69 激戦後の何気ない日常
「さて、俺は満足したし、またこの町でも散策してくる」
「あ、ちょっと待って」
出かけようとした男を、勇者が呼び止めた。
「あなたの名前を教えて」
「ああ、俺の名前はサタンだ。お前は?」
「私はリツカ」
「……ふーん。じゃあまたな、リツカ」
「うん……また」
サタンという男はそれだけ言うと、すたすたと町の中へ消えてしまった。
「魔族って、お金持ってるのかしら?」
「さあ?」
エリスの疑問に、リツカは首を傾げるしかなかった。
「エリス、私も少し疲れたし、一度家に帰るね」
リツカは、少しだけ言いづらそうに続ける。
「あと……サタンは強いし、悪い感じはしないけど……さすがに魔族と一緒に旅はできないから、他を当たりましょう」
「そうね……」
エリスも小さく頷いた。
「一般的な冒険者なら、案内役として魔族と手を組むこともあるかもしれないけど、勇者様が魔族と一緒にいるわけにもいかないわよね」
勇者とエリスは、翌日、仲間を探すために落ち合う約束をして、エリスの家を後にした。
身体が重い。
傷は治ったものの、神力切れの後遺症がひどく、歩くのもやっとだった。
普段の二倍ほどの時間をかけ、リツカは何とか自宅にたどり着く。
この扉の向こうに、母がいる。
心配をかけたくない。
リツカは自分を奮い立たせ、胸を張った。
家の扉が、きい、と小さく鳴る。
「……ただいま」
声は、思ったよりもかすれていた。
土と血と、焦げた布の匂いが、玄関に流れ込む。
台所にいた母は、鍋を火にかけたまま振り向いた。
一瞬、その表情が固まる。
「……」
やはり、バレた。
リツカは視線を逸らしたまま、靴を脱ぐ。
戦闘服は裂け、ところどころ黒ずみ、赤く滲んでいた。
頬にも腕にも、まだ洗われていない傷が少し残っている。
「……ごめん。何も言わないで」
母は何も言わず、鍋の火を止めた。
そして、ゆっくりと歩み寄る。
「……座りなさい」
その声は低く、静かだった。
リツカが腰を下ろすと、母は無言で濡れ布を持ってくる。
布が頬に触れた瞬間、リツカはわずかに肩を震わせた。
「痛む?」
「……ちょっとだけ」
「“ちょっと”ね」
責める響きではなかった。
ただ、事実を確かめる声だった。
母は丁寧に汚れを拭い、破れた服を見下ろす。
「今日は……一日で、ここまで?」
「うん」
リツカは小さく笑おうとして、やめた。
「魔物が強かった。町の中で……放っておけなかったから」
母の手が、一瞬止まる。
それからまた、静かに動き出した。
「そう」
それ以上は聞かない。
それが、この家のやり方だった。
「夕飯は、消化のいいものにしてあるわ。食べられる?」
「……食べたい」
湯気の立つ椀を前に、リツカはようやく息をついた。
一口、口に運ぶ。
「……おいしい」
「当たり前でしょう。あなたの大好きな、かぼちゃの煮つけと茶碗蒸しなんだから」
夜は、静かに過ぎていった。
湯に浸かり、包帯を替え、布団に横になる。
灯りを落とす前、母は布団のそばに腰を下ろした。
「怖かった?」
少し間があって、リツカは答える。
「……うん」
「それでも、行ったのね」
「……行かなきゃ、って思った」
母は知っていた。
町に中位魔獣が現れ、町の一部が滅茶苦茶になったこと。
そこにこの子が現れ、激闘の末に町民を救ったこと。
中位魔獣がそのまま暴れ続けていたら、この町が壊滅していたかもしれないことも。
母はリツカの髪を、子どもの頃と同じように撫でた。
「あなたが勇者であることは、誇りよ」
その声は、まっすぐだった。
「でもね」
一拍、置いて。
「帰ってきてくれることの方が、母さんには大事」
リツカの喉が、きゅっと鳴った。
「……明日も、行く」
「ええ」
「また、ボロボロになるかも」
「ええ」
母は静かに微笑んだ。
「それでも、朝ごはんは作るし、扉は開けて待っているわ」
リツカは、布団の中で目を閉じる。
「……いってきます、は明日の朝言う」
「そうしなさい」
翌朝。
服は綺麗に繕われていた。
食卓には、いつもの朝食が並んでいる。
リツカは扉の前に立ち、振り返った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
それだけの言葉が、今日も少女を立たせる。




