61 草原地帯 人間の街
砦を旅立ち、数日が経った。
深い緑に包まれていたサタヤイ森林の木々は、徐々にまばらになり、枝葉の影が地面から薄れていく。
やがて視界の端に光が滲みはじめ、鬱蒼とした森を抜けると、そこにはまったく異なる世界が広がっていた。
空はどこまでも広く、昏く、雲が蠢くように重なり合っている。
淡く紫がかった光が、空からぼんやりと地上を照らしていた。
風は湿った木の香りから、乾いた土と鉄錆の匂いに変わり、肌に刺すような冷気を帯びている。
草原といっても、そこに揺れているのは人間界の優しい緑ではない。
毒々しい藍色や黒に近い深緑。
刃のように尖った草が一面に生い茂り、草の間からは時折、燐光を放つ胞子がふわりと舞い上がっていた。
踏み入れば、足元で奇妙なざわめきが響く。
草が風で揺れているのではない。
獲物の気配に反応して、草そのものが蠢いているのだ。
まるで、歩く者を見ているかのように。
この地は、モラビ大草原と呼ばれている。
かつて魔界の古き王が天界の者と戦った、血と戦いの歴史に染まった場所である。
戦死した強者たちの血肉によって、強い力を得た魔物も多い。
グロウグラス――囁く草が、サタンたちの足に絡みつく。
生きた草。
獲物の体温や魔力に反応して絡みつき、刃状の葉で傷つける。
夜になると無数の小声で囁くような音を立てる草だが、それは植物同士がコミュニケーションを取っているからだといわれている。
そして一度獲物を捉えれば、どこまでも追い続ける。
「ああ、またか。グランド・ファングフィールド」
サタンの足元に絡みつこうとしていた葉の刃が凍り、周囲の草も動きを止めた。
その時、ゾイルが凍った地面の下からうごめく気配を感じ取る。
「サタン様、足元から何かが来ます!」
ゾイルは刀を抜き、凍った地面を突き破って飛び出してきた影に向かって振り抜いた。
ゴルスの影虫だ。
地中に潜む巨大な寄生虫。
群体で行動し、地上に出る時は黒い波のように襲いかかる。
魔力に反応し、魔力量の多い者に狙いを定める厄介な魔物だった。
「くッ。数が多い……上も!?」
「ギャーーーーー!!」
空から響いたのは、ハリガラスの鳴き声だった。
翼が無数の針金状の羽毛でできた鳥。
羽の針を飛ばし、獲物を串刺しにして仕留める。
その鳴き声は、他の生物の断末魔を真似たものだ。
弱った獲物の目玉を喰らうという、不気味な魔鳥である。
「任せろニャ。猫又鏡面」
次の瞬間。
サタンの体に、ゴルスの影虫が食らいついた。
鋭い乱杭歯がサタンの肉を食いちぎり、血が噴き出す。
さらに、ハリガラスの針がゴルスの影虫ごとサタンの体を貫いた。
「グフッ……!」
「サタン様!」
ゾイルが叫ぶ。
だが――。
「……どうなってんだ!?」
サタンが呟いた。
サタンの目の前で、サタンそっくりの者が魔物たちに襲われている。
「フフ、これがタマ族の幻影魔法ですニャ」
タマキンが得意げに尻尾を揺らした。
姿も声も、幻術で完全に模倣したのだ。
今、虫やカラスが夢中で攻撃しているのは、幻術で生み出したサタンの偽物だった。
「ぼんやり見てないで、そろそろ幻術が切れるから、その前に早く倒せニャ」
「そろそろ、私の力も見せましょうかね。……黒棺奏」
アスカントは闇の魔法を唱えた。
その手には、具現化した弦楽器が握られている。
美しくも怪しげな音色が、草原に響き渡った。
闇の音律を用いて魂を振動させ、肉体から分離させる魔法。
聴いた者は、耳ではなく魂で音を聴く。
先ほどまでサタンの幻影を必死に攻撃していた影虫とハリガラスが、一斉に動きを止めた。
その瞳には、虚無が映っている。
演奏が終わると同時に、黒色の棺が出現した。
そして、多数の虫とカラスの魂が体から抜け落ち、その躯が地面に転がる。
抜けた魂は、闇の棺へと封じられていった。
本来、この魔法は、魂を抜かれる対象と術者の魂を同時に棺へ封じる禁術である。
しかし、演奏者がすでに死んでいる存在、あるいは魂だけの存在であれば、ノーリスクで扱える。
「なんて魔法だ……」
ゾイルは言葉を失い、目の前の光景が信じられなかった。
「無敵ニャ」
「いえいえ、私の存在が特別異質だから扱える魔法です。それに魔力消費量が異常に多いので、数日に一回しか使えませんがね」
「いいものを見せてもらった。あの黒棺はどうなるのだ?」
サタンは、アスカントの能力があれば魂を集め放題なのではないかと考えた。
「あれはアスタロト様の物となるのだ」
「アスタロトも魂を集めているのか?」
「様をつけないか!? 無礼者! ……アスタロト様は、お前とは違う理由で集めていらっしゃる」
「というと?」
「アスタロト様は契約を大事にしている。あの魂は地獄でアスタロト様と契約し、また地獄で違う姿となって生きていくのだ」
「もし、契約しなければ?」
「その時は地獄の窯で煮込まれて、私たちの生活のエネルギー源となります」
「じゃあ、例えばイルカたち一族が禁術を使って、魂と肉体が地獄に行った場合、地獄の住民になるってことか?」
「そういうことです。晴れて私たちの仲間になれるということだ! あの一族は肉体もアスタロト様の物だから、きっと地獄でも魔界の姿のまま。痛みを感じ、苦痛も感じるであろう」
