32-2 隠れ里の宴会 堕天使の出現
数日後のある日。
「皆さま、宴の用意ができましたので、どうぞこちらへ」
里長マタゾウの屋敷で働く娘が、俺たちを呼びに来た。
どうやら、約束していた宴を少し遅れて開いてくれるらしい。
「宴の開催が遅れてしまい、申し訳ありません。特別な食材の入手に時間がかかってしまいまして」
「ああ、気にするな。ちゃんと準備してくれたこと自体、ありがたい」
よし。
うまい飯の時間だ。
さて、今日は何が食えるのかな。
俺は少し浮き立った気分で、娘のあとをついていく。
屋敷のほうからは、すでにさまざまな料理の香りが漂ってきていた。
焼けた肉の脂の香り。
香草の青い匂い。
煮込み料理の湯気に混じる、魚の旨そうな気配。
「めちゃくちゃいい匂いがするな。鶏肉に豚、牛、それに魚まであるぞ」
「えっ、サタン様、匂いだけでそんなことまでわかるんですか?」
「わかるだろう? 普通」
「いや、その鼻の良さは異常ですって」
「そうか?」
どうやら、知らないうちに嗅覚強化の能力まで手に入れていたらしい。
「まあ、そんなことはどうでもいい。早く飯を食いに行こうぜ」
「お待ちください」
娘はそう言うと、部屋の前で一礼し、ふすまに手をかけた。
「失礼いたします」
ふすまが開かれた瞬間、濃密な香りの奔流が鼻腔をくすぐった。
肉の焼ける匂い、魚の蒸された匂い、香草と油、塩と出汁――さまざまな香りが一気に押し寄せてくる。
「皆さま、お揃いですかな?」
ふすまの先の部屋には、豪華な装飾に負けないほど色とりどりのごちそうが並んでいた。
毒紫豚の丸焼き。
虹鳥のローストチキンのライス詰め。
墨闘牛のステーキ。
猛虎鯛の塩釜焼き。
あさま山草とビリビリコーンのサラダ。
どれもこれも、俺にとっては初めて見る食材ばかりだった。
「里長……いや、マタゾウ殿。これだけのごちそうを用意してくれるとは、感謝する」
「いえいえ。あれだけ純度の高いミスリルを持ち帰ってくださったのです。これくらいは当然ですよ」
マタゾウは穏やかに笑った。
「ではまず、料理長に説明をしてもらいましょう」
マタゾウの横に控えていた男が、一歩前に出て恭しく頭を下げた。
「初めてお目にかかります、サタン殿。私、料理長のアルコックと申します。本日の一品目は、“あさま山草とビリビリコーンのサラダ”でございます」
「見るからに危険そうな色の葉野菜とコーンだな。これ、本当に大丈夫なのか?」
俺は目の前の皿に視線を落とす。
そこには、赤い葉を細かく刻んだ野菜の山があり、その上に黄色と黒の粒が散らされていた。
黄色と黒の粒は、バチバチッと小さな音を立てている。
どう見ても、ただのコーンじゃない。
その上には、香ばしいフライド黒オニオンまで乗っていた。
「ご安心ください」
アルコックは自信ありげに微笑む。
「この赤く刻んである“あさま山草”は、山奥にひっそり自生する野草ですが、扱いを誤ると猛烈な勢いで種子を撃ち出してくる危険な植物です。ですが、的確に処理すれば、記憶に残るほど深い味わいを引き出せます」
「野菜が撃ってくるのかよ……」
「そして、この“ビリビリコーン”ですが、これも普段は危険な穀物です。しかし熱処理を施すことで、まるで強い炭酸のように口の中ではじける刺激へと変わります。脳へ直接快感を打ち込むような食感でございます」
「そうか。難しい処理が必要な食材なんだな。……とりあえず一口。いただきます」
俺は少し勇気を出して箸を伸ばした。
ドレッシングという液体で味つけされているらしく、野菜の表面は朝露をまとったようにきらきらしている。
少量をつまみ、そっと口に運ぶ。
――次の瞬間。
複雑な野菜の旨味と、弾けるような刺激が口いっぱいに広がった。
フライド黒オニオンの香ばしく鋭い香り。
ビリビリコーンの刺激と甘み。
あさま山草の深い野菜の味と、ほんのりとした苦み。
そして、それらをやさしくまとめ上げるドレッシング。
まるで、味が口の中で何度も小さく爆ぜているようだった。
新しい。
しかも、ただ珍しいだけじゃない。
ちゃんとうまい。
「うまい……」
気づけば、一口目のあと間を置かず、すぐに二口目へ手が伸びていた。
手も口も止まらない。
咀嚼しては次を運び、また咀嚼しては口に入れる。
