52 インドラの進化
神力の獲得。
それが魔界に住む者にとって、どれほど得難いものか。
今さら言うまでもない。
俺は思わず声を弾ませた。
(我としても喜ばしいぞ。実は、我の中に残っていた神力も、もうわずかだったのだ。我の力を取り戻すためにも、これから酒を飲み続けねばならんな)
ルシファーの声も、どこか楽しげだった。
(これで、まともに天使たちと戦えそうだな)
(しかし、ヨルカの説明では、あのワインの原料はここでは採れないものなのだろう。安定供給のためにも、どうにかせねばならんな)
たしかに、それは大きな問題だった。
いくら神力が得られるとはいえ、二度と飲めなければ意味がない。
このワインはインドラの保管庫にあった物だ。
残り何本あるか気になるが、それに加え、製造ルートも確保しなければならない。
「タマキン。このワインの原料を調達した者を呼んでくれ。その者には……ゲキマタタビを用意しよう」
そう伝えた瞬間だった。
秒で、一匹のタマ族が飛んできた。
白猫が恭しく一礼する。
そして、その隣には灰猫のタマゴロウの姿も見えた。
多分だけど、こいつは違うな。
ゲキマタタビ狂いめ。
「私は、ムギタマと申しますニャ。これは、はるか北の涼しい山岳地帯にあるクシャナ山脈。その麓にある、魔鳥が働くブドウ農園のブドウを原料としておりますニャ」
クシャナ山脈か。
この森を抜け、さらに広大な草原地帯を抜けた先にあると聞いたことがある。
「魔鳥が育てるブドウか。その農園もそうだが、草原地帯を制圧せねば、安定的な交易はできないな」
俺は少し考え込む。
「このワインの原料は、ただの葡萄ではない」
食事を堪能してリラックスしていたインドラが、思いだしたかのようにサタンに魔界の事情を教授する。
杯の底に残った赤い雫を見つめながら、静かに言った。
「雷虎の縄張りに近い断崖に、葡萄棚がある。そこに実る葡萄は、魔界の魔力で育ったものではない」
「魔力だけじゃない?」
「ああ。昔、その断崖に多数の天使が墜ちた。天魔大戦の時だ。その天使の血が土に染み込み、根を張った葡萄が、今も微かな神力を吸い上げているのだ」
俺は杯を見下ろした。
たしかに、喉の奥に残る熱は、魔力のそれとは違う。
体の奥底で、白い火がゆっくり灯るような感覚がある。
「だが、神力を含むなら、魔界の者にとっては毒だろう」
イルカは小さくうなずく。
「その通りです。もしそのブドウを生のまま口にすれば、神力と瘴気が体内で反発し、命を落とすこともあるそうです。ですが、魔鳥たちが世話をし、長い年月をかけて発酵させることで、その反発が和らぐのは無いかと言われています」
「魔鳥が?」
「ええ。あの魔鳥たちは、かつて天界の聖鳥だったものの末裔だと聞きます。堕ちて魔界に馴染みながらも、その羽と唾液には、神力を鎮める力が残っているのだとか」
ルシファーが、俺の内側で愉快そうに笑った。
「なるほどな。魔界の瘴気。堕天の血。聖鳥の名残。そして発酵。」
「じゃあ、この酒を飲めば、誰でも神力を得られるのか?」
俺がそう尋ねると、イルカは首を横に振った。
「いいえ。普通の魔族なら、器が耐えられません。神力は、魔力とは根本から違う力です。体に馴染まなければ、内側から焼かれます」
その言葉に、俺はもう一度、杯の底を見た。
俺が飲めたのは、俺の中にルシファーがいるから。
あるいは、俺自身がすでに、ただの魔人ではないから。
「つまり、俺にとっては薬で、他の魔族にとっては毒か」
「……そういうことになります」
考えるべきことが、また一つ増えた。
「お話の途中、失礼します」
そこへ、厨房を手伝っていたタマ族が大皿を数人で抱えてきた。
「エレキギガナマズの調理が終わったようです。インドラ様、どうぞお召し上がりください」
「いつの間に!?」
イルカが途中途中で退席しているのは見ていたが、まさかもう調理が終わっているとは。
トカゲ料理に満足し、横になっていたインドラの体が、再び勢いよく起き上がる。
料理を待ち構えるその姿は、完全に腹を空かせた竜そのものだった。
「エレキギガナマズの白焼きと蒲焼き、二種類をご用意しました」
運ばれてきた白焼きは、炭の上でじっくりと炙られていた。
皮目はきつね色に香ばしく焼け、ほんのりと脂が浮かんでいる。
ひと口、口に含む。
外はカリッと焼き上がっているのに、中はふっくらと柔らかい。
舌の上で、ほろりとほどけていく。
塩とわさび。
それに、ほんの少しの柚子。
それだけで、淡泊ながら奥深い旨味が一気に花開いた。
そして、発電器官がわずかに残っているのか、喉を通る瞬間、ぴりりとした刺激が走る。
脂と爽快感のバランスが、ちょうどよい。
脂は鰻ほど濃厚ではない。
だが、逆にそれが、野趣と上品さを見事に両立させていた。
続いて、蒲焼き。
マガマガ醤油と味醂を煮詰めた甘辛いタレが、厚めに切られたナマズの身に何度も塗られている。
炭火の熱を受けた身は、照りと香ばしさをまとっていた。
箸で裂くと、表面のぱりっと焼けた層の下から、ほかほかと白い身が姿を現す。
