37 夜の森と雷の卵を狙う盗賊たちの包囲
森の中を、二人は黙って歩いていた。
静まり返った森には、二人分の足音だけがかすかに響いている。
だが、その姿はどこにも見えない。
透明化したままの二人は、夜の森をひそやかに進んでいた。
ルシファーは、自然の中に身を置くこの感覚に、奇妙な心地よさを覚えていた。
自由――。
天界で暮らしていた頃には、決して味わえなかった感覚だ。
ルシファーは、ふと天界での日々を思い返す。
神に仕える身として。
また、下級天使たちの模範たる者として。
品行方正に、謹厳実直に、ひたすら務めを果たしてきた。
だが、三百年前の大戦の後――魔王を討ち滅ぼしたのち、神は突如として姿を消された。
われらに、一言も告げぬまま。
動揺はあった。
だがそれでも、神を信じ、与えられていた役目を果たし続けた。
しばらくの間は、何事も起きなかった。
平穏だった。
だが、淡々と職務をこなすだけの日々が、二百九十九年も続くうちに、我の中で何かが変質していった。
純真だったはずの心に芽生えたのは――傲慢。
神なき天界に、我より優れた者はいなかった。
同格と呼べる者はいても、それらは感情を持たぬ機械のように無機質な存在ばかりだった。
やがて我は、ほかの誰よりも優れていると、そう思い込むようになった。
ならば――。
われが神の代わりに、救う者となろう。
それで救える者がいるのなら。
それは偽善だったのかもしれない。
神に成り替わろうなど、おこがましい話だったのかもしれない。
だが、疫病は流行し、略奪は横行し、地上には悲しみが満ちていた。
この状況を、ただ見過ごすことなどできなかった。
「……んな……旦那?」
ジュウベイの呼びかけに、ルシファーはふっと我に返る。
どうやら、そろそろサタンが目を覚ましそうだ。
ルシファーは意識を引き、サタンと入れ替わった。
「ん……? ここはどこだ?」
「ん? 旦那、どうしたんだ? いったい……?」
ジュウベイが不安げな声で問いかけてくる。
インビジブル――透明化の能力のせいで姿は見えていないが、先ほどから話しかけても返事がなかった。
置いていかれたのかと思っていたらしい。
だが、足音と、いまのサタンのひと言で、そこにいることだけは確認できた。
しかしそのひと言は、別の意味でジュウベイを不安にさせたようだった。
「その声は、たしか里の鍛冶職人のジュウベイ……さん、だったっけ? どうしてここにいるんだ? というか、なんで姿が見えないんだ?」
ジュウベイは完全に状況が飲み込めていない。
そこへ、ルシファーが頭の中から助け舟を出した。
(やっと起きたか。順を追って説明すると、そなたは毒豚の料理を食べて意識を失った。仕方なく我がそなたの体を動かしていたのだが、困ったことにホクサイたちが、我に怒って攻撃してきたのだ。そこで我は、やむなくホクサイたちを軽く無力化した。その後、武器を受け取りにジュウベイのところへ向かったのだが、黒子のやつがジュウベイを巻き込んで我を倒そうとしてきた。ゆえに軽くひねってジュウベイを救出し、今はワ族の村へ向かっているところだ)
長々と聞かされたが――何を言ってるんだ、こいつ?
(ん? ツッコミどころが山ほどあるんだが、まずなんでホクサイがお前に怒ったんだ?)
(さあな?)
もう突っ込む気すら少し失せた。
(ところで、ゾイルとヨルカは?)
(うむ……そこなのだが、あの者たちは我がサタンの中にいたことに衝撃を受けてしまってな。今後も旅についてくるかどうか、正直わからぬ)
(おいおい、一大事じゃないか。どうするんだ!?)
ゾイルもヨルカも、大事な仲間だ。
サタンはすぐにでも里へ戻って説得しようと思った。
だが、その考えをルシファーが止める。
(あの者たちには、頭を整理する時間が必要だ。今はそっとしておけ)
(……そうか)
たしかに、俺の中にルシファーという別人格がいて、しかもそいつが天界の元天使だと知れば、すぐには飲み込めないだろう。
(で、ジュウベイさんは、これからずっとついてくるのか?)
(ああ。この者の鍛冶の腕はかなりのものだ。仲間にしたい)
(まあ、お前がそう言うなら、俺に異論はないさ)
(感謝する)
サタンはそこでルシファーとの意識の会話を終え、ジュウベイへ向き直った。
「旦那、大丈夫ですかい?」
「おお、すまん。ちょっとめまいがしただけだ」
「それならいいんだが……何か変なこと口にしてなかったか? まるで記憶を失ったみたいだったぞ」
うん。まあ、その通りなんだけど。
「めまいがした時に、一瞬意識が混濁したんだ。今は元通りだから、気にしないでくれ」
「そうかい。なら、これ以上は聞かねえさ」
ジュウベイも納得したわけではなさそうだったが、とりあえず今は保留にしてくれたらしい。
「ところで旦那、移動魔法は使えねえので?」
「移動魔法……なにそれ?」
「ってことは、使えねえんだな……」
ジュウベイの声が、あからさまに残念そうになる。
よほど歩く旅が苦手らしい。
ジュウベイの話によると、移動魔法とは、一度行った場所の座標を登録しておけば、魔法でひとっ飛びできるという、とんでもなく便利な術らしい。
ただし、扱える魔人はごく一握り。
特に魔法に秀でた者でなければ扱えず、下位魔人程度では到底使えぬ高等魔法とのことだった。
ジュウベイは俺のことを何だと思ってるんだ。
そんな大層な魔法、使えるわけないだろう。
……ですよね? ルシファーさん?
