68 魔族の神力と赤い果実
「はあ……終わったぁ……」
勇者は、ネクロドリュアが完全に朽ち果てる様子を見届けると、その場にへたり込んだ。
最後の一撃に、光の精霊の力と、自身の持つ神力のすべてを注ぎ込んだ。
その反動で、もう立っていることすらできなかった。
体は鉛のように重い。
気分もひどく悪い。
神力切れが、これほどきついものだとは思わなかった。
勇者はその場で嘔吐した。
目の前が、涙でにじむ。
「勇者!! 大丈夫!?」
空から男とエリスが舞い降りる。
エリスはすぐさま勇者に駆け寄り、優しく背中を擦った。
「無理しすぎよ……」
エリスは、勇者の体を見て眉をひそめる。
先ほどの戦闘で、体のいたるところに擦り傷や切り傷ができていた。
勇者も、涙でにじんだ瞳でエリスを見る。
エリスの頭からは血が流れていた。
ただ、傷自体はそれほど深くないようだ。
二人は抱き合い、お互いの無事を喜んだ。
本来なら、敵う相手ではなかった。
間違いなく、自分たちが戦うには早すぎたランクの魔物だった。
「……生きているな。……十分だ」
そうだった。
この男のことがあった。
勇者は、ふと現実に引き戻される。
いつの間にか、男の背中にあった漆黒の翼は消えていた。
見た目だけなら、今は人間と変わらない。
だが、先ほどの大魔法で確信した。
なぜか神力を持つこの男は、魔族だ。
それも、とびきり強い。
上位級魔族。
いや、それ以上の存在であることは間違いない。
人間の敵となり得る魔族を、この町に置いていいのだろうか。
とはいえ、実力行使で追い出すことなど不可能だ。
今のところ、悪さをしているわけでもない。
むしろ、エリスを助けた。
けれど――。
勇者の胸には、拭いきれない警戒心が残っていた。
「生きてるけど……勇者は治療が必要だわ。それに、瓦礫の下に埋もれている人だって、これから助けないと」
エリスは、魔物を倒した後にやるべきことを考えていた。
魔物を倒して終わりではない。
災害でもそうだが、本当に大変なのは、その後の復興作業である。
「城の兵どもは、何をしているんだ? 人間の危機を守るのが、兵の役割だろう?」
男が、町を見渡しながら呟いた。
「たぶん、兵は王を守るために城の守りを固めているんだわ……」
エリスは苦々しげに言う。
「多少、町が壊されようと、城……王の守護が最優先だから」
「人間も魔族と変わらんな……」
男は小さく息を吐いた。
そして、わずかに口調を変える。
「よかろう。我が少し力を貸してやろう」
瓦礫の山の前に立った男は、深く息を吸い込み、両手を静かにかざした。
地面に刻まれた魔法陣が、淡く光を放つ。
風の流れが、一瞬止まった。
「セイフティ・レイズ――聖護の光」
詠唱とともに、金色の粒子が瓦礫の隙間へ流れ込む。
それは、まるで蛍のように周囲を飛び回った。
次の瞬間。
光の粒がある一点で反応し、ぱん、と小さな音を立てて弾ける。
そこに、半透明の球状のバリアがふっと浮かび上がった。
中には、うずくまるように倒れた人影がある。
生体反応を検知したバリアは、外界からの衝撃をすべて遮断するかのように、静かに脈打っていた。
男は虹色の瞳を細める。
そして、両手を上へ向けて押し上げるように動かした。
すると、瓦礫全体が低い唸りを上げながら浮かび上がる。
石壁の破片。
折れた梁。
粉々になった瓦。
それらが、人を包むバリアだけを避けるように、ゆっくりと持ち上がっていく。
重い石も、鋭い鉄片も。
まるで巨大な手で丁寧につまみ上げられるかのように、生存者に触れることなく空中へ押し上げられた。
男が指先をひらく。
瓦礫の群れは、ふわりと遠くへ移動し、柔らかい音を立てて地面に降り積もった。
最後に、バリアが静かにほどける。
中の人物には、傷ひとつない。
光が消えると同時に、その人物は弱々しく息をついた。
救われた命だけが、瓦礫の海の中にぽつりと残っていた。
「勇者様!!」
「ありがとうございます!」
「あなたは命の恩人です! 一生、いや、末代まで語り継ぎます!」
我に返った町人たちは、口々に勇者を褒めたたえた。
「い、いえ、私は何も……」
勇者は男の方を見る。
しかし当の本人は、知らん顔を決め込んでいた。
まるで、町民と関わりを持ちたくないかのようだった。
この時の勇者は、人命を救えた嬉しさと、自分一人では何もできなかったという複雑な思いが入り混じり、きっと妙な顔になっていたことだろう。
「勇者、いいじゃない。例の人は手柄なんて興味なさそうな顔をしているし」
エリスが小声で言う。
