56 王魔 ベルゼブブ
オーガのリーダーが、何者かに背後から刺された。
洞窟にいた他のオーガたちは、突然の事態に戸惑っている。仲間がやられたにもかかわらず、すぐに襲いかかってこないところを見るに、おそらくベルゼ陣営の者なのだろう。
「何者だ? お前?」
「はっ? あなたごときに名乗る名などないわ」
「ベルゼの手先か?」
「きさま〜!!!!! “様”をつけなさい!!」
そう叫ぶと、謎の女魔人はオーガの体から槍を引き抜き、サタンに飛びかかってきた。
「冥穿・黒牙突」
「くっ……!」
魔力のバリアを貫き、胴を浅く穿たれる。
闇の槍。その穂先は、ただの金属ではない。刺し傷は小さくとも、血の中に瘴気のような熱が混じる。
皮膚が内側から灼けるように痛んだ。
女は一歩、静かに踏み込んだ。黒衣の裾が風にたなびき、影に紛れるように姿が揺れる。
「冥穿――黒牙突」
次の瞬間、槍が音を置き去りにして突き出される。
漆黒の残光が、地を裂くように迫った。魔性の牙を思わせる三段の連突。その軌道は狂いなく、喉、胸、腹を順に貫かんとする死の連撃だった。
サタンは咄嗟に体を捻り、鞘走らせた刀身で初撃を弾く。火花が散り、腕が痺れた。
「はあっ!」
二撃目は刀の側面を滑らせて受け流し、三撃目は踏み込みざまの逆袈裟で切り払う。
手応えがあった。かすかに槍の穂先が軋む。
女は言葉なく、舞うように後方へ引いた。真っ黒な姿の中で、瞳だけが光を灯している。
闇を見通す蛇のように冷たく、残忍な視線だった。
刀を構え直す。刃にはうっすらと闇の瘴気がまとわりつき、触れただけで火傷しそうな熱を帯びている。
だがその熱気が、逆に気を引き締めた。
女槍使いが地を蹴る。
その動きは風に紛れ、影に潜むようだった。突き、薙ぎ、返し、裏突き――槍はしなり、唸り、蛇のようにうねる。
連撃に間断はない。
息継ぎすらない。
だが、サタンは一歩も退かず、冷静に応じた。刃を滑らせ、受け流し、時に斬り返す。
ミスリル鋼とミスリル鋼がぶつかる音が、空気を震わせた。
やがて、サタンの刀が女の腕をかすめる。闇の布が裂け、細い傷口から白い肌があらわになった。
女の動きが、わずかに鈍る。
見えた。
次の瞬間、サタンは深く踏み込み、刀を奔らせた。
返し斬り。
闇を裂く光の軌跡が、女の槍を跳ねのける。
「あんた、私の動きについてくるなんて……何者?」
「あいにく、おまえに名乗る名はない」
「くそッ!!」
戦闘中とは違い、手を止めた途端、女はずいぶんとよく喋るようだった。
「……私の名前はノワ。ベルゼ様の十配下の一人。すぐに殺してやろうと思ったから最初は聞かなかった
けど……事情が変わった。意地でも、あんたの名前は教えてもらう」
「俺にこれから傷を負わせられたら教えてやろう」
「言ったわね。次の魔法で決めさせてもらう」
ノワは槍を構え、低く詠唱を始めた。
「闇よ。血脈に応えよ。サングイス・ノクス・インフェルナ。炎となりて、逃れし命を喰らえ。這い寄れ――影炎」
詠唱が終わると、戦場に流された血痕が一斉に黒く燃え始めた。
そして、ノワの周囲へと黒炎が地面を這い、集まっていく。まるで、無数の黒い火蛇を従えているようだった。
視界の端で、先ほど倒した二体のオーガの体から大量の黒い炎が湧き出す。それと同時に、オーガの体は干からび、やがて全身が燃え上がった。
あの黒炎に触れれば、あっという間に燃え尽きてしまう。
しかも驚いたことに、燃えやすい草木だけではなく、通常なら燃えることのない金属の大剣までもが燃えていた。
影炎が地を這う。
まるで生き物のように、赤黒く脈打ちながらこちらへ迫る。
血を媒介にしたそれは、有機物も無機物も分け隔てなく喰らい尽くす異質な炎。石畳すら焦がし、黒く爛れさせながら、音もなく忍び寄ってきた。
「まずい……!」
サタンは足元から一歩引きつつ、右手を振り上げる。
「アネモルム!」
