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66 怨嗟を宿す魔樹

「ハア、ハア……いったいどこなのよ?」


エリスは息を切らしながら、魔物の姿を探していた。


「人が反対側から逃げてきている。方向は合っているはず」


勇者は周囲の状況を見ながら、冷静に分析する。


そのときだった。


「ズウゥゥン!」


進行方向から、重い破壊音が響いた。


土煙が上がり、住宅の木片が宙に飛び散る。


「あそこね!」


「ハァ、ハァ……あの、ハァ、ハァ……男の人は?」


息も絶え絶えのエリスが、やっとの思いで声を絞り出す。


ただ、なぜかその吐息が妙に色っぽい。


魔法使いは、やはり運動が苦手なのだ。


これから冒険者として大丈夫なのだろうかと、一抹の不安がよぎる。


勇者は後ろを振り返った。


しかし、そこに男の姿はない。


自分たちの速度について来られなかったのだろうか。


そう思いかけたが、今は待っていられない。


「あれは……木?」


勇者が呟く。


「魔鋼木の一種、ネクロドリュア!! ここよりも遥か南の森に生息する魔植物なのに!」


ネクロドリュア。


中位級の魔物。


小さな国であれば、この一匹だけでも壊滅させられるほどの脅威である。


歴戦の勇者や、英雄級の冒険者でなければ対応できない相手。


地面が裂け、根が這い出る。


黒ずんだ幹がうねり、まるで巨大な蛇のように町へ滑り出していた。


それは、木でありながら歩いていた。


何百もの根を足のように地面へ突き刺し、建物の壁を砕き、屋根を押し潰しながら進んでいく。


幹の表面には、無数の顔が浮かび上がっていた。


その顔たちは、苦しげに呻いている。


この地に埋もれた者たちの魂なのか。


あるいは、木そのものに刻まれた記憶なのか。


赤黒い樹液が、血のように滴り落ちる。


焼けた鉄のような匂いが、辺りを満たしていた。


そして、その木の枝には、赤い果実が一つ実っている。


逃げ惑う人々を、木の枝が鞭のように薙ぎ払った。


枝先から放たれた棘が皮膚を裂き、そこから黒い蔓が侵入していく。


一度触れられた者は、たちまち木の一部と化した。


体から芽を吹き、やがて動かなくなる。


その人型の木は、根に絡め取られ、吸収されていった。


十五メートルはある巨体が一歩進むたび、周囲の建物が破壊されていく。


崩れた教会から、鐘の音が鳴り響いた。


だがそれは、祈りでも警告でもない。


ただ、滅びの合図のように聞こえた。


町は、飲み込まれつつあった。


勇者は槍を構え、静かに息を吐く。


その吐息さえも、焦げるような熱を帯びていた。


魔力に侵された空気が、肌を焼くほどに濃密だった。


隣に立つ魔法使い――エリスが、杖を握りしめる。


その表情は静かだった。


しかし、目の奥では炎が揺らめいている。


「この木……ただの魔物じゃないわ。怨嗟が絡みついている。倒すだけじゃ足りない。根を断ち切らなきゃ」


巨大な木が唸った。


幹がねじれ、まるで声を発しているかのように、軋んだ音を立てる。


「ヒト……ヲ……クウ……」


その低い声は、風の音ではない。


確かに、言葉だった。


勇者は地面を蹴った。


槍の穂先に光が宿り、真紅の枝を貫く。


しかし、巨体に与えたダメージは軽微だった。


「くッ……思った以上に硬い」


「魔鋼木は、どの種類も硬いの。相当な威力がないと、まともなダメージは通らないわ」


木は呻きながらも、動きを止めない。


切り裂かれた幹から黒い霧が立ち昇り、触れた地面を腐らせていく。


「なら、私が呪文で燃やし尽くしてあげるわ」


エリスが静かに詠唱を始めた。


杖の先端で、紅蓮の陣がぱっと花開く。


闇を押し返すように、紅い光が揺らめいた。


「燃えよ、原初の炎。


大地の底に眠る熱よ、我が声に応えよ。


灰は還り、命は巡る――


紅蓮、ここに顕現せよ。


“紅蓮火”」


複数の炎の魔法陣が、ネクロドリュアの周囲に組み上がる。


次の瞬間、火柱が一斉に立ち上った。


「ギャオオオッ!」


木の表皮に貼りついた無数の顔が、一斉に悲鳴を上げる。


その断末魔は、まるで地獄の底から湧き上がるように、町中を震わせた。


だが次の刹那。


ネクロドリュアの根が地面へ深々と突き刺さり、地上の魔法陣を強引に破砕した。


火柱は霧のように掻き消える。


黒煙の向こうから、巨体が再び姿を現した。


表面の樹皮がわずかに焦げただけで、大した損傷には至っていない。


「……効果はいまいち、か」


