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62 勇者の旅立ち


「朝よ。起きなさい」


母親が木窓を開ける。


魔界の朝は薄暗い。


「ん~、もうちょっとだけ……」


「あんた、今日は王様に呼ばれていたでしょう。早く支度して、粗相のないようにしなきゃダメよ」


「ふあ~い」


ベッドからむくりと起き上がり、ぼんやりとしたまなざしで部屋の様子を眺めた。


壁には、上質な服が吊り下げられている。


十六歳の誕生日を迎える今日、私はこれを着て城へ向かわなければならない。


母がこつこつお金を貯めて買った布生地。


その生地を縫い合わせて作られた、丹精込めた一着だ。


今日、ついにこの服を着られる。


そう考えるだけで、心が浮き立った。


「やっとお目覚めのようね。朝食はできているから、ご飯を食べて、着替えてからお城へ向かうのよ。あ、寝ぐせも直さなきゃね」


「わかっているって。私はもう子供じゃないんだから」


「ついにこの日がやってきたわね。複雑な思いだけど、母さんはいつでもあなたの味方よ」


「……ありがとう」


母は女手一つで、私をここまで育ててくれた。


朝早くから夜遅くまで働いている。


寝るのが大好きな私とは大違いだ。


でも、母の苦労もここまでだ。


今日は王に謁見し、勇者として生きていく日なのだから。


この国に住む者には、非常に稀に光の精霊が受肉することがある。


魔界において、光の精霊はそもそも数少ない存在だ。


だから、めったにお目にかかれるものではない。


光の精霊が受肉した者は、十六歳を迎えると勇者と呼ばれ、魔界に住まう人間たちの英雄として崇められる。


そう。


その勇者というのが、私である。


受肉した時のことは、生涯忘れることができないだろう。


とはいえ、今日、王様に謁見し、問題がなければ勇者として承認される。


正確に言えば、まだ正式に勇者として公認されたわけではない。


「さて、あんまりしんみりしている暇もないわね。ささっ。早く支度してしまいなさい」


私は朝食をかき込み、用意していた服に着替える。


母が縫ってくれた服は、私の体にぴったりだった。


最近、少し膨らんできた胸の部分も、ちゃんと調整してある。


寝ぐせも直し、母が身なりの最終チェックを行う。


「よし! これで、どこへ出しても恥ずかしくない娘だわ。今日は王様としっかりお話してくるんですよ」


「母さん……いつもありがとう。これからは、私も頑張るから……」


少し照れ臭かったけれど、私は勇気を出して言った。


母はその言葉を聞いて、少しぽかんとしていた。


けれど、見る見るうちに瞳に涙をためていく。


「ちょっと、母さん。泣かないでよ」


「ごめんなさいね。ちょっと、うるっときちゃった」


「あ~、私はもう城に行ってくるから」


私は、気恥ずかしさと、気丈な母の涙を見て動揺したことをごまかすように家を出た。


「気をつけて行ってらっしゃい」


玄関から母が見送っているのを背中で感じながら、私は城へ向かった。


魔界にある人間の城下町。


ここにいる人間は、魔界に迷い込んだ者や、魔界生まれの二世、三世、四世の人間たちだ。


見た目で言えば、最下級の魔人とほとんど変わらない。


しかし、魔物や魔人はどういうわけか、相手が魔人か人間かを一瞬で見分けることができるという。


人間には、弱小魔人と人間の違いなど見分けられないというのに。


そのせいで、魔界に住む人間はとても襲われやすい。


この城下町は、魔人や魔物から逃げ延びた者たちが築いた、要塞のような場所だった。


周囲を高く囲んだ分厚い石壁。


街のどこにいても、その高くそびえ立つ壁が見える。


石壁の上に設置された無数のバリスタ。


空と地中からの侵入を防ぐ結界。


鉄壁に思える守りだが、中位以上の魔人や魔獣に対しては、何の役割も果たさないだろう。


それほどまでに、想像を超えた化け物がこの魔界には住んでいる。


勇者は、その魔物たちから人間を守るための制度である。


とはいえ、勇者の卵である私に、それほどの力はまだないのだが……。


勇者に認められた者は、城から出る許可を得られる。


そして、城周辺の魔物から城下町を守ることが主な役目となる。


商人、巡礼者、勇者以外の一般人には、城を出入りする権利すら与えられない。


いや、正確に言えば、出ること自体は簡単だ。


だが、入国時の審査がとても厳しい。


なぜなら、人間から見れば、下級魔人との区別が難しいからだ。


魔人をやすやすと城内に入れるわけにはいかない。


国の承認を受けた魔術師が魔力感知を用いて、人間であると確認しなければならない。


もし承認されなければ、砦の外で矢の嵐に遭うことになる。


しかし勇者になれば、手の甲にある紋章が光る。


そのため、審査なしで城内に入ることができるというわけだ。


特別な日以外、門が開閉されることすらない。


生活に必要な農業や畜産業は、すべて城内で行われている。


まるで、広い箱庭だ。


しばらく歩くと、城の前にたどり着いた。


