65 戦いの報酬は、最高の食事
日もすっかり暮れ、ランプの灯が漏れる宿屋の扉が押し開けられた。
魔法使いエリスと女勇者。
二人が足を踏み入れた瞬間、宿屋のざわめきがぴたりと止まる。
そして次の瞬間には、酒場じみた喧噪が一段と大きくなった。
赤い唇に、妖しい笑みを浮かべるエリス。
黒衣の裾がふわりと揺れるたび、男たちの視線がその曲線を追った。
「おい!! あのエリス様がご来店されたぞ! マスター! 俺からあの人に酒を!」
「なんて色っぽい姉ちゃんだ……」
「隣の子も可愛いな。おじさんのお嫁さんに来ないか?」
艶めかしい魔法使いと、絶世の美少女。
そんな二人が連れ立って入ってくれば、宿屋の客どもが浮き足立つのも無理はない。
勇者は絹のような髪を肩に流し、そっと辺りを見回した。
大勢の視線が一斉に自分へ向いていることに気づき、思わず背筋が伸びる。
母に教わった通り、落ち着いて振る舞わなければ。
そう自分に言い聞かせ、慌てないように、ゆっくりと息を吸う。
それから、周囲を一瞥した。
端から見れば、静かで涼やかな瞳が場を見渡したように映っただろう。
神殿に飾られる聖像のような佇まいに、居並ぶ者たちは思わず息を呑む。
だが、本人は――。
(ど、どうしよう……みんな、こっち見てる……)
手の震えを悟られないよう、そっとマントの裾を握りしめているだけだった。
表情を動かさないのも、相手を威圧しているわけではない。
緊張で、うまく笑えないだけである。
張り詰めた空気が広がる。
しかしそれは、勇者の剣気によるものではない。
ただ一人の少女が、必死に平静を装っているだけの沈黙だった。
「おいおい、俺たちにも構ってくれよ」
チャラついた冒険者風の若者が声をかけようと近づく。
それに続き、チンピラまがいの連中も、にやつきながら次々と二人を囲い込もうとした。
だが、二人の目には一切映っていなかった。
エリスと勇者は、華麗に人ごみをすり抜け、宿の奥へと進んでいく。
「つ、つかまえられねぇ……」
二人の身のこなしに、チンピラたちはあっけに取られた。
彼女たちが探しているのは、こんな軽薄な男たちではない。
最近この町に現れたという、謎の冒険者。
噂によれば、一人で魔物の群れを退けたという。
その真偽を確かめたい。
そして、もし本物の実力者なら、仲間に引き入れたい。
エリスはかすかに漂う魔力をたどり、宿の奥を見やった。
そして、唇を吊り上げる。
「さて……どんな男かしらね。楽しみだわ。……あの人かしら?」
部屋の奥に、静かに酒を楽しんでいる男がいた。
黒い髪。
整った顔立ち。
そして、宝石のように美しい瞳。
それだけではない。
「あの人……神力を持っている」
勇者は一目見て、その男の異常さを理解した。
「えッ?」
エリスが、心底驚いたように目を見開く。
神力を持つということは、人間の常識でいえば、高名な聖職者――あるいは賢者。
もしくは、勇者ということになる。
しかし、以前の勇者が現れたのは四十年以上前。
賢者に至っては、百年前の存在のはずだ。
目の前の男は、どう見てもそんな高齢には見えない。
では、他国の勇者だろうか。
いや、他国の勇者は魔物との戦いで皆戦死したと聞いている。
では、この男は――何者なのだ。
勇者が眉をひそめる。
エリスは、もう一度勇者に確認した。
「一体、どういうことなの? 本当に神力を持っているの?」
その疑念は、隣に座るエリスの心をもかき乱していた。
しかし勇者は、混乱する彼女の様子を横目に、ただ黙って男を見据える。
光の精霊が宿ってからというもの、勇者の瞳には新たな力が宿っていた。
その加護によって授かった分析の力。
対象の神力や魔力の流れ、さらには意識の奥底すら読み取る、“視”の力である。
勇者は深く息を吸い、目の前の男の内側を静かにのぞき込んだ。
――見えた。
神力に覆われた体表。
その内側。
さらに、その奥。
まるで闇が渦を巻くかのような領域があった。
そこに満ちる気配は、神聖と呼ぶにはあまりに禍々しい。
金属のような冷たさと、灼けるような熱。
相反するはずの感覚が、同時に肌を刺す。
正確にその力を量ろうとした刹那、全身を悪寒が駆け抜けた。
勇者の指先が、わずかに震える。
鳥肌が立ち、喉がひゅっと鳴った。
「この人……神力だけじゃない!!? それ以上に……禍々しい魔――」
言いかけた、その瞬間。
「大変だぁー!!」
宿屋の扉が激しく開かれた。
住民が息を切らしながら、転がるように駆け込んでくる。
「魔物が! この町に魔物が現れた!! 誰か助けてくれ!!」
喧騒が宿の中を揺らした。
冒険者たちが椅子を蹴って立ち上がる。
酒瓶が床を転がり、鈍い音を立てた。
宿の酒場が、一瞬にして緊張に包まれる。
「おい、あの堅牢な城壁が破られたってのか?」
「だとしたら、侵入してきたのは中位級だぞ!? やべぇ!」
「俺たちじゃ太刀打ちできねぇよ!」
一瞬の静寂。
そして、全員の視線がひとりに集まった。
勇者へと。
「勇者様!! どうかこの町を、この国をお救いください!!」
「お願いします!!」
懇願とも期待ともつかぬ声が重なる。
勇者は息を詰めた。
まだ城外に出たこともない。
実戦経験も乏しい自分。
中位級の魔物など、到底敵うはずがない。
けれど――。
これが、“勇者”の宿命。
逃げるわけにはいかない。
胸の奥で、恐れと共に小さな意志が灯る。
「エリス!」
「ええ。あなたなら行くわよね。私も行くわ」
エリスは微笑んだ。
その表情にあるのは、恐怖ではなく確信だった。
そしてエリスは、いまだ椅子にもたれ、悠々と酒を飲み続けている男へ視線を向ける。
「よかったら――お兄さんもご一緒にいかがかしら?」
まるで茶会にでも誘うかのような、軽やかな声だった。
勇者は息をのむ。
(エリス……この人が何者か、まだわかっていないの?)
この男からは、神力と同等の魔力が感じられる。
いや、それ以上かもしれない。
今、町を襲っている魔物でさえ、彼の手引きで入り込んだのではないか。
そんな疑念が、勇者の脳裏をよぎる。
男は、ゆっくりとジョッキを傾けた。
喉を鳴らしながら酒を飲み、虹色の瞳だけをちらりと二人へ向ける。
そして、低く呟いた。
「……うまい酒か、最高の食事を出すのなら……考えてやる」
「我が家にピジョンブラッドワインがあるわ。それに合う魔馴鹿チーズもね」
「よし、乗った」
即答だった。
エリスは思わず口の端を上げる。
この男――やはり只者ではない。
そんなことで命を懸けるなんて、普通ではない。
そして、たぶん。
“食の狂人”でもある。