「あれ? でも、表面の顔が少し減ったような……。危ない! 下っ!」


警告と同時に、魔法陣を破壊した根が地中から迸るように飛び出した。


根は勇者とエリスへ襲いかかる。


勇者は驚異的な反射で身を翻した。


しかし、エリスは正面から根に跳ね上げられる。


「きゃあっ!」


エリスの体が宙へ放り上げられた。


落下すれば、無事では済まない高さだ。


しかもエリスは意識を失ったのか、力なく回転しながら、まっすぐ地面へ落ちていく。


「エリス!!」


勇者は駆け寄ろうとした。


だが、地面から伸びる根が壁のように立ちはだかり、到底間に合わない。


エリスの体が、地面へ急速に近づいていく。


――その瞬間。


彼女の姿が、ふっと掻き消えた。


「あれは……」


「大丈夫か?」


低い声が、頭上から降ってきた。


「ん……あれ? 私、気を失って……それより、浮いてる?」


見上げると、そこには先ほど酒場にいた謎の男がいた。


男は宙に立つようにしてエリスを抱きとめ、ふわりと空中に浮かんでいた。


背には、六枚の漆黒の翼が広がっている。


だが、羽ばたいている様子はない。


まるで存在そのものが空を支配しているかのように、自然にそこへ留まっていた。


「おい。気をつけないとダメじゃないか」


その言葉に、エリスの胸がどきりと跳ねる。


「……お前が死んだら、最高級のワインが飲めなくなる」


「え?」


男はエリスを抱えたまま、地上の勇者へ視線を向けた。


「おい! そこの勇者の卵!」


「は、はいッ!?」


「お前がそいつを倒せよ」


「が、頑張ります!」


ネクロドリュアは、謎の男の存在を認識するやいなや、最大の警戒を示した。


ギィイイイ、と幹を軋ませる。


何かを仕掛けてくる。


――怨嗟の樹瘤弾。


幹に貼りついた無数の顔が、膨れ上がったり、しぼんだりを繰り返す。


やがてそれらは“腫瘤”となり、弾け飛んだ。


飛翔した樹瘤は空中で破裂し、黒い胞子の霧となって広がる。


その霧に触れた瞬間、皮膚を焼くような腐食が走る。


肺へ吸い込めば、内側から朽ちていく。


相手がどれほど速く宙を舞おうと、この霧なら仕留められる。


ネクロドリュアは、そう判断した。


樹齢数百年のこの老獪な魔界の生き物は、状況に応じた最適な行動を取り続けることで、厳しい魔界を生き延びてきた。


そう。


だから、今回の相手もこの技で死ぬはずだった。


ネクロドリュアの幹に浮かぶ顔の数は、その生命力を表す。


この技は、己の生命力と引き換えに、相手へ確実な死をもたらす奥の手だった。


しかし。


何かがおかしい。


死を目前にしているはずなのに、なぜ相手はあんなにも落ち着いているのか。


諦めか。


いや、違う。


あの男の目は、死を受け入れた者のように濁ってはいない。


虹色に輝く瞳が、まっすぐにこちらを見据えている。


黒い霧が、男と炎の魔法使いを包み込んだ。


勝った。


あの状況で逃げられるはずがない。


ネクロドリュアは、そう確信した。


しかし次の瞬間、信じられない光景を目にする。


「テンペスタス・アネモルム――風神たちの嵐」


男が口を開いた瞬間、空気が裂けるような轟音が響いた。


その場に、巨大な竜巻が“出現”する。


生まれたというより、別の界層から無理やり引きずり込まれたかのような、異質で暴虐そのものの風の柱だった。


黒い地面が抉れ、石畳が砕ける。


周囲の空気は一息で持ち上げられ、ねじ切られ、引き裂かれていく。


大気そのものが、怒り狂った獣のように咆哮した。


耳を塞いでも貫通するほどの轟音が、町を震わせる。


腐食性の黒い霧は、近づく前に竜巻へ吸い込まれた。


霧も、枝も、根の一部も、抵抗する暇すらない。


跡形もないほど粉砕され、風の渦に噛み砕かれて消えていく。


闇より深い虚無が、渦を巻いていた。


近づくものすべてがそのまま飲み込まれる。


そう確信できるほどの、圧倒的な“死”の気配を放っていた。


ネクロドリュアの数倍はある竜巻が、根や枝を文字通り根こそぎ引き裂き、消滅させていく。


枝に実っていた赤い果実が、宙へ舞い上がった。


やられる。


ネクロドリュアの本能が、そう悟った瞬間。


なぜか、竜巻が跡形もなく消えた。


空中に浮かぶ男が、静かに口を開く。


「手伝うのはここまでだ。あとは人間のことは何とかしろよ、勇者さま」


男の手には、赤い果実が握られていた。

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