(できるかできぬかで言えば、可能だ)
なんと、いつの間にやらルシファーはそんな便利魔法まで習得していたらしい。
すごすぎるだろ、こいつ。
……いや、それは口に出さないでおこう。
しかし、それならなぜ里から直接、移動魔法で飛ばなかったのだろう?
(それはな。まず第一に、移送魔法は魔力の消費が激しい。第二に、ワ族の村の座標を登録していなかったのが原因だ)
なるほど。
登録していなければ、そもそも発動条件を満たさないわけだ。
……このことはジュウベイには黙っておこう。
知らなくていいこともある。
決して、「なんで登録しておかなかったんだ?」と聞かれたくないからではない。
その時はまだ、ルシファーも習得していなかったのだから仕方ないのだ。
「そういや、魔界じゃ強い奴がそのまま王になるもんなのか?」
サタンが森を歩きながら、何気なく口にした。
「まあ、だいたいはそうだな」
ジュウベイは鼻を鳴らす。
「だが、ただ力が強いだけじゃ駄目だ。魔人どもは気まぐれだし、弱みを見せりゃすぐ離れる。配下を従えたいなら、恐れられるだけじゃなく、利も見せねえといけねえ」
「面倒な話だな」
「面倒だとも。だからこそ、魔王なんてもんは簡単には生まれねえ」
ジュウベイは肩をすくめた。
「強いだけの馬鹿は、どこかで足元をすくわれる。賢いだけの腰抜けは、そもそも誰もついていかねえ」
「なるほどな。じゃあ今の魔界は、そんな半端者ばかりってことか?」
「半端者か、化け物か、どっちかだな」
ジュウベイは苦笑する。
「ベルゼブブみてえに王を気取ってるやつもいりゃ、誰の下にもつかず好きに暴れてるのもいる」
「好きに暴れてる方が厄介そうだ」
「そりゃそうだ。縄張りも理屈も通じねえからな」
ジュウベイはちらりと闇の奥を見る。
「特に、この魔界じゃ“触れたら終わり”って連中が何体かいる」
「例えば?」
「例えば、古い名のある魔獣。土地そのものを喰って育った化け物」
雷虎が頭によぎる。
ジュウベイは少し間を置いた。
「ドラゴンだ。もっとも、あいつらに喧嘩を売るやつなんてそうそういねえから、正確なことは知りようもねえが」
「なるほど。やはりドラゴンは特別な存在なんだな」
「ああ。今、この魔界で魔王が不在のまま覇を唱えてるのは、実質ドラゴンたちだな」
ジュウベイは森の闇へ視線を向けた。
「ただ、その数は魔界全体でも常に十体しか存在しねえとも言われてる」
「絶対に十体以上にはならないのか?」
「ああ。というのも、ドラゴンは生殖活動を行わず、死とともに生まれ変わるからだ」
なるほど。
それなら増えも減りもしないわけだ。
「生まれ変わる時は卵になって、また幼竜から生をやり直すって話だ」
「やけに詳しいな」
「ああ。この辺りにも昔、強大なドラゴンがいたって伝承が残ってるんだ」
「どんなドラゴンだったんだ?」
「雷を司る竜だったらしい。名を、雷帝インドラという」
ジュウベイの声音に、わずかな畏れが混じる。
「その体からは常に雷がほとばしり、この地に雷の雨を降らせたという。卵すら雷を纏うらしく、竜を孵化させて自分のものにしようとした愚か者どもは、その雷に焼かれて死ぬとも言われてる」
「卵にまで雷が纏ってるとなると、触ることすらできなさそうだな。きっと目の前の二足歩行のネコが抱えているみたいに、紫電を纏った卵を平然と持つことなんて――」
……ん?
「え?」
俺たちの前に現れたのは、紫電を放つ卵を抱えたネコだった。
白い毛並みの二足歩行のネコが、なぜか大事そうに卵を抱えている。
しかも、その卵の特徴は、今まさに話していたものとぴたり一致していた。
というか――そんな強力そうな電撃を放つ卵を、なぜ平然と抱えていられるんだ?
「にゃんだ!? 誰かいるのかにゃ!?」
透明化した俺たちの姿は見えていないはずだ。
それでも、気配だけは感じ取ったらしい。
その時だった。
俺たちとそのネコを囲むように、盗賊たちが次々と姿を現した。




