29 魔界に捨てられた赤い石
「サタン様、このミスリルを持って帰りましょうか」
ゾイルは、パスカルレオンが罠として置いていたミスリルの塊を指さした。
「!……あ、ああ。それだけあれば十分だろう」
俺はパスカルレオンの死骸の陰で、ひそかに魂をむさぼっていた。
この魂から何を得られるのかと少し楽しみにしていたのだが、予想どおり、得たのは姿隠しの能力だった。
順当すぎて面白くない。
どうせなら、うまい食材を感知できる能力とか、酒を造る才能とか、そういう生活に役立つやつがよかった。
……まあ、贅沢を言っても仕方ないか。
さて、本来の目的を果たすとしよう。
ミスリルの塊は、直径六十センチはあろうかという大きさだった。
こんなでかい石を持って帰るのは大変そうだな、と思いながら力を込めて抱え上げる。
だが、持ち上げてみると予想よりずっと軽かった。
そのまま、氷の上に横たわるパスカルレオンの死骸へ目を向ける。
今さらながら、その姿をまじまじと見た。
首のまわりには剛毛が生え、口には鋭い牙。
全体としては巨大なカメレオンのような姿だ。
皮膚はぶつぶつとしていて、死んだあとですら色が変わり続けている。
……この爬虫類の肉、うまいんだろうか。
そんなことを考えながら眺めていると、ゾイルにたしなめられた。
「サタン様。まさか、この肉を食べようなどと考えておられませんよね?」
「え、だめなのか?」
「絶対にやめてください。こういった類の生き物には、寄生虫が多いのです」
「寄生虫?」
「はい。生き物の体内に棲む虫の一種です。生焼けのまま食べたりすると腹痛や下痢を起こし、ひどい場合には体の中を這い回ります。最悪、体の表面から出てくることもあります」
「なにそれ!!? 怖っ!」
想像した瞬間、ぞっとした。
虫好きの変態魔人のようになるのだけは避けたい。
俺は即座に、パスカルレオンを食材にする案を捨てた。
……いや、でも待てよ。
生焼けがまずいってことは、よく火を通せば――
「その顔は、まだ諦めてませんね?」
「……やめとく」
ゾイルの冷たい視線に、俺は素直に引き下がった。
「それじゃ、ここでの用事も済んだし帰るか。ああ、ゾイル。もう隠れる必要はなくなったが、師匠からもらったマントはちゃんと持って帰れよ?」
「あ、サタン様。それでしたら、倒したパスカルレオンの皮も持ち帰りますので、少々お待ちください」
さすが狩人だ。
ゾイルは驚くべき手際で、パスカルレオンの皮を剥ぎ始めた。
その作業を待つ間、俺がぼんやりしていると、先ほどの魔虫の三人組が戻ってきた。
「改めて礼を言いに来た。俺の名はストライクス。このハチ型がロイビー、寄生型がミナスだ」
「あなた方のおかげで命拾いしました。薬草の効き目も素晴らしかったです」
三人は揃って頭を下げた。
律義な連中だ。
「元気になってよかった」
そう返すと、ストライクスとロイビーが懐を探り、何かを取り出した。
「これは礼だ」
差し出されたのは、ビー玉ほどの大きさの深紅の鉱石だった。
二つとも白い布の上に置かれ、傷がつかぬよう丁寧に扱われている。
白布の上で、その赤はなおさら鮮やかに映えた。
怪しく光るその石は、見る者を惹きつける妙な魅力を放っていた。
(これは……!?)
珍しく、ルシファーが驚いた気配を見せた。
「赤く光る鉱石だな。なんだこれ?」
「俺たちも詳しくは知らん。ただ、アバドン様はこの鉱石の採掘を命じていた。きっと貴重なものなのだろう」
「いいのか? 命じられたものを俺が受け取って」
「かまわんさ。鉱石など、また掘ればいい」
「それじゃ、遠慮なく」
俺はその赤い鉱石を、左右の手で一つずつ受け取った。
その瞬間だった。
赤い輝きが不意に強まったかと思うと、石の輪郭がふっと崩れ、まるで液体のように俺の手のひらへ染み込んでいった。
「「なっ!?」」
俺も驚いたが、魔虫たちも目を見開いていた。
(やはり、そうだったか……)
(おい、ルシファー! 今の石の正体を知っているのか?)
(賢者の石だよ)
(……なんだそれ?)
(知らんのか? まあいい、教えてやろう)
ルシファーは、少しもったいぶるように言った。
(われら天界人が恐れるものは三つある。一つは魔界のドラゴン。二つは地獄の巨人族ネフィリム。そして三つ目が、賢者の石だ)
(おいおい、ドラゴンと同格の脅威ってことか!?)
(まあ、最後まで聞け。賢者の石は、はるか昔、天界統治時代に存在した大賢者が禁術によって生み出したものだ。しかし禁を犯したゆえに、その賢者は神によって追放された)
そこでルシファーは、一拍置いた。
(当時、五万の兵を擁する天界武将軍が、その追放者を魔界へ送る護送任務についた。だが、全部隊が一人残らず謎の失踪を遂げたのだ。後にその場に残されていたのは、巨大な賢者の石のみだった)
(五万の兵が、賢者の石になったってことか? しかし、そんな物騒なものが、なんでこんな場所にあるんだ?)