「ということは、ヨルカの両親も地獄にいるってことか」
「おや? サタン。あなたは良からぬことを考えていませんか? 無駄だからおやめなさい。どうにかして連れて帰ろうだなんて」
俺は心中を言い当てられ、ドキッとした。
「無駄とは?」
「地獄の住民になった途端、自我がなくなる。肉体があった時の記憶などない。永い時を苦しみの多い地獄で過ごすには、そのように進化するしかないのさ」
アスカントは淡々と続ける。
「記憶を取り戻した例もあったが、結局、精神崩壊して無に消えたよ」
「そんな、意思もないような住人を集めてどうするんだ?」
「住民がいれば労働力になるのは、どの国も同じだろう? 単純作業だけなら、自我もない方が使いやすいのさ」
その頃、サタン一行が草原の魔物を一掃している様子を、複数の人間の旅人が物陰から見ていた。
魔力も神力も扱えない人間には、アスカントの姿は見えない。
そのため旅人たちは、サタンが何らかの術を使って魔物の群れを倒したのだと勘違いしている。
旅人たちは身を低くし、音を立てないように人間の町へ向かっていった。
魔力を持たない人間の存在に、サタンは気づいていなかった。
「ところで、あそこに町が見えるんだが、あれはなんだ? 魔人の町か?」
「いえ、サタン様。あそこに見えるのは人間の集落にございます」
ゾイルが説明する。
「人間とはなんだ?」
「おや、サタン様は人間に会ったことがないのですね。見た目は弱小魔人とそう変わりませんが、奴らと私たち魔族には決定的に違う点がございます」
「ほう、それはなんだ?」
「においです。どんな人間でも独特のにおいがします。よほど人間がにおいに気をつけていなければ、違いにはすぐ気づくことでしょう」
「戦闘力はどうだ?」
「魔族や魔獣と戦えるのは、ほんの一握りといったところでしょうか。基本的には、ゴブリンとそこまで差はないでしょう」
「ところがニャ! 勇者という存在だけは気をつけないといけニャイ」
タマキンが尻尾を立てて口を挟んだ。
「なんだ、勇者って?」
「光の精霊の加護を受けた者で、インドラ様と似た神力と自然力を使うのニャ。神力は魔力に圧倒的な優位性があるから、気をつけなきゃならないんだニャ」
「ちょっと見に行こうぜ」
「ニャニャ!!? 絶対いやニャ!」
タマキンは、人間にいい思い出がないのか、全力で拒絶した。
「私も遠慮したいです。人間の匂いが嫌いなもので」
ゾイルも、断固として行きたくないらしい。
「私は行きますよ。ただし、勇者の近くには絶対に近寄りたくないので、一人でぶらぶらしながら契約のノルマをこなしてきます」
仕事熱心な奴だ。
しかし、勇者の存在は少し気になる。
ゾイルとタマキンを平野に残し、俺とアスカントは町へ向かった。
町の近くまで来ると、人間と思われる者たちが列をなしていた。
魔人が入り込むことを警戒しているのだろう。
門では、一人ひとり入念なチェックを受けているようだ。
「おい、これどうするよ?」
「私の姿は人間どもには見えないでしょうし、考えるべきなのはお前だけだ」
アスカントは宙にぷかぷか浮かびながら、のんびり答えた。
「ん〜。とはいえ、あの門で何を聞かれるかが分からないとな……。あの人間を捕まえて聞いてみるか」
門に向かって、商人風の男が早歩きしている。
「いいね。久しぶりに人間の絶叫も聞きたいし、サタンが終わったら、俺にその人間を使わせてくれよ」
「いやいや、これから潜入するんだから、絶叫させてどうするんだ! いいから早く捕まえるぞ」
危険な魔界の中で、人間の町は貴重な安息地なのだろう。
商人は門が近づくにつれ、どんどん歩く速度を上げている。
早く捕まえなければ、門にたどり着いてしまう。
「私に任せてください。冥縛陣」
商人の足元に、黒い魔法陣が浮かぶ。
すると商人は歩みを止め、その場に立ち尽くした。
「おお、止まった。これはどんな魔法なんだ?」
「ふふ、縛られているわけでもないのに、動きを止めていて不思議でしょう? これは、魔法をかけた者の“動こうとする意思”を刈り取る魔法です。催眠効果もあるので、今ならわりと素直に教えてくれるでしょう」
サタンは商人に近づき、問いかけた。
「さて、人間。門の兵は、どんな質問をしてくるんだ?」
商人は朦朧とした意識の中で答えた。
「止まれ。ここは人間の町だ――。名と身分、入町の目的を述べよ。魔族、またはそれに連なる者であれば正直に申告せよ。偽りや武器の隠匿があれば、この場で拘束する」
「なるほど。大体理解した。問題なさそうだな。行くか」
「行くかって、サタン。お前、思いっきり角があるし、武器も持っているし、さすがにごまかせないんじゃないか?」
「ふふ。俺を甘く見るなよ。インビジュアル・セクタ」
魔法を唱えると、サタンの角と刀が消えた。
「おお、透明化! しかも部分的に消せるのか?」
「これで良し」
サタンとアスカントは、門兵のもとへ向かった。
サタンは事前に聞いた質問の通り受け答えを行い、無事に質疑応答を通過する。
だが、ほっとしたのも束の間。
門の脇から、魔術師が現れた。
「おい、待て。お前、森の方から来たな? 一応、魔物が変化している姿ではないか調べる」
「なっ!?」
(おい! なんでだよ?)