魔力が空気を巻き、即座に竜巻が生み出された。
天使戦で使った魔法よりも、かなり小規模だ。血から生まれた炎であれば、吹き飛ばせるだろう。
そう考えた。
だが、巻き上がった風が影炎を飲み込んだ次の瞬間――。
「マジか……!」
影炎は、その風を逆に餌とした。
渦の中で勢いを得た炎が噴き上がり、黒い火柱と化す。炎の舌が空を裂き、逃れたはずの上空までも覆い
尽くそうとしていた。
サタンは舌打ちし、すぐさま次の魔法へ移る。
足元を強く踏みしめ、地脈から魔力を引き上げた。地面が軋み、鈍い音とともに氷の槍が幾本も突き上がる。
「フローズンファングフィールド!」
鋭い氷が影炎の進路を遮る。
だが、槍先が触れた刹那、炎は氷の槍にまとわりつき、溶かし始めた。
確かに勢いは弱まっている。
だが――足止めにしかならない。
「くそっ、やはり……!」
焦燥を押し殺し、サタンは最後の魔法に賭けた。
(ルシファー、少し力を貸せ)
(うむ、神力だな)
片腕を大きく掲げ、黒き魔力と神力を指先に集約する。
「灰雷!」
指先から雷が放たれた。
灰雷は光を放たない。ただ、空気が灰に染まったように沈み、次の瞬間、稲妻の形だけが残像として焼き付く。
それは雷というより、空気が砕けた痕跡だった。
雷光が竜巻状に燃え盛る影炎へ直撃し、瞬間、眩い閃光が爆ぜた。
灼けた空気に黒煙が巻き上がり、衝撃波が周囲の炎を吹き飛ばす。燃えさしとなっていた無数の瓦礫が、
一斉に炭となって霧散した。
立ち込める煙の奥。
影炎をかき消した灰色の雷。
それは、インドラの吐くブレスにも似た稲妻だった。
灰雷は影炎を消し飛ばした後、そのままノワへ向かっていく。
(槍で受けるか……いや!!)
ノワは咄嗟に槍を構えた。
しかし、槍に灰雷が触れたと思った瞬間、彼女は本能的に手を離そうとする。
だが、遅かった。
灰雷を受けたミスリル鋼の槍は、一瞬で高温の金属液となり、地面へ流れ落ちる。
ノワの手のひらはひどく爛れ、重度の火傷を負っていた。
「ううっ……」
これでは武器を持つどころか、魔法も撃てない。
サタンは刀を構えたまま、ノワへ歩み寄る。
「さて、言い残すことはあるか?」
「ほんとに、あんたは何者なのさ……」
「賭けの条件は達成していないが、まあいい。俺の名はサタンだ」
「サタン……」
剣先がノワの喉元に突き立てられようとした、その刹那。
空気が、裂けた。
空間移動だ。
「ドゥン――」
地鳴りのような重圧が、大気を押し潰す。
次の瞬間、背後に冷たい殺気が突き立ち、サタンの動きが思わず止まった。
「その手を……どけろ」
振り向くと、そこに立っていたのは漆黒の鎧をまとった一体の魔人だった。
目の奥には、底の知れぬ憤怒と、すべてを射抜くような意志が宿っている。
その気配は剣よりも鋭く、灼けるような殺意が肌を焼いた。
その瞳が、世界を支配していた。
足を一歩踏み出しただけで、大地が鳴る。歩みに重なるたび、周囲の光すら震えて揺らめいた。
ただ、そこに存在しているだけで、すべての優劣が決していた。
サタンは、剣を握り締める力すら忘れていた。冷や汗が頬を伝う。
魔力量が違いすぎる。
自身の警戒心が、全力でそう叫んでいた。
「貴様が、こいつをここまで追い詰めたか」
低く、怒りを押し殺した声が響く。
その一歩ごとに、周囲の空間が軋んだ。足元の地面がひび割れ、空気すらも漆黒の魔人の魔力に沈黙する。
サタンは思わず、その魔人から距離を取った。
「お前は誰だ?」
「ベルゼブブ」
聞かずとも、答えは知っていた。
やはりか。
この圧倒的なプレッシャー。
上位魔人か、それ以上の存在感。
以前見かけたアバドンをも上回る威圧感だった。
(おい、サタン。何をしている。奴を倒すぞ)
勘弁してくれ。
この圧倒的な格上の魔人に攻撃した途端、返り討ちに遭うのは目に見えている。
(お主がやらんのなら、我がやろう)
(え!?)
