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59 禁術の力の源 地獄の侯爵


「……禁術を解除する方法はないのか」


俺は、わずかな希望に縋るように問いかけた。


沈黙の中、ため息のような声が返ってくる。


「禁術は“契約”です。一度命を差し出した者は、契約の完了まで解放されません。……ですが」


「ですが?」


「外部から命の燃焼を一時的に抑え、“契約の完了”を遅らせることは……理論上、可能かもしれません」


「ただし、その間に禁術の根源たる“契約の魂”を解除しなければ、結局、命は燃え尽きる……」


俺は、噛みしめるように呟いた。


時間稼ぎしかできない、ということか。


だが、それでもいい。


このまま何もしなければ、ヨルカの命は尽きるだけだ。


「契約の魂は? どうすれば解除できるんだ?」


インドラが近づき、サタンに助言する。


「術者の魂に結びついている。普通の方法では触れることも、破壊することもできない……。だが、お前なら」


インドラは、じっと俺を見据えた。


「お前の“あの力”なら、魂の深淵に踏み込めるかもしれない」


インドラは、俺がどうやって力を得ているか知っているようだった。


俺は静かに息を吸い、ヨルカの方を振り向いた。


彼女の身体は、すでに力なく横たわっている。


けれど、その命の火はまだ完全には消えていない。


「保存魔法をかける。少しでも命の燃焼を抑えるために。インドラ、頼む」


「よかろう。ヨルカをワレの前に」


インドラはヨルカの胸元に鼻先を近づけ、静かに集中した。


魔力の奔流が、微かに震える彼女の命に寄り添うように、優しく包み込んでいく。


冷たく、けれど穏やかに。


まるで、深い眠りにつかせるように。


「頼む……少しだけ、時間を稼いでくれ」


そのわずかな時間の中で、俺はすべてを終わらせる。


ヨルカを、必ず取り戻すために。


「……ヨルカ。お前の魂、必ず救い出してやる」


低く、けれどどこか優しさを帯びたサタンの声が、静寂の中に落ちた。


サタンはヨルカの胸にそっと手をかざす。


そして、まるで大切なものを抱き上げるように、静かにその胸へと手を沈めた。


肉や骨を裂くものではない。


ただ深く、確かに。


契約に囚われた魂へと伸ばされる手だった。


世界から音すら奪い去ったような静寂の中、サタンの指先は彼女の魂に触れる。


そこにあったのは、深く刻まれた苦痛と孤独。


黒き契約の鎖が幾重にも絡み、ヨルカの魂を締め上げ、彼女の自由を奪っていた。


「……よく耐えたな、ヨルカ」


サタンは静かに呟き、魂の核をそっと掌に包む。


その手には、力ではなく、慈しみが宿っていた。


だが、慈しみだけではこの鎖は断てない。


サタンは魂を持ち上げ、顔の前まで近づける。


そして、牙を剥き、忌まわしき契約の鎖へと喰らいついた。


ギリギリと、金属が悲鳴を上げる。


魂から黒い瘴気と赤い魔力が噴き出した。


それはまるで、ヨルカが長年にわたり耐えてきた痛みや苦悶が、形となって流れ出したかのようだった。


サタンはそのすべてを、自らの口で受け止める。


穢れも。


苦痛も。


絶望も。


サタンが喰らい尽くすことで、ヨルカには届かぬように。


やがて鎖は砕け、魂はかすかな輝きを取り戻した。


砕けた鎖を飲み込み、サタンは静かに手を引く。


深紅の瞳で、彼女を見つめた。


「まだ終わりではない。最後に……あの悪魔の名を呼べ。その名を呼び捨て、縛めを断て。お前の声で、この魂を完全に取り戻せ」


その声には、命じるような力強さと、温もりが同時に宿っていた。


サタンの言葉に応えるように、崩れかけた魂の奥底から、かすかな声が漏れる。


意識の闇に沈んでいたはずのヨルカの唇が、誰にも教わっていないはずの名を、震える声で紡ぎ出した。


「……ア、ス……タ……ロト……」


その瞬間、空気が凍りついた。


空間が裂け、世界の裏側から瘴気の奔流が噴き上がる。


魂の契約を断たれた怒り。


そして、契約者から秘密の名を呼ばれた屈辱。


その二つを宿した存在が、魂の裂け目を強引にこじ開け、現世へと姿を現した。


――それは、地獄の侯爵、アスタロト。


漆黒の思念体は灼熱の気を纏い、双眸には紅蓮の怒りを宿してサタンを睨んだ。


「……貴様か。我が糧を喰らい、契約を引き裂いた者は」


その声は、雷鳴のように天地を揺るがせた。


重く、世界を圧する声だった。


「サタン、と言ったか……。聞いていたぞ。アスカントからな」


その名に、サタンの目が微かに細められる。


「……いつぞや森で会ったシャドーだな。アスカントが、俺のことを?」


アスタロトは低く嗤った。


「奴は怯えていたぞ。魂を喰らい、破壊する異質な存在がいるとな。まさか、その貴様がこの娘の魂まで奪おうとはな」


サタンは静かにため息をつき、淡々と返す。


「奪う気はない。ただ、救っただけだ」


その言葉に、アスタロトの怒気がさらに膨れ上がった。


「救いだと? 馬鹿げた理屈だ。魂とは契約によって価値を得る。契約なき魂など、ただの空虚に過ぎん。貴様は、その世の理を否定するか!」


「地獄の者の価値観など知らん。俺にとって、魂は存在するだけで尊い」


紅蓮の瘴気がさらに膨張し、周囲の空間を焼き尽くさんとする。


「だが、よかろう。ならば貴様も、我が地獄の王にその理屈を説いてみるがいい」


アスタロトは、忌々しげにサタンを見下ろした。


「クシャナ山脈の麓、地獄の扉で待っていろ。我が王が貴様に与えるのは、嘲笑か、死か、あるいは魂そのものの蹂躙だ」


サタンはその言葉に、わずかに肩をすくめる。


「……地獄の扉、か。まあ、逃げも隠れもしないさ」


そして、静かに問いかけた。


「だが、その前にひとつ聞こう。イルカの魂も、お前の手中なのか?」


アスタロトは不快げに目を細め、嗤う。


「ふん……あの老女も、我が契約者の一人。貴様のような異端者が現れぬ限り、永遠に我が糧となる存在よ。当然、肉体の死後もな」


その言葉に、サタンの眼差しが鋭さを帯びる。


アスタロトはさらに、愉悦を滲ませるように続けた。


「貴様が私たちから逃げようものなら、その者を呪い殺してやろう。イルカの魂ごと、灼き尽くしてな!」


「……その挑発、受けてやるさ」


サタンは静かに、しかし揺るぎない声で言い放つ。


「地獄で待っていろ、アスタロト。俺が、すべての鎖を断ち切ってやる」


アスタロトは満足げに咆哮し、その思念体は漆黒の炎とともに霧散していく。


その残滓。


呪いの瘴気だけがこの場に漂い、なおも世界を蝕んでいた。


サタンはヨルカを静かに見下ろし、その魂の核に手を添える。


「……お前の道は、まだ続く」


崩れかけた魂の中で、ヨルカは微かに瞼を震わせた。


彼女の心に、静かに火が灯る。


サタンと共に、祖母イルカも、地獄の鎖から解き放つために。


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