57 安心と絶望
「危なかった〜。死ぬかと思った……」
ベルゼが姿を消したのち、俺はその場に座り込んだ。
(行ったか)
「行ったか……じゃねーよ!! 何をわざわざ喧嘩売ってんだ!?」
俺は猛烈にルシファーへ抗議した。
(別によいではないか。相手がどのような防御方法や耐性を持っているか知ることは大事だぞ)
「いやいやいや、一歩間違えれば、本格的にベルゼ軍と全面戦争になっていただろうが!」
(それはそれで面白そうだ)
「ふざけるな! 砦の仲間を危険にさらしたいのか!」
(落ち着け。何も無駄な攻撃だったわけではない。これを視ろ)
ルシファーはやれやれといった様子で、俺の脳内に画面を映し出した。
「ん? なんだ? この数字」
そこには、三五四二という数値が表示されている。
(ベルゼが、ここからどれくらい離れているかを示している)
「いつの間に? ……というか、どうやって?」
(おぬしの血にまじないをかけ、血の攻撃に紛れてベルゼの鎧に付着させたのだ。鉄分に反応するまじないだからな。たとえ血を洗い流したとしても、呪いそのものは決して落ちぬ)
「そんなことをしてたのか……」
(アスカントとかいうシャドーのマーキングの応用だな)
「どうしてそこまで?」
(空間移動する者は厄介だからな。奇襲をかけられる前に、こちらも警戒はしておくべきだろう)
なるほど。
ルシファーも、ちゃんと考えていたようだ。
「すまなかった」
(良い良い。我も説明していなかったしな。おぬしの言う通り、インドラの助け舟がなければ、無事ではいられなかっただろう)
ルシファーの声が、わずかに静かになる。
(……砦の様子がどうなっているか、確認しよう)
砦に戻ると、そこは戦の余燼に包まれていた。
サタンの胸の内がざわめく。
砕けた石壁。
血の痕。
焦げた空気。
タマ族の叫び声と、負傷者のうめき声が交錯している。
サタンは駆け出し、砦内を見て回った。
鼓動が嫌な音を立てて高鳴る。
「なぜだ……? 俺は、相対した敵はすべて倒したはずなのに」
サタンは荒れていた。
胸の奥で、焦りと苛立ちが渦を巻いている。
俺がすべての敵を倒せば、それでいいはずだった。
誰にも剣を握らせず、誰にも血を流させず、誰にも痛みを背負わせない。
それが俺のやり方で、俺の信じた正しさだった。
だが、現実は違った。
俺がいくら剣を振るおうと、敵は現れ続ける。
仲間は戦場に立ち、傷ついていく。
守るはずの存在たちが、俺の背後で呻き、膝をつき、ある者は声もなく崩れ落ちていた。
なぜだ。
俺がもっと強ければ。
もっと早ければ。
もっと……完璧ならば。
悔しさが怒りに変わり、その怒りが自分自身へと向かっていく。
そこへ、ゾイルが息を切らしながら駆け寄ってきた。
「隠れ里の“カオナシ”が襲撃してきました。この隠れ砦を制圧するために。その陽動として、リザードマンの群れがなだれ込んできたのです」
敵の勢力は二個師団。
俺が撃退しながら進んでいた方が本隊で、別動隊が俺と入れ違いに砦へ侵入したようだった。
「なんだと……! インドラは無事なのか!?」
ゾイルの顔が曇る。
「……ヨルカが、インドラ様の護衛のために戦いました。インドラ様を守るために、禁術を――」
「禁術だと?」
「はい。カオナシは捕らえ、牢に入れています。ですが……」
ゾイルは一度、言葉を詰まらせた。
「禁術の発動と引き換えに、ヨルカ様は倒れたまま、いまだ意識を取り戻しておりません。いただいていた治癒薬草も効かず……」
サタンの胸を、怒りと不安が激しくかき乱した。
無理を承知で、何を差し出したのか。
あの少女の決意が、呪いのように胸へ重くのしかかる。
「イルカはいるか?」
少しの間が空いたのち、イルカがサタンの前へ出てきた。
「はい、サタン様。ヨルカのことですね。禁術について、少しお話しいたしましょう」
「禁術とは、どういうものだ?」
「はい。ワの村に伝わる禁術は、族長の直系にしか伝わらぬ秘術です。一時的に魔力と身体能力を大幅に上昇させる代わりに、命を削るというものです」
「ヨルカは目を覚ますんだよな!?」
それは問いではなかった。
願望だった。
イルカは目を伏せる。
「……それは、わかりません」
静かな声だった。
だが、その静けさが余計に胸を抉った。
「私の息子……ヨルカの両親も、村と、そしてヨルカを守るために禁術を用いて命を落としました」
「そんな……! どうにかする方法はないのか!?」
叫んでも、問い詰めても、答えは変わらないことくらい分かっていた。
それでも、諦めきれなかった。
俺は、誰も傷つけたくなかった。
死なせたくなかったんだ。
俺が戦って、俺が血を流して、俺がすべてを終わらせれば、誰も犠牲にならなくて済むはずだった。
けれど――。
現実は、また俺の手の届かないところで、大切な誰かが命を削っている。
「ヨルカは……死なせない」
誰に向けた言葉かもわからないまま、吐き捨てるように言った。
それは願いでも誓いでもなく、もはや執念に近かった。
だが、目の前の現実は残酷だった。
「禁術は……使用者の命を代償とします。インドラ様が築く未来を守るために、あの子は自らに託された役目を果たしたのです」
イルカの声は静かだった。
そこには諦めと、覚悟が滲んでいた。
その覚悟を責めることなんて、俺にはできなかった。
「ふざけるなよ……。そんな未来、誰も望んじゃいないだろ……」
唇を噛み締める。
無力だ。
俺は、何も守れていない。
結局、俺一人で背負いきれるほど、この世界は甘くなかったんだ。
それでも。
「俺が……ヨルカを取り戻す。必ずだ」
誰が相手でも。
どんな術でも。
どんな絶望でも。
俺は、諦めるわけにはいかなかった。