サタンの疑問に答えるように、アスカントが囁いた。
「あ〜。質問の仕方が悪かったかもしれませんね。私たちは“門兵の質疑”しか聞いていませんので」
アスカントは、見えないこと、聞こえないことをいいことに、魔術師の目の前でべらべらと喋っている。
「おい、聞いているのか? とりあえず調べるから、そこから動くな」
「……調査に入る。動くな」
魔術師の声と同時に、門の脇に展開された探知陣が淡く輝き始めた。
それは魔力の“量”ではなく、性質と揺らぎを拾い上げる術式だった。
サタンは魔法陣を一瞬で見抜き、対策を考える。
そして、深く息を吸った。
(抑えろ……徹底的に)
体内で渦巻く魔力を、可能な限り沈める。
存在を消すのではない。
押し殺すのだ。
その代わりに、胸の奥で眠っていた神力を、薄く、しかし均一に広げていく。
膜のように。
血肉の表面。
骨の隙間。
呼吸のリズムにまで染み渡らせ、魔力の“匂い”を内側へ閉じ込める。
視界が一瞬、金色に染まった。
(……まだだ。厚くしすぎるな)
神力が前に出すぎれば、今度は人間ではないと疑われる。
必要なのは、“信仰心の強い人間”程度の反応。
サタンは脳裏に、昔世話になった薬師の姿を思い浮かべた。
探知陣の光が、サタンの足元をなぞる。
魔術師の水晶盤が、低く唸った。
「……妙だな」
門兵が身構える。
「何か出たのか?」
「魔力反応は……極端に低い。だが、代わりに――神聖系の波形が出ている」
一瞬、空気が凍る。
(くそ……)
サタンの背筋を冷たい汗が伝った。
アスカントの声が、影の中から囁く。
『そのままです。“祈り慣れた人間”を演じて』
魔術師は水晶盤を覗き込み、舌打ちした。
「森帰りにしちゃ妙だが……巡礼者か、聖堂関係者だな」
門兵が納得したように頷く。
「最近、神殿からの行き来も増えてるしな」
探知陣の光が弱まり、やがて消えた。
魔法による調査は終わったようだ。
「……いいだろう。行け」
その言葉と同時に、サタンは神力の膜をゆっくりと薄める。
だが、完全には解かない。
完全に解けば、膨大な魔力によって、魔法による感知を行わずとも正体がばれてしまう。
町に入るまでは、気を抜けない。
門をくぐり抜けた瞬間、背後で重い鉄門が閉じた。
――通った。
(……やれやれだ)
「見事だな」
アスカントの声が、わずかに愉快そうに響く。
「魔力を“消す”のではなく、神力で“覆う”。発想としてはかなり危険ですが、成功しましたね。なぜ神力をあなたが持っているのか本当に意味不明ですが、魂を食べている時点で変な奴だと思っていたので、追及するのはやめておきます」
アスカントは、門兵に見送られながらサタンに問いかけた。
「ところで……俺みたいに完全に見えなくなれば、無用な問答も避けられたんじゃないのか?」
「それで、次に外から来た人間と一緒に入るというわけか。ただ、先ほどの商人は意識朦朧で今すぐは戻らないだろうし、次がいつ来るかも分からない。それに門兵をだませないようでは、この町の中で食事することもできないだろうからな」
「なるほど。対魔族の小手調べって意味もあったのか。確かに、敵のど真ん中で正体がばれるよりは良いか」
「さて、無事通過できたことだし、人間の食事を楽しむぞ!!」
「お前はぶれないな」




