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33 食卓に降りた堕天の翼

「ふむ。魔界というのも、案外悪くないものだな。天界人どもの噂が、いかに当てにならぬか、証明されたというわけか」


サタンの体の支配権を得たルシファーは、上機嫌に独り言を漏らした。


「サタン様、大丈夫ですか?」


ゾイルが覗き込むように、その目をじっと見つめる。


「うむ、大丈夫だとも。むしろ久方ぶりに体を得て、気分爽快なくらいだ」


ルシファーは、にこやかに答えた。


「「……?」」


その場にいた全員が、言いようのない違和感に顔を見合わせた。


いつものサタンではない。


そう直感させる何かが、目の前の“サタン”にはあった。


ゾイルは一瞬、毒紫豚の毒が強く出すぎたのかと思った。


だが、この料理でここまで人格が変わるような症例など聞いたことがない。


「おい、アルコック。これは少し、毒が強すぎるんじゃないか?」


マタゾウが眉をひそめ、料理長へ詰め寄る。


「ははっ、これは失敬」


アルコックは悪びれもせず笑った。


「旅のお方にも、この毒豚の不思議な感覚を味わっていただきたくて、幻覚成分は少しばかり残しておいたのですよ」


反省の色は薄い。


サタン本人はむしろ機嫌が良さそうに見えるため、本人に害があるようにも見えていないのだろう。


何より、アルコックはサタンの普段の人柄を知らない。


だからこそ、この異常な変化の本質に気づけていなかった。


「まあ、マタゾウ殿。アルコック殿の粋な計らいのおかげで、われは大変気分が良い。そなたたちも食べるといい。うまいぞ」


「われ? そなた……?」


ヨルカの顔がこわばる。


「サタン様、口調が変わってませんか?」


その瞬間、ヨルカの脳裏に、以前の出来事がよみがえった。


幻覚作用のあるキノコをサタンが誤って口にし、意識を失いかけたあの時。


ほんのわずかな時間だけ、今のように口調も空気も違う“何か”が表に出てきた。


あの時は、キノコのせいでおかしくなったのだろうと、自分に言い聞かせた。


違和感はあった。


だが、それだけだった。


しかし今、目の前の“サタン”は、あの時と同じ気配をまとっている。


違う。


これは酔いでも毒でもない。


最初からサタンの中にいた、別の何かだ。


ヨルカの背筋を、冷たいものが走った。


ゾイルもまた、目を細めてサタンを見ていた。


彼も思い出していた。


あのキノコを食べた夜、サタンの中から一瞬だけ顔をのぞかせた、得体の知れない人格を。


その時は、気のせいかもしれないと思った。


幻覚のせいで、そう見えただけかもしれないと。


だが今は違う。


眼前にいる“それ”は、あの時の違和感を、そのまま明確な輪郭を持った形で現していた。


口調。


視線。


そこにいるだけで、場の空気を塗り替えるような存在感。


間違いない。


あの時の違和感は、勘違いなどではなかったのだ。


サタンの中には、本当に別の誰かがいる。


「やっぱり変です……!」


ヨルカの声は震えていた。


もはや戸惑いではない。


はっきりとした恐れと警戒が、その声には混じっていた。


「いや……」


ゾイルも困惑を隠せず、眉間に皺を寄せる。


「この料理に幻覚作用はある。耐性のない者なら意識を失うこともある。だが……ここまで人格そのものが変わるなど、聞いたことがない」


「われは大丈夫だと言っておろう。そなたたちは心配性だな。……おっ、この鳥と牛の料理も、なかなか良い味だ」


周囲の空気など意にも介さず、ルシファーだけが悠然と食事を続けている。


「はい、そちらは虹鳥のローストチキンのライス詰めと、墨闘牛のステーキになります。虹色の肉質と――」


アルコックは相変わらず上機嫌に説明を続けていた。


周囲の空気が明らかにおかしくなっているというのに、そのことにまるで気づいていない。


ある意味、大した胆力だ。


だがゾイルは、もはや料理の説明など聞いていなかった。


サタンの背中が、急に不自然に盛り上がり始めたのを見逃さなかったのだ。


「サタン様!! その背中は……!?」


「ん? おお、われの背の翼が、ようやく生えそろったようだな」


その言葉の直後だった。


ふん――と、息を吐くような小さな声とともに、衣服の背が内側から大きく裂けた。


次の瞬間、三対六枚の黒い翼が、背中から突き破るように現れる。


ばさり、と重い音がした。


室内の空気が巻き上がり、黒い羽根が数枚、ふわりと宙に散る。


それは、人の体に生えるものではなかった。


禍々しく、美しく、そして圧倒的に異質だった。


これには、アルコックを含め、その場の全員が絶句した。