「ここで必死に事細かく説明したところで、きっと町の人たちには通じないわ。それに、あの人のことも説明しなきゃいけなくなる。あの人も、それは望んでいないでしょう?」
勇者は、エリスの言葉にハッとする。
神力を持つあの男は、間違いなく魔族だ。
人間の町で注目を集めることなど、不本意に違いない。
「……皆さん。一応、教会で診てもらってください。町の復興については、私から王に掛け合ってみます」
勇者は町民にそれだけ告げた。
町民たちはそれぞれ礼を言い、その場を立ち去っていく。
その中で、勇者はぽつんと立ち尽くしていた。
「私とエリスだけじゃ、無理だったな……」
勇者は、目の前の信じられない光景をぼんやりと見ていた。
救われた民は、勇者のおかげだと思っていることだろう。
神力を駆使した魔法。
本来なら、勇者が使うべき力。
けれど、これは私の力じゃない。
「お主らは、我が自宅まで届けてやろう。感謝せよ」
町民との距離が空いたところで、光の玉が勇者とエリスの体を包んだ。
今度は勇者とエリスの体が宙に浮き、ふわふわと自宅の方向へ運ばれていく。
「うそでしょ……」
エリスが呆然と呟く。
「もう、現実離れしすぎて言葉が見つからないわ……」
それでも、エリスは表情を引き締める。
「でも、これだけは言える。あの方の機嫌を損ねたら、この町は終わるわね」
エリスは複雑な表情を浮かべた。
自分の気まぐれで声をかけた男が、町を救った。
同時に、簡単に町を滅ぼせる力を持つ魔族でもあった。
正体不明の不気味さ。
命を救われた感謝。
その二つが、複雑に絡み合う。
必死に策を練ろうとしても、今は要求されたものを提供するしかない。
エリスの中で、出せる結論はそれだけだった。
一行は、出会った宿屋の近くまで戻ってきた。
運ばれている間に気づいたのだが、この光のバリアには軽い治癒効果があるらしい。
かすり傷は消え、頭部からの出血も止まり、傷も治りかけていた。
おそらく、救出された町人たちも同じ効果を感じていることだろう。
「さて、そなたの家はどこだ?」
待ちきれないといった様子で、男はエリスに尋ねた。
「そこの角を左に曲がって、三百メートルほど先の赤い屋根の家よ」
エリスがそう答えた瞬間。
男の歩く速度と、バリアの移動速度が一気に上がった。
ものの数秒で、目的地にたどり着く。
「びっくりした……」
「降ろすぞ」
バリアが溶け、勇者とエリスは地面に降ろされた。
やはり、体の痛みがかなり治まっている。
「すごい回復魔法ね。防御魔法と回復魔法、それに移動魔法が組み合わさった複雑な構造だわ」
エリスは、新たな魔法を体験できたことに興奮しているようだった。
「さて、身体の方もよくなったことであろう」
男は、当然のように言う。
「願いは聞いてやったぞ。今度は我のために食事を用意するのだ」
エリスは姿勢を正し、男に礼をした。
「ええ。先ほどは失礼しました」
そして、深く頭を下げる。
「私を助けていただいたこと、町人を助け、瓦礫まで撤去していただいたこと。そして治療まで。何から何まで感謝いたします」
胸元の開いた衣装のまま前のめりになったため、エリスの豊かな胸元がこぼれ落ちそうになっていた。
この町の男なら、たいていはこれでエリスの虜になる。
だが、目の前の男は目もくれない。
室内の酒と食材を、興味深そうに観察しているだけだった。
「よいよい。それより早く」
エリスは少し面食らった。
しかし気を取り直し、急いで準備を始める。
エリスが準備をしている間、勇者は謎の男に話しかけた。
「あの、先ほどはありがとうございました」
「うむ。見たところ、勇者か」
男は勇者を一瞥する。
「さっきの魔物を倒したおかげで、レベルも上がったようだな。しかし、神力を扱って日が浅いと見える。おぬしの宿した精霊は力があるようだし、しっかり励め」
確かに、先ほどの魔物を倒したことで、勇者のレベルは上がっていた。
能力もわずかに上がっている。
さらに、光の精霊の力量まで見透かされている。
神力を探ることは、聖職者や賢者が得意とするところだ。
だが、魔族がなぜそんな力を持っているのか。
今日一日で起こった常識外れの出来事と、目の前の存在に、勇者は混乱し始めていた。
「あなたは……何者なのですか?」
「我か?」
男は少し考えるように首を傾げた。
「……説明が難しいな。どこから話せばいいのやら」
「では、確認させてください。あなたは勇者なのですか?」
「我が勇者? ハハハ。冗談はよせ」
「では、魔族?」
「それは半分正解だな」
