36 闇に溶け、里を抜ける二人
ルシファーとジュウベイは手早く荷をまとめ、里をあとにした。
ジュウベイが持ち出したのは、金槌と砥石、裁縫道具、皮類、それにミスリル鉱石のみ。
それ以外のものは、すべてこの里に置いていくらしい。
「他の物はいらないのか?」
ルシファーが足早に歩きながら尋ねると、ジュウベイは肩をすくめて笑った。
「超一流の鍛冶職人はな、道具が多少足りなくても、立派な武具を作れるもんだ」
そんなものか、とルシファーは聞き流す。
だが、しっかりとパスカルレオンの皮だけは持ち出していた。
いつ追手が来るかわからない状況だ。
今は、とにかく逃げるに限る。
ルシファーとて、いつまでも加減できるとは限らない。
うっかり誰かを殺してしまえば禍根が残るし、ゾイルのことを思えば、無駄な殺生はできるだけ避けたほうが賢明だった。
ルシファーは歩きながらジュウベイの腕をつかみ、透明化の能力を発動させた。
無事、ジュウベイの身体も透明になっていく。
初めての試みだったが、どうやらうまくいったらしい。
「これはすげえ……俺の姿が見えねえ」
ジュウベイは思わず興奮した声を上げた。
自分の手を目の前にかざしてみる。
そこにあるはずの手は透け、背景だけが揺らめいて見える。
自分が透明になるという感覚は、まるで幽霊か何かになったようで、妙に落ち着かない。
パスカルレオンの皮マントは、まだ完全な加工が終わっていない。
それを使わずに透明化できるという事実に、ジュウベイは内心舌を巻いていた。
「パスカルレオンの皮を使わずに、インビジブルの魔法を使えるとは……」
やはり、このサタンはただ者ではない。
ジュウベイはあらためてそう思った。
「あまり騒ぐでない。声でばれてしまうぞ?」
「ハハ……こいつは失礼。あまりの出来事に、まだ頭が追いついてねえもんで」
「しかし、ゾイルたちはやはり来ぬか……」
ルシファーは、ぼそりとつぶやいた。
すぐに追いついてくるかと期待していた。
だが、もしかすると面倒ごとに巻き込まれているのかもしれない。
もっとも、ゾイルはあの里の者だ。
そうそう手荒な扱いは受けないだろう。
ヨルカとて抜けたところはあるが、実力はある。
逃げるだけなら、そう遅れは取るまい。
あとは、あの二人の気持ち次第だ。
来なければ、それはそれで仕方がない。
夜のとばりが、里を包んでいた。
終始薄暗い魔界にも、昼夜の概念はある。
正確な時計などなくとも、時間を告げる鳥がそこかしこに棲んでおり、鳴き声の変化でおおよその時刻がわかるのだ。
ほかにも、村の灯りがともっていれば昼、消えれば夜、といった単純な目安もある。
誰にも気づかれぬよう、二つの気配がひっそりと石畳の小道を滑っていく。
だが、そこには誰の目にも映らぬ“何か”があるだけだった。
「いったい、マタゾウの家で何があったんでい?」
ジュウベイが小声で尋ねる。
「あんた……姿だけじゃなく、気配まで変わってやがる」
慣れない敬語を使おうとしたせいか、言葉尻が妙に崩れている。
それを聞いて、ルシファーは少しおかしく思った。
敬ってくれるのは悪い気はしない。
だが、こいつの柄ではないとも思う。
「慣れぬ敬語など使わずともよいぞ?」
「そいつはありがてえ。じゃあ、いつものようにしゃべらせてもらう」
ジュウベイはマタゾウにすら、ほとんど敬語を使ったことがない。
見た目だけならずいぶん若い魔人に対して、急に丁寧な口をきくのはやはり難しかった。
ただ、本気で敬意は抱いている。
その一線だけは、きちんと弁えるつもりでいた。
「早い話が、急に変わったこの姿に、マタゾウとホクサイがびっくりしてな。ホクサイが斬りかかってきた、というわけだ」