今回の食事によって増した魔力が引き金となり、ついにルシファーの残滓たる翼が、完全な形を取ってしまったのだ。


「うむ。われの力も、少しは戻ってきたようだな」


「……あなたは、一体……?」


ゾイルは目を見開いたまま、サタンの姿を見つめる。


いや、ゾイルだけではない。


マタゾウは口を半開きにし、手から箸を落としていた。


ヨルカは声も出せず、肩を震わせている。


アルコックですら、ようやく事態の異様さに気づいたのか、顔色を変えていた。


「……サタン殿。あなたは何かに憑りつかれておるようですな」


低く、押し殺した声で言ったのはホクサイだった。


すでにその手には木刀ではなく、本物の剣が握られている。


訓練用ではない。


斬るための剣だ。


「おい、もののけ。さっさとサタン殿に体を返せ。さもないと――」


「さもないと……なんだ?」


ルシファーはホクサイをちらりと見ただけで、のんきにまだ料理へ箸を伸ばしていた。


その態度が、ホクサイの怒りに火をつけた。


踏み込みと同時に、床板が爆ぜる。


神速の一撃。


修行の時には一度も見せたことのない、本気の太刀。


音すら置き去りにする斬撃が、まっすぐルシファーの首筋へ走った。


ヨルカには、ホクサイが動いたことすら見えなかった。


――キン。


涼やかな音が、静まり返った室内に響いた。


「なんと……」


思わず声を漏らしたのは、マタゾウだった。


信じられない光景が、目の前にあった。


剣聖と名高いホクサイの神速の一撃を、目の前の“何か”は身じろぎひとつせず受け止めていたのだ。


しかも――


「……どうして、箸で受け止められるのだ……?」


ホクサイの顔に、焦りと悔しさが入り混じる。


額には冷や汗がにじんでいた。


ルシファーは、ただ木の箸で剣を止めていた。


ありえない。


木の箸だ。


魔剣でも、神器でもない。


それが、達人の本気の一撃を受け止めている。


「なに、箸に魔力を込めただけだ」


ルシファーは、さも当然のように言った。


「馬鹿な……それだけで、木の箸で剣を受け止められるわけがない」


「しかし、現にそうしているではないか?」


どれだけの魔力を込めれば、そんな芸当が可能になるのか。


その理屈が、ホクサイにはまるで理解できなかった。


目の前に座っているものは、正真正銘の怪物だ。


たとえ奥の手を出したとしても、勝てる保証などどこにもない。


底が見えない。


得体が知れない。


今、自分が刃を向けている相手は、そういう存在なのだと本能が告げていた。


ホクサイの背を、一筋の冷たい汗が伝う。


「――まあ、落ち着けよ」


低く、しかし妙にはっきりと響く声が、空気を裂いた。


その瞬間だった。


ルシファーの全身から、目に見えぬ覇気が放たれた。


それは殺気とも威圧とも違う。


もっと根源的で、存在そのものの格が違うと叩きつけてくるような圧だった。


空気が凍りつく。


室内から音が消える。


世界そのものが、一拍だけ息を止めたようだった。


「ッ……!?」


誰も動けない。


指一本どころか、声すら出せない。


肺は呼吸を忘れ、喉は凍りつき、視線だけが目の前の存在に縫い留められる。


まるで、巨大な何かに魂ごと押さえつけられているようだった。


ルシファーだけが、その中心で何事もなかったように座っている。


「われは、ただ食事を楽しんでいるだけだ。食事中に野暮なことはしてくれるな」


声音は穏やかだった。


だが、その穏やかさが逆に恐ろしい。


「そなたたちに害を与えるつもりはない。われの存在はサタンも知っておる。われらは互いに支え合って生きているのだ」


誰も返事をできない。


返したくても、口が動かない。


「それに、この体から出ていく術も、今のところはない。サタンとの約束で名を明かすことはできぬがな。……聞きたいことは以上か?」


沈黙だけが返った。


否。


返したのではない。


返せないのだ。


「そして、ゾイルとヨルカ」


その名を呼ばれた二人の肩が、わずかに震えた。


「そなたたちが、われの存在を知って怖くなったのなら、これ以上無理に旅を続ける必要はない」


その言葉は静かだったが、不思議と脅しには聞こえなかった。


むしろ、選択を委ねるような響きがあった。


「……だが、われもサタンも、そなたたちのことは気に入っておる。できれば今後とも頼みたい」


そこで初めて、ルシファーは箸を置いた。


「では、ご飯も食べ終えたことだし、われは少しこの場を離れる。頭の整理でもつけておくがよい」


黒い翼が、ゆるやかに揺れる。


「さらばだ」

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