その様子を見て、料理長も満足そうに目を細めていた。
俺はあっという間に、皿に盛られていたサラダを平らげてしまった。
「二品目は、猛虎鯛の塩釜焼きでございます」
料理長は、塩で覆われた巨大な魚の包み焼きを運ばせた。
そして木槌を手に取ると、表面の塩釜を叩き割っていく。
ごつっ、ごつっ、と硬い音が響くたびに、内部から蒸気が漏れ出し、磯の香りが立ちのぼった。
「魚料理なんて久しぶりだな!!」
「ただの魚ではありません」
アルコックは少し得意げに言う。
「そこらの川魚ではなく、これは海で獲れた魚なのです」
「海……って?」
聞き慣れない単語に、俺は首をかしげた。
水に関係する言葉なのだろうが、川魚との違いがよくわからない。
「おお、サタン殿は海をご存じありませんでしたか」
マタゾウが口を挟む。
「見たことがなければ信じがたいでしょうが、海とは池や湖よりもはるかに広大な、塩水の水たまりとお考えくだされ」
「湖よりも広いだって!?」
「ええ。例外はありますが、基本的にはとてつもなく広い」
マタゾウは静かにうなずいた。
「そう、この大陸よりも広いとも言われております。そこにはさまざまな生き物が棲んでおり、この猛虎鯛もその一匹です」
塩釜の中から姿を現したのは、一メートルほどもある大きな魚だった。
黄色と黒の縦縞。
口元からは二本の牙が突き出している。
見るからに凶暴そうだ。
「この猛虎鯛は非常に獰猛でして、自分より大きな獲物にも襲いかかる習性があります」
料理長はそう言いながら、身を切り分けていく。
「大きな口と鋭い牙で食らいつかれれば、並の魚では太刀打ちできません。ですが、その身にはさまざまな魚を凝縮したような濃厚な旨味が宿っております。まるで喰らった者の味を己の身に取り込んでいるかのように」
「……それじゃ、食べるぞ」
俺はごくりと唾を飲み込み、箸を伸ばした。
皮をめくると、その下から現れたのは純白の身だった。
しっとりと脂がのっており、光を受けてうっすら虹色にも見える。
それを口の中へ運ぶ。
すると、まだ見ぬ海の光景が広がるようだった。
ほのかな磯の香りの奥で、さまざまな魚の味わいが折り重なっていく。
噛めば噛むほど風味が変わり、一噛みごとに微妙に違う旨味が顔を出す。
どれも上品で、しかも深い。
コクがあり、いつまでも噛んでいたくなる味だ。
これはすごい。
川魚とはまるで別物だ。
「さて、三品目は少し趣向を変えまして――毒紫豚の丸焼きでございます」
「毒紫豚……思いっきり“毒”って言ってるが、本当に大丈夫なのか?」
「これは少々、賭けではありますが……サタン殿なら大丈夫でしょう!」
「アルコック殿は俺の何を知ってるんだ!?」
思わずつっこんでしまった。
「毒抜き自体はしております」
料理長は落ち着いて言う。
「ですが、すべてを完全に取り除いてはいません。熱で分解される類の毒ではないので、おそらく微量ながら、この料理にも残っております」
「アルコックさんのことだから、それも狙いなんだな?」
ここまでの二品で、俺の胃袋は完全にアルコックに掴まれていた。
この人の料理に関しては、もう信用するしかない。
「はい、もちろんです。どうなさいますか?」
「もちろん食うに決まってる」
俺は勢いをつけるような気持ちで、一切れ口に入れた。
毒紫豚はたっぷり脂がのっており、噛むたびに肉汁がじゅわっとあふれ出す。
だが、その脂は重くない。
さらりとしていて、しつこさがない。
実に質のいい脂だ。
うまい。
かなりうまい。
俺はその肉を飲み込む。
すると――どうしたことか、目の前の景色がゆらゆらと揺れ始めた。
「まさか……これが……」
「そうです」
料理長は満足げにうなずいた。
「それがこの豚の毒性でございます。しかしご安心を。子どもでもない限り、命に関わるほどの毒ではございません」
「なんというか……これは……かなり不思議な感覚だな……」
「面白い感覚でしょう?」
「ふむ……少し、ふわふわして……」
「サタン殿?」
そこで、俺の意識は途切れた。
*
「おや、サタンは寝てしまったようだな。仕方ない。我が続きを楽しむとしよう」
サタンの意識が沈んだその隙に、ルシファーが代わって体の支配権を得た。