「なんで、そんなにびっくりすることがあるんだ? 俺にはさっぱりわからねえな」
「われにもわからぬ。まあ、急なことで取り乱したのかもしれんな」
「そうでいすかい。ところで、マタゾウとホクサイはまだ生きてるんで?」
「ああ。怪我ひとつなく、ぴんぴんしている」
「なら、なんで黒子のやつはあんたを襲ったんだろうな」
「うむ。それは我にもわからぬ」
ルシファーは、わずかに目を細めた。
「あの者を、そなたは“カオナシ”と呼んでいたな。あれは何だ?」
「カオナシってのは蔑称でしてね。本当の種族名は、エンヴィー族。魔人の中でも最下層扱いされる連中でさ」
「最下層……弱小魔人の最下層、という意味か?」
「いや、そういうことじゃねえんです」
ジュウベイは首を振る。
「力はわりと強い。厄介なくらいにな。だが、三百年前の大戦で、魔王軍に属しながら、その時の魔王様を裏切った一族なんでさ」
「ほう……」
「旦那は知らねえのか? 魔人の間じゃ有名な話なんだが」
「あいにくな」
短いやり取りのあと、ジュウベイがまた問いかける。
「ところで、今からどこへ向かうんで?」
「とりあえず、ワ族の村だ」
「なるほど。そいつは悪くねえ」
二人は足を速める。
「門番は今、南を向いている。俺たちに気づくことはなさそうだな」
「ジュウベイよ。石畳の上を走っていることを忘れるでないぞ。この術は音までは消せぬからな」
「いや、ここだけの話、あの門番は少し前に病気をやってな。今は耳が悪いんだ。ちょっとやそっとの物音じゃ気づかねえさ」
「……いや、どうも門番だけではなさそうだな」
ルシファーは、魔力感知で門の近くに潜む気配を捉えていた。
家々の間を抜け、物干し竿に干された衣の下をすり抜けていく。
門の向こうから松明の火が揺れ、誰かがこちらへ向かってくる。
カオナシだ。
今は再び布で顔を覆っており、表情はうかがえない。
だが、全身から放たれる殺気が、それ以上に雄弁だった。
沈黙。
先ほど、こいつに命を奪われかけた記憶がよみがえる。
ジュウベイの心臓が激しく脈打ち、その音が今にも相手へ届いてしまいそうな気がした。
落ち着け。
落ち着け。
隣には、あいつを軽くあしらったサタンがいる。
大丈夫だ。
何とかなる。
門は、すぐ目の前にある。
だが、その前に立ちはだかるのは――この里でも指折りの戦士だった。
長身の男は片膝をつき、槍を肩にかけたまま、静かに目を閉じている。
息遣いひとつ乱れず、夜気の流れさえ読んでいるかのような気配だった。
こちらの透明化の術が少しでも揺らげば、即座に気づかれるだろう。
「……あれは、完全に気配を読んでる」
ジュウベイが囁く。
その声すら、空気の震えに紛れ込ませるように細い。
だが、もう戻る道はない。
息を殺し、二人は動いた。
地を這うように。
石畳の継ぎ目をなぞるように。
一歩、また一歩と、闇の中を滑っていく。
カオナシの周囲には、見えない“感知の網”が張られていた。
侵入者の気配をすくい上げるための、目に見えない糸。
常人なら、決して抜けられない。
だが、ルシファーには見えていた。
その網の、わずかな揺らぎが。
呼吸のたびに、ほんの一瞬だけ、感知の綻びが生まれるのだ。
「我が合図する。合図したら、静かに、そして滑らかに里の壁際まで走れ」
ジュウベイが生唾を飲み込む。
「三、二、一……今だ」
その瞬間、ジュウベイはルシファーを信じ、音を殺して走った。
――気づかれていない。
カオナシは槍の柄を握ったまま、微動だにしない。
まるで、すでに獲物を逃したことにも気づかぬまま、そこに立ち尽くしている影のようだった。
やがて、二つの存在は門をすり抜け、夜の闇の中へ溶けるように消えていった。




