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51 魔界晩餐、神力の一滴

「サタン様、お帰りなさい! まあ、ヨルカ! この短時間でどうしてそんなにボロボロになったの!?」

「おばあ様、ただいま。私は少し部屋で休ませてもらいます」

「ヨルカ、俺の部屋に打撲と擦過傷によく効く薬があるから、あとで持っていかせよう」

「ありがとうございます、サタン様」


おぼつかない足取りで自室に向かうヨルカを一行を不安げに見送った。

イルカは、ヨルカの傷を見て眉をひそめた。


「いったい何があったのですか? ナマズ狩りでできた怪我ではないでしょう?」


問いかけに、サタンは小さく息を吐いて答える。


「ああ、その通りだ。あの怪我は、天使との戦闘でできたものだ」


「天使!? この地に来たのですか?」


イルカの声が、明らかに強張った。


それまで黙って聞いていたゾイルも、腕を組んだまま険しい顔になる。


「何かの調査に来ていたみたいだぞ。俺を見かけた途端、急に襲いかかってきたけどな」


サタンがそう言うと、ゾイルはわずかに目を細めた。


「いったい何の調査か、心当たりはあるか?」


「考えられるのは、一つ目、サタン様の中にいるルシファー様の生存確認」


イルカは指を一本立て、静かに続けた。


「二つ目、インドラ様復活の兆候を感じ取った。三つ目、この地に眠る聖遺跡の調査、あるいは回収。四つ目、新たな魔王候補の調査、といったところでしょうか」


サタンは先ほどの天使たちの反応を思い返し、首を横に振る。


「あいつらの反応からして、一つ目と二つ目はなさそうだな。聖遺跡って、ここは魔界なのに、そんなものがあるのか?」


「はい」


イルカは神妙な面持ちでうなずいた。


「三百年前の大戦時、魔王様が魔界から天界の建物をいくつか撃ち落としたことがありました」


(ああ、そういえばそういうこともあったな。あの時は驚いた。まさか、あんな芸当が可能だとはな)

ルシファーが脳内で話しかける。


(その建物は、どんな建物だったんだ?)

(確か、宝物庫と神殿だったな。貴重な武具や聖具が、この地に落ちたと聞いたぞ)


「インドラに聞いてみるか。話はここまでにして、食事にしよう」

何がともあれ、腹が減っていては考えもまとまらない。


「承知しました。すぐにお持ちします。インドラ様のもとへ移動をお願いします」

サタンたちが足を踏み入れた広間には、すでに無数の燭台が並んでいた。

赤黒い炎がゆらゆらと揺れ、夜にも似た深紅の光が壁に染み込んでいる。

正面に設けられた饗宴の席。


それは一見すれば王族の晩餐のようにも見えたが、よく見れば、奇妙な料理ばかりが所狭しと並べられていた。


インドラの前には、巨大なトカゲの丸焼きが置かれている。


「待っておったぞ。何やらトラブルに巻き込まれたようだが、今は食事を楽しむことにしよう」


インドラの口の端から、よだれがあふれ落ちる。


「もう我慢できぬ。食べようぞ!」

サタンが席に着いた途端、インドラが食事の開宴を宣言した。


「いただきます!!!」


オオトカゲの身は、黒緑色の分厚い皮の下に脂をたっぷりと湛えていた。

ナイフが触れると、まるで熟れた果実のように裂ける。

肉の下には、赤ワインのような濃いタレが染み込んでいた。


サタンは一口食べる。


ねっとりとした甘みと、獣臭さが混じった独特の風味が口の中に広がった。


「……うん。悪くは……ない」

悪くはない。


だが、旨いかと言われると、少し違う。

サタンはちらりとインドラのほうを見る。


すると、料理を一口食べたインドラは、とんでもない勢いでオオトカゲの丸焼きを食していた。

一心不乱とは、まさにこのことだろう。

(うまい! うまい! うますぎる!)


インドラの思念が、大音量で飛んでくる。

イルカの料理と聞いて期待していたのだが、これはインドラ用の食事だったらしい。


だとすると、あの魔海トカゲの料理もそうなのだろう。


俺はその料理には手をつけず、インドラに譲ることにした。


「サタン様には、こちらがおすすめです」


俺が何を食べるか迷っていると、イルカが血のように赤い液体の入ったグラスを差し出してくれた。

「これは?」

「まずはサタン様、念願のお酒でございます。ピジョンブラッド・ワインと申しまして、魔鳥が世話をしているブドウの中でも最高品質のものを使い、熟成させて仕上げたものでございます」