一口噛めば、芳醇なタレと炭の香りが同時に広がった。
白焼きと比べると、蒲焼きはより濃厚だ。
脂の甘みとタレの塩気が、舌の上で踊る。
黒米が欲しくなる味だった。
まるで川の恵みが、炭火と人の手によって変幻し、一つの芸術となったかのようだった。
食べ終えたあと、口に残るのは、川と火と醤の記憶。
静かな満足感と、もう一口だけ、と箸を伸ばしたくなる名残惜しさが、舌の奥に残っていた。
インドラの様子を見る。
インドラ用に用意された巨大な白焼きと蒲焼きを、満足そうに完食していた。
だが、その直後。
インドラの体表から、紫電が走り始める。
「!? やばい!!」
俺は反射的に声を上げた。
「タマ族以外の者は退出しろ。いや、一応、全員出るんだ!」
「?」
周囲の者たちは、まだ事態を飲み込めていない。
「いいから! 早く!!」
俺は状況を把握していない者たちを、慌てて部屋の外へ押し出した。
ちょうど部屋の扉を閉めた、その瞬間。
インドラの体が、眩い光を放ち始めた。
次の瞬間、インドラの体から凄まじい雷撃が部屋中に放たれる。
――バリバリッ。
――ゴゴゴゴゴ。
雷が空気を切り裂いた。
まるで目の前に巨大な落雷が落ちたかのような、すさまじい振動が砦中に響き渡る。
部屋の調度品は砕け、燃え、黒焦げになっていく。
インドラは大きな声で咆哮した。
俺は思わず、両手で耳を塞ぐ。
(これは凄まじいな。雷耐性はあるが……サタン、物陰に隠れろ。バリアを張り、さらに魔力で防御しておけ)
ルシファーの声にも、珍しく緊張が混じっていた。
俺は言われるがまま、防御魔法を展開し、さらに魔力で体を覆う。
そして、分厚い机を横倒しにして、その後ろに隠れた。
――グギャーオ!!
さらに一鳴きしたかと思うと、なんとインドラの口から、極大の黒い雷が放たれた。
黒き雷は、俺の隠れていた机を突き破る。
防御魔法を突き破る。
部屋の壁を突き破る。
そして、そのまま基地の外へと放たれた。
部屋には大穴が開いていた。
黒き雷は森の木々までも焼き尽くし、まるで一本の道のような焦げ跡を作っている。
直撃はしていない。
だが、それでも俺のまとっていた魔力は、跡形もなく霧散していた。
まるで、神力による攻撃を受けたかのように。
(相変わらず凄まじいな。……ただの魔力による防御は、役に立たぬか)
ルシファーも、珍しく驚いているようだった。
(今の攻撃って、神力か? バリアが粉々になったぞ)
(それだけではない。神力、魔力、自然力の複合攻撃だな。もし今のブレスが当たっていたら、我らは消滅していた)
(またまた、ルシファーさん。ご冗談を)
(冗談ではない。百パーセント死んでいた)
ルシファーの声は、真面目そのものだった。
(……嘘だろ)
(当たらなくてよかったな)
俺は今さらながら、竜という存在のとんでもない強さを実感する。
(てか、俺たち雷耐性を持っているよな?)
(あくまでも耐性であって、無効ではない。攻撃に神力が含まれていたのを見ただろう? それに自然力まで操られたら、今の我らには防ぎようもない)
(神力も操るなんてな)
(竜は、元は天界の生き物だからな)
(!??)
(ああ、言っていなかったか)
ルシファーは、何でもないことのように続けた。
(竜とは、神が我ら天使を生む前に作った神の使いなのだ。ある意味、我と同じく堕天した存在ともいえる)
(聞いてねえええ)
(まあ、我が生まれる前の話だから、詳しいことは知らん。インドラはともかく、竜という種は我が強く、あまりにも欲深い。ゆえに魔界に追放された、とのことだ)
また大事なことを、さらっと言いやがった。
この調子では、まだまだルシファーに聞いておかなければならないことが、山ほどありそうだ。
だが、今はそれよりも。
インドラは大丈夫だろうか。
俺は机の端から、恐る恐るインドラの様子をうかがった。
インドラから放たれていた雷は、徐々に収まっていく。
激しく明滅していた部屋も、だんだんと元の明るさを取り戻していった。
そして、俺は目を見開く。
インドラのサイズが、また大きくなっていた。
先ほどまで二メートルほどだったはずの体が、今では四メートルほどの巨体に変貌している。
さらに、立派な角も生えていた。
鱗の厚みも、明らかに増している。
とはいえ、インドラに騎乗するには、まだ少し大きさが足りない気もする。
「おい、インドラ! 正気に戻ったか?」
(サタンか。ああ、ワレは正常だ)
心なしか、今までより意思疎通がスムーズになっている。
「砦内であまり暴れるなよ。さっきのブレス、当たっていたら一瞬で消し炭になるところだったからな」
(魔力感知で、タマ族とワ族がどこにいるかは把握していた)
なるほど。
一応、冷静ではあったらしい。
(ほかの者たちを入室させてよいぞ)
「今度こうなる時は、自分で言ってくれよな」
俺は廊下で待っていたタマ族とワ族を、部屋へ入れた。
めちゃくちゃになった部屋を元に戻すのに時間がかかったのは、言うまでもない。




