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26-3 透明な敵

甲殻がきしむ。

岩肌が削れる。

無数の脚が、地を叩く。


羽虫、甲虫、毒の牙を持つ細長い虫。

岩肌に擬態していたもの。

土の中から這い出してくるもの。


数えきれない魔虫が、一斉に押し寄せてきた。


その音は、もはや羽音でも足音でもない。

黒い濁流がこちらへ流れ込んでくるような、圧そのものだった。


「ちっ……!」


サタンの右手が即座に振り抜かれる。


炎が扇状に広がった。

いや、火というより、黒く染まった爆風だった。


先頭の虫の群れを丸ごと飲み込み、甲殻を焼き割り、羽を縮れさせる。

焦げた羽の臭い。

はじける体液の音。

焼かれながらもなお前へ進もうとする脚が、ぼろぼろと床に落ちる。


だが、焼けた死骸を踏み越え、次の群れがすぐさま押し寄せた。


「数が多いな!」


「坑道です! 囲まれる前に散らしてください!」


ゾイルが叫ぶ。


その体は、叫んだ時にはもう動いていた。

だが――剣は抜かない。


迫った甲虫を、鞘の先で横殴りに叩き落とす。

乾いた破砕音。

甲殻がひしゃげ、虫が横転する。


直後、跳ねるように飛びかかってきた羽虫を、振り向きざまの蹴りで壁へ叩きつける。

岩肌に潰れた虫が、どろりと赤黒い跡を残した。


さらに足元から細長い魔虫が絡みつこうとすれば、一歩だけ後ろへ引く。

かわすのではない。

踏み潰すための引きだ。


次の瞬間には踵が落ち、細い胴がぐしゃりと砕けた。

その勢いのまま、横から来た別の一体へ肘を叩き込む。

硬い甲殻がめきりと鳴り、虫が弾かれて転がる。


「おい、抜けばもっと楽なんじゃないのか!?」


サタンが怒鳴りながら火球を連射する。


火球が坑道を照らし、群れていた羽虫をまとめて貫いた。

虫の体が痙攣し、焼けた臭いがさらに濃くなる。


「……今はそれで十分です!」


ゾイルはそう返す。

だが、その声音には余裕がない。


それでも動きには無駄がなかった。

抜いていないのに強い。

いや、抜かないままでここまで戦えること自体が異常だった。


サタンは魔力弾を連射する。


紫黒の弾丸が坑道の空気を裂き、虫の頭を砕き、羽を引きちぎり、岩壁ごと抉る。

着弾のたびに体液が飛び散り、ぬめった破片が頬や腕に当たった。


「くそ、気持ち悪いな!」


「見た目に文句を言っている暇があるなら、右です!」


「言われなくても見えてる!」


サタンは振り向きざま、右側の壁を這っていた巨大な蟲へ