「……いま、こっそり拝借って言いかけなかったか?」


「お気になさらず」


サタンは喉を鳴らした。


この旅の第一目標が、目の前にある。


グラスを丁寧に受け取り、まずは香りを楽しむ。


熟れすぎたベリーの甘さ。

森の湿った土の香り。

バニラのような芳醇な香り。

幾層にも重なった複雑な香りが、鼻腔を満たしていく。


色は名の通り、生き血のように鮮やかで、深い赤だった。


そっと唇を濡らすように、口に含む。

その瞬間、時が止まった。


先ほどまで口の中に残っていたトカゲの味が、一気に洗い流される。

舌に触れた液体は、まるでベルベットのようになめらかだった。

ひと雫すら乱れのない調和を持って、喉へと流れ込んでくる。

最初に広がるのは、完熟したカシスとブラックチェリーの濃厚な甘み。

だが、それは決して重くない。


次第に、スパイスのような華やかさと、焙煎した樽の香りが広がっていく。

喉元に届くころには、まるで記憶の底にしまい込まれていた“懐かしさ”のような余韻が、心の内側を温めていた。


飲み込んだあと、わずかに遅れてやってきたタンニンの苦みが、名残惜しげに舌をなぞる。


そして、ふと気がつくと、自分が涙を流していることに気づいた。

それは、単なる美味という言葉では括れない。


生きていてよかったと思わせる、魂が震えるほどの深い歓びの一滴だった。

(なんと素晴らしい……)


俺が感想を言う前に、ルシファーが声を漏らしていた。


(お前が魔界の飲食物を褒めるなんて珍しいな)


(実は、ワインは天界にもあってな。特徴は違えど、これは天界で飲まれるワインにも匹敵する出来だ! それに……)

(それに?)


(いや、食事が終わってから言うことにしよう。さあ、サタン。今は食事を楽しもう


食卓に並べられた品々は、どれも素晴らしかった。


まずは、冥蛇の黒蜜煮。

黒曜石のような光沢を放つ漆黒の鱗を持つ巨大蛇を、長時間煮込んで作る、とろみのある甘辛煮だ。

甘く華やかな香りを持つ冥界花の蜜が使われており、料理からは強い芳香が漂っている。

一切れ口に運ぶと、身はとろけるように柔らかい。

濃厚な黒蜜の甘みの中に、わずかに舌を刺激する薬草の苦みがある。

その複雑な味の調和が、口内でゆっくりとほどけていった。


次に、バジリスク火酒漬け。

盃に沈められた心臓は薄紅に染まり、酒の香りをまとっていた。


バジリスクの心臓を抜き取り、紅蓮酒で数十年漬け込んだものらしい。

つい最近まで動いていた心臓は、生命力の象徴だ。


一口かじると、プツリと繊維が弾ける。


中から、血と酒が混ざり合った芳醇な液があふれ出した。

熱を帯びた余韻が、喉の奥に残る。


アルコールの影響もあって、俺は愉快な気分になってきた。

どこか危うい快楽。

まるで禁忌を口にしているかのような、背徳の味だった。


続いて、百年魔鹿の骨髄焼き。

百年生きた魔界の鹿から取れる巨大な骨を割り、中の髄を香辛料とともに炙った逸品だ。


目の前で骨ごと燃やして仕上げる演出つきで、炎に炙られた骨の縁には、わずかに焦げた痕が残っている。

そこから、さらに香ばしい匂いが立ち上っていた。


骨の中央が割られ、その内側に露わとなった髄は、溶け出しそうなほど柔らかい。

黄金色の油膜が、ゆらゆらと揺れている。


添えられた銀のスプーンで髄をすくい上げると、それはまるで凝縮された命そのものだった。

ねっとりとした滑らかさ。

滴る脂。

口に含めば、まず舌に重く乗るような旨味の奔流が押し寄せる。


それが次第に体温でとろけ、肉の深部から湧き出たような甘さとコクが、喉の奥へ染みていった。


さらに、虚海貝の冷製蒸し。

魔界の深海に住む、幻の巨大貝である。


魔海の香りとともに、柑橘と薬草の清涼感が舌を撫でた。

透明な身を食べると、視界が一時的に“歪む”幻覚効果もある。


これは旨いというより、アルコールと幻覚作用がもたらす不思議な感覚を楽しむ、体験型の食事だった。

生きている貝もいたので、魂も喰らっておく。


最後に、奈落蜜の凍てプリン。

奈落に咲く唯一の花、奈落蓮から取れる甘い蜜で作られた、ほろ苦く冷たいデザートだ。

上には、魔界産の黒イチジクのソースがかかっている。

匙を入れると、ぷるりと震えて割れ、中から濃密なカラメルがあふれ出した。

舌にのせれば、卵と乳のまろやかさが広がる。


そこへ、黒イチジクソースの苦みが追いかけるように流れ込んできた。

甘さ。

苦さ。

そして余韻。


そのすべてが、まるで夢の続きを見せるようだった。


それは、五感のすべてを占領される饗宴だった。


食べるほどに、現実から遠ざかっていく。

まるでこの世のものではない、美しすぎるほどの味の世界。


いや、魔界の料理なのだから、この世のものではないのかもしれない。


「……イルカよ。今回も素晴らしい食事だったぞ」

俺は恍惚とした表情で感想を述べる。


インドラも満足そうな顔をしていた。


きっと、イルカとヨルカの作る食事を気に入ったに違いない。

さてさて。

今回も魔力は上がったかな?


(その件だが、今回、魔力はもちろんだが……あのワインのおかげで、神力も手に入れたようだ)


俺は思わず、空になったグラスを見つめた。

赤い雫が、まだ底にわずかに残っている。

その輝きはまるで、天界から盗み落とされた星の血のようだった。

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