二階建ての、平べったい城だった。


城の見張りに名前と要件を伝える。


門番は、事前に勇者が来ることを知っていたようで、すんなりと城の中に入ることができた。


「ふー。疲れた」


城の中の兵士に連れられ、まずは大臣のもとへ案内される。


「ほほ、待っていたぞ、勇者。ほほう、かわいらしい娘だな。外に出すのがもったいない」


スケベそうな顔をした大臣は、勇者の周りをぐるりと回り、全身を舐め回すように眺めてきた。


特にお尻から足にかけては、鼻先が当たりそうなほど顔を近づけ、じっくりと見ている。


勇者は首をかしげた。


「どうされましたか? 私の服、新調したんですが、みすぼらしかったですか?」


そう言って、裾をぱたぱたと払う。


靴の裏まで気になって、片足を少し浮かせてみせた。


「母が新しく縫ってくれた、大切な物なんですけど……」


大臣は言葉に詰まった。


「いや、そういうわけではないぞ。母君が縫ってくれたのか。いい服ではないか」


勇者の発言に、少し冷静さを取り戻した大臣。


勇者はほっと胸をなで下ろした。


私は大臣と兵に連れられ、王の間へとたどり着いた。


そして、ひざまずいて王を待つ。


顔を下げて待っていると、王が前に立つ気配を感じた。


母から教わった、王様への謁見の口上を述べる。


「王様、お初にお目にかかります。私、リツカと申します。王様におかれましても、ご壮健で何よりです。益々のご多幸を、切にお祈り申し上げます」


(……よし、噛まなかった)


「勇者よ、よく参った。面を上げい」


「はっ」


私は顔を上げ、王に顔を見せた。


「……! んっほほ! めっちゃかわえぇ! ……う、ウォホンッ! ……勇者よ。儂の親衛隊で働かぬか?」


勇者はぱちぱちと瞬きをした。


「親衛隊、ですか?」


少しだけ考える。


「王様のすぐ近くにいる人たちですよね? えっと……私、まだ修行中なので、護衛はちょっと責任重大で不安かもです」


申し訳なさそうに、小さく頭を下げる。


「でも、城内の掃除とか、荷物運びなら頑張ります!」


王が固まった。


「何を申されますか、王よ! そんなことをすれば、光の精霊様にお叱りを受けますぞ! 気持ちはお察しいたしますが……」


大臣が慌てて王の提案を止める。


勇者はきょとんとした。


「精霊が? ……あっ、私の身を案じてくれているんですか?」


誰も答えない。


「じゃが、儂はこの者を一目見て気に入ったのだ」


「なりませぬ! なりませぬぞ! 皆の者、早く就任の儀式を始めるのだ!」


大臣は王を抑えている間に、儀式を早めに済ませるつもりのようだ。


勇者は小声で大臣に尋ねた。


「私、何か失礼しました?」


「……いや、しておらん」


「よかった……。王様、怒ってませんよね?」


何やら慌ただしい雰囲気の中、召使いに連れられ、勇者は儀式のために更衣を済ませた。


石造りの神殿に、鐘が鳴り響く。


集った者たちが、静かに頭を垂れた。


玉座を離れた王がゆっくりと前へ進み、勇者となる者を見据える。


勇者は少し緊張していた。


(……手、震えてないかな)


祭壇の前に立ち、儀式用の聖剣に手をかける。


司祭の祝詞とともに淡い光が降り注ぎ、その手の甲に紋章が再び刻まれた。


「わっ……あったかい」


小さく声が漏れる。


「これが……みんなを守る力……」


王は勇者の就任を宣言し、民の前で勇者の名を高らかに告げた。


歓声が上がる。


勇者はびっくりして、少しだけ肩をすくめたあと、照れたように小さく手を振った。


「勇者様。ご立派でした」


召使いの中年女性が、穏やかにほほ笑んだ。


「私、変じゃなかったかな?」


「全然! 今までの勇者様の中で、一番立派でしたわ」


「へへ、ありがとう」


「さあ、また王の御前へ」


勇者就任の儀を終えることができた。


「さて、これでおぬしは勇者となったわけだが、まずはこの城周辺で魔物を倒し、力をつけるがよい。この近辺の魔物はまだ弱いからな。そして休みたくなったら、宿屋に泊まり、傷を癒やすとよい。しかし……お、おぬしは特別に、わ、儂の隣の部屋を使うことを許可しよう。遠慮せずに部屋を使うとよい」


王は大臣とアイコンタクトをした。


「いえいえ、そんな王宮に泊まるなんておこがましいです……」


「もし、おぬし一人では城周辺の警護が難しい場合は、冒険者を紹介しよう。大臣!」


「はい。勇者様に配慮いたしまして、女性の冒険者をご用意いたしました」


「さすがだぞ、大臣!」


「はい! お褒めいただき、ありがとうございます」


同性の方が、何かと話しやすいこともあるだろう。


「勇者よ。もし自分一人で解決できぬようなら、仲間を大臣に紹介してもらうとよい。城壁の門番にも話はつけておこう」


「はい。ありがたき幸せ。感謝いたします」


「では、気をつけて行くとよい……。必ず帰ってくるのだぞ。……逐一報告もな……。明日も会えるか?」


「王よ!」


なんとも締まらない就任だったが、勇者は旅立つ。


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