魔獣に大ダメージを与え、あれだけの町民を瓦礫から救い出し、さらに傷まで治したのだ。
その辺の宿の一泊分と釣り合うはずがない。
むしろ、安すぎる。
「そんな。あなたは……」
「俺にはあれくらい朝飯前だからな。あと二食分は返さねばならん」
サタンは当然のように言う。
「お前たち、他にも何か困りごとはないか?」
二人は困惑した。
「ええっと……それなら、最近のこの周囲の状況はどうなっているのかしら?」
「ん? それが願いか?」
「ええ。それ以上は返してもらわなくても結構よ」
「わかった」
サタンは少し考えるように空を見上げた。
「この周囲は草原だ。俺はここより南の森から来た」
「ええ? 禁断の大森林といわれている土地から?」
「人間からは、そう言われているのか」
サタンは少し意外そうにする。
「その大森林は、これからインドラが治めることになった。きっとこれから発展するぞ」
「インドラ?」
「人間には知られていなかったか。雷のドラゴンだよ」
「ドラゴンですって!?」
エリスの顔色が真っ青になり、驚愕の表情へ変わる。
リツカは、その名を思い出した。
そうだ。
お母さんに昔読んでもらった物語に出てきたドラゴン。
その名が、インドラだった。
「おとぎ話だけの想像の生き物だと思ってた……」
「インドラも、ついこの間、卵から生まれたんだ。三百年前の天魔大戦で死んでから、ずっと卵の状態だったらしい」
「この町は大丈夫なの?」
「まあ、変に森にちょっかいを出さなければ大丈夫じゃないか?」
サタンは軽い調子で言う。
「インドラも、これから国を作るみたいだしな。人間とも経済? とかいうものをやりたいとか、なんとか言っていたし……」
「そうなの……」
エリスは少し考え込む。
「ほかに脅威となる存在はいるかしら?」
「あとは、北のクシャナ山脈を越えた先にいるベルゼブブというやつかな」
サタンの表情が、少しだけ険しくなる。
「この前、部下を俺たちの森に送り込んできやがって、ちょっとした戦争になった」
「ベルゼブブ……最近、その名をよく聞くわ」
エリスが眉をひそめる。
「ほかの人間の町にも、ベルゼブブの使者が来たと聞いている」
「やはりか」
サタンは顎に手を当てた。
「この周囲の魔族の村にも、あいつを信奉している者がいた。人間にも魔の手が伸びていても不思議ではないな」
サタンは、自分たちの置かれている状況を考える。
インドラが少しでも生まれるのが遅かったら、この一帯はベルゼブブに支配されていたに違いない。
「その様子だと、お互い決着はつかなかったようね」
「ああ。それもインドラのおかげだな」
サタンはどこか誇らしげに言う。
「俺たちには魔界最強の一角、ドラゴンがいる。負けはない」
「でも、あなたたち、向こうにもドラゴンがいることは知らないようね」
エリスは、冒険者や城の兵の間で噂になっている情報をサタンに教える。
「は!? なんだって!?」
「クシャナ山脈は、氷のドラゴン――シャナトリアの支配地よ」
エリスは真剣な表情で続ける。
「その地が荒れていないということは、ベルゼブブとシャナトリアは手を組んでいると見るべきだわ」
「ってことは、ドラゴンの襲来も想定しなきゃいけないわけか」
「でも、しばらくは心配しなくてもいいんじゃないかしら?」
「なぜだ?」
「ある情報筋によると、ここ数日、ベルゼブブ陣営はアバドンという魔人と戦っているらしいの」
「アバドン……」
「ええ。アバドンが、ベルゼブブ不在の隙を攻めたんだって。そのせいで、北の地では毎日、激しい爆音が鳴り止まないらしいわ」
エリスは静かに言う。
「同時にこちらへ攻め込んでくることは、今のところないと思う」
「アバドン……あいつか」
サタンは、坑道で出会った魔人を思い出していた。
力の半分を封印された状態で、今の俺と同等か、それ以上の魔力量を持っていた。
とんでもない化け物だ。
賢者の石を集め、封印は解けたのだろうか。
もしかしたら、封印の地がベルゼブブの居住地にあったのかもしれない。
「この周囲の情報は、そんな感じね」
エリスが話を締めようとしたところで、サタンがふと思い出したように言った。
「あ、そういえば、この辺りで白虎を見たことはないか?」
「白虎は、北部で町ひとつと村を五つ壊滅させたと聞いているよ」
リツカは悔しそうな表情で語る。
「誰も対応できないから、白虎の嫌いな臭いを散布して、こちらに来ないことを願うしかできない状況なの」
伝説の勇者なら、白虎と対峙したというおとぎ話を聞いたことがある。
だが、今の自分に勝てるとは到底思えなかった。
「やはり、大暴れしているのだな」
「それ、私たちが教えた情報じゃない?」
エリスが冷静にツッコむ。
サタンは苦笑いし、ほかに情報がないか考えた。
「確かに」
そして、思い出したように言う。
「よし。では、今朝宿屋で聞いた話だが、昨日の夜、この町の城門がグレンデルに破られたらしいぞ」
「え?」
「城の騎士が三十人やられたらしい。しかもグレンデルは、今日も来ると王に宣言して去ったそうだ」
「えっ!?」
リツカの顔色が変わる。
エリスもすぐに表情を引き締めた。
「リツカ。城に急ぎましょう」