「人類の敵、ですか?」
「それはどうかな。人類次第だな」
男は、どこか他人事のように言う。
「ただ、今は……立ち寄っただけだ」
「どうして?」
「うむ。我はこの町に来て驚いた。特に酒に」
宿で飲んでいたのは、確か漆黒ビールだった。
勇者はそれを思い出す。
「ここは穀倉地帯だから、ビールとパンがおいしいの」
勇者は、この町の名産について説明した。
「なるほど。素材がよいと、それらを使った料理もうまいのだな」
そのとき、エリスが料理を運んできた。
「お待たせいたしました」
卓に並べられたのは、ピジョンブラッドワイン。
魔馴鹿のチーズ。
紅霜豚の生ハム。
そして、極楽ガチョウのフォアグラとパテだった。
「食事の時間だな。……少し待て」
男はそう言うと、一度目を閉じた。
そして、再び目を開く。
「?」
勇者は不思議そうに男を眺めた。
「おお、旨そう!! これはなんだ?」
再び、男の口調がわずかに変化した。
男は、スライスした宝石のように透明感のある赤い肉を指し示す。
「紅霜豚の生ハムですわ」
紅霜豚。
体表に霜のような結晶毛を生やす、“冷気の豚”である。
体温が低く、死後も腐敗が遅いため、熟成に向いている。
赤身は深紅。
脂は白く、甘い。
魔界の高級酒との相性は、まさに最強だった。
「あと、こちらは極楽ガチョウのフォアグラを使ったパテです」
エリスは、男に酒を注ぎながら説明する。
「フォアグラに豚肉やレバー、香辛料などを混ぜて、なめらかで濃厚な風味のペースト状にしたものです。焼いたバゲットに塗ってあります」
エリスは男に酒を注ぎ、つまみを差し出した。
男が満足できなければ、この町を破壊されかねない。
そんな緊張感すら感じながら、エリスは男の様子をうかがう。
男は生ハムを食べ、目を閉じた。
そして、ワインを口に含む。
今度はフォアグラのパテを食べる。
再び、ワインを口に含んだ。
何もしゃべらない。
口に運ぶ時以外、ずっと目を閉じている。
(どっちなの!? 彼は満足しているの!?)
エリスは内心で叫んだ。
(なんでこの人、全然しゃべらないんだろう。食事は楽しんで食べるものなのに……)
勇者もまた、戸惑っていた。
二人は、謎の男の様子を黙って見つめる。
緊張感の漂う部屋で、ようやく男は目を開けた。
そして、二人へ顔を向ける。
二人は同時に息をのんだ。
((泣いてる!!?))
顔を上げた男の目には、涙が浮かんでいた。
(こわいこわい。なんで泣いているの?)
勇者は怯える。
(これって、何の涙?)
エリスは当惑していた。
「エリス、感謝する」
男は静かに口を開いた。
「マリアージュか。この食事で、食べ合わせの大切さを教わった」
その声には、妙な真剣さがあった。
「まさか、こんな食べ合わせで、互いのポテンシャルを最大まで引き出せるとは知らなかった」
男は、感極まったように続ける。
「おかげで神力……ゲフン、ゲフン」
一瞬、咳払いをする。
「……おかげで、感動的な体験ができた」
ごまかしたようだった。
だが、神力という言葉を、勇者は聞き逃さなかった。
勇者は視野を切り替え、男を透視する。
魔素に染まっていた目の前の光景は、視界を切り替えた瞬間、金色の輝きへと一変した。
神力だ。
淡い光ではない。
溢れ出す奔流のような神力が、男の体内から脈動するように広がっている。
部屋中に、あふれんばかりの神力が満ちていた。
まるで、この民家そのものが神殿へと変わってしまったかのようだった。
「なに……これ……」
思わず漏れた声は、かすかに震えていた。
「どうしたの? リツカ」
エリスが首を傾げる。
だが、彼女には何も見えていない。
ただの食事の席にしか映っていないのだ。
「……なんでもない」
勇者は視線を戻し、静かに首を振った。
今ここで言うべきではない。
「?」
エリスは不思議そうに眉を寄せた。
勇者はそれ以上話すのをやめ、生ハムを一枚つまんで口に入れる。
塩気と脂の旨味が舌に広がった。
「うまっ!!」
思わず声が出た。
先ほどまで神力の奔流を見ていたとは思えないほど、場の空気はあまりにも平和だった。
「あ、そうそう。この赤い果実、皮を剥いて出してくれ」
男は気軽な様子で、卓の上の赤い果実を一つ手に取り、エリスへ差し出した。
つい先ほどまで、過去の勇者に等しいほどの神力をまとっていたとは思えないほど、気の抜けた声だった。
「おいしそうな果実ですね。わかりました」
エリスはにこりと微笑み、果実を受け取る。
ナイフの刃が皮に当たると、薄く赤い果汁がにじみ出た。