(その後、事態を重く見た“当時の神”が、それを砕いて魔界各地の地中に捨てたのだと聞く。どうやら、その一部がこの辺りにあったらしいな)
(捨て方が雑すぎるだろ。魔界をゴミ箱か何かだと思ってるのか……)
(その考えは、あながち間違いでもない。天界が美しく清浄なのは、不浄なものをすべて魔界に捨てているからだ。つまり魔界は、天界の捨て場なのだよ)
(……ひどい話だな)
(その捨て場で、いつの間にか生命が生まれ、弱肉強食の果てに今の魔界へと発展した。その対応に天界は追われている。皮肉なものだな)
ルシファーの声は淡々としていた。
だが、その言葉の奥には、天界というものへの冷めた諦めのような響きがあった。
俺は赤黒い鉱石の余韻がまだ手のひらに残るのを感じながら、少し考えてから別の疑問を口にした。
(ところで気になったんだが……さっき“当時の神”って言ったよな。神って世代交代するのか?)
(いい質問だ。神は常に一柱で変わらぬ。だが、五百年周期で眠りにつき、新たに生まれ変わるのだ)
(つまり、五百年に一度、神がいなくなる瞬間があるってことか?)
(その通り。そして今がちょうど、その眠りの期間だ……長すぎる眠りの、な)
最後の一言だけ、わずかに苦みが混じった。
待ち続けた者にしか出せない声音だった。
(なるほどな。じゃあルシファー、お前は神様が眠りについた後に反乱を起こして堕天したってわけか。不良だな)
(それは違う!!)
頭の中で響いた声は、今までにないほど鋭かった。
あまりの剣幕に、俺は思わず肩をびくりと揺らす。
(じょ、冗談だ。悪かったって)
(我は、神のために行動していたのだ)
ルシファーの声は怒気を帯びていた。
だがそれ以上に、そこには強い痛みがにじんでいた。
(たしかに天界の規律は破った。だが、それもすべて神を思えばこそだ。我が救済の道を選んだのは、神の御心に背くためではない。神に対して反乱を起こしたなどと、そんな言葉で片づけられるいわれはない)
言葉の一つひとつが重い。
それはただの言い訳ではなく、長い年月の果てにもなお曲がらなかった信念そのものだった。
俺は少しだけ表情を引き締める。
(……わかったよ)
軽口で流していい話じゃなかったらしい。
(じゃあ、そのいなくなった神様は、いつ起きるんだ?)
(それは神のみぞ知ることだ)
短い答えだった。
だが、その先を語る気がないことだけははっきり伝わってきた。
しばし、沈黙が落ちる。
坑道の冷えた空気の中で、さっきまでの軽口だけが場違いに感じられた。
やがてルシファーは、気を取り直すように声音を戻した。
(……だが、そんな話は今はどうでもよい。問題は、賢者の石がそなたの中に吸収されたことだ)
たしかに、そのほうが今はよほど切実な問題だった。
「おい、ロイビー。お前、この賢者の石を触ったことはあるのか?」
「賢者の石……? ああ、さっき渡す時もそうだが、何度も触ってる。こんなことは初めてだ。アバドン様も手にしていたが、石に変化はなかった」
魔虫たちも、本気で困惑しているようだった。
俺をはめようとした気配はない。
となると、この現象は俺の体質によるものか。
(ルシファー、体の中で何か変化はあるか?)
(そなたの体内を隅々まで探ったが、石のような塊はどこにもない。だが妙な感覚はある。魔力の総量は変わらぬ)
(天界には賢者の石の効能は伝わっていないのか?)
(天界で恐れられているというのは、“自分たちも石に換えられる可能性がある”という意味でだ。具体的な石の効果は誰も知らない)
(謎だらけだな)
(忌み嫌われた存在で研究もされないから仕方ない)
(……仮に天界の兵の魂由来の石なら、俺だけが体内に取り込めたってことかもしれんな)
(可能性はある。だが、何か能力を得た感覚もないのであろう?)
(……今はどうしようもないか)
ルシファーでもはっきりしないなら、今ここで考えても仕方ない。
いずれ何かわかるだろう。
「サタン様。先ほど赤い光が見えましたが、何かありましたか?」
ちょうどその時、皮を剥ぎ終えたゾイルが戻ってきた。
余計な心配をかける必要もない。
この件は黙っておこう。
「いや、今のところ体はなんともない。とりあえず様子見だな」
「……そうですか。何事もなければよいのですが」
ゾイルは少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
ミスリルとパスカルレオンの透明マント、それに剥ぎ取った皮を荷袋にまとめて背負う。
「じゃあ、俺たちはこれで。もしここにまた魔人たちが来ても、ミスリルを取りに来るだけだ。見逃してくれよ」
まだ動揺の抜けきらない魔虫たちに一方的に別れを告げ、俺たちはヨルカの待つ洞窟前へ向かうのだった。