「ブラッド・バンド《血の拘束》」
サタンの腹部から流れる血が鎖の形へと変化し、漆黒の魔人の体に巻き付き、その身を拘束する。
先ほどの女魔人の技の応用だろう。
「ブラッド・シャドウフレア」
さらに、魔人に巻き付いた血が魔力へと変化した。
血の魔力が一斉に臨界点へ達し、爆ぜる。
轟音とともに放たれたのは、圧縮された衝撃波と灼熱の奔流。強烈な爆発だった。
空気そのものが叩き潰され、地面は波紋のように割れる。
「私の技が……」
一目見ただけで、自分の技がコピーされたことにノワは驚愕した。
ただのコピーではない。
明らかに改良されている。
爆発と熱により、ベルゼブブの周囲は煙に覆われ、見えなくなった。
「ベルゼ様!!」
「問題ない」
煙の中から、ベルゼブブが歩き出てくる。
何事もなかったかのような足取りだった。
「灰雷」
サタンは先ほどの一撃を、ベルゼブブに向かって放つ。
灰色と紫が混ざり合う稲妻が、天を裂くように走った。
神の加護と魔の呪詛。
相反する二つの力を無理やり掛け合わせた禁忌の灰色雷。
その奔流は、あらゆる存在を塵に変えるはずだった。
だが、ベルゼブブはその瞬間、わずかに眉を動かしただけだった。
轟音が世界を揺るがす中、彼の前に広がったのは歪んだ光壁。
灰雷は確かに直撃した。
にもかかわらず、その一撃は彼の掌の前で掻き消える。
残ったのは、大きく抉れ焦げついた大地と、微笑を浮かべたベルゼブブだけだった。
「魔力と神力の融合技か。悪くない。……だが、魔力も神力も、まだ量が少ないな」
ベルゼブブは構える。
(来る!)
「見せてやろう。これが魔力の真髄だ」
ベルゼブブの胸元に、王紋のような魔法陣が刻まれる。
その中心で、光が生まれた。
だが、それは白ではない。
暗紅色に染まった破壊の光だった。
「我が名に応え、滅びの理を示せ――王級魔法」
「グラン・レイ・アポカリプス《王滅破壊光線》」
詠唱が終わった刹那、世界が一拍、沈黙する。
次の瞬間、ベルゼブブの正面から、王の裁きを思わせる破壊光線が放たれた。
それは単なる光ではない。
衝撃、熱、魔力。
そのすべてが完全に圧縮された一本の終焉だった。
空気は悲鳴を上げて引き裂かれ、地面は光線の進路に沿って消失していく。
轟音ではない。
それは、世界そのものが砕ける音だった。
衝撃波は遅れて到達し、半径数百メートルの大地がめくれ上がる。
地面は波打ち、巨木は根こそぎ宙を舞い、敵も味方もまとめて吹き飛ばされた。
熱波に触れた瞬間、内側から焼き切られる。
直撃を受けた者は、肉体が弾ける前に影だけを残して消失した。
サタンとルシファーは、限界まで魔力と神力を練り上げ、結界魔法を生み出す。
幾重にも重なった巨大結界が展開された。
半透明の膜が幾層にも折り重なり、神代文字と魔界文字が入り混じった防御陣が空中に浮かび上がる。
結界の内側では魔力が奔流となって渦を巻き、まるで世界そのものが盾を構えたかのようだった。
破壊光線が、真正面から結界に衝突する。
二つの魔力が触れ合った瞬間、光と闇が押し潰し合い、爆発的な閃光が炸裂した。
結界は悲鳴を上げるように振動し、表面に無数の亀裂状の魔力ひびが走る。
魔法陣が次々と焼き切られ、一層、また一層と結界が剥がれ落ちていく。
結界内の術者が歯を食いしばるのが、遠目にもはっきりと分かった。
クソッ。
ダメか……。
バリン、と世界が割れる音が響いた。
結界は粉々に砕け、魔力の破片が光の雨となって四散する。
破壊光線は勢いを失うことなく、なおも前進しようとしていた。
もはや防ぐものはない。
そう思われた、その時――。
空が、裂けた。
結界の残骸が消えきる前、横合いから漆黒の雷柱が突き刺さる。
雷は黒く、太く、雷鳴すら遅れて響くほどの速度だった。
それはただの雷ではない。
雷神インドラの権能を宿した黒雷。
その黒雷が、グラン・レイ・アポカリプスの側面へ斜めから叩きつけられた。
インドラの黒雷と、ベルゼブブの破壊光線。
二つの力が混ざり合い、やがて互いを喰らい尽くすように消滅する。
ギャオオオ!!
インドラの咆哮が響いた。
ベルゼブブの足が止まる。
「インドラが復活していたか……。今日のところは引こう」
ベルゼブブは空間を断ち切るかのように手を伸ばし、膝をついたノワを抱き上げた。
「ここで戦うには、まだ早すぎる」
闇が渦巻き、ベルゼブブの足元に黒い円が開く。
その中に身を沈める直前、彼は一度だけ振り返った。
「覚えておけ。次に会う時、お前は地を這うことになる」
その言葉とともに、影は風のように消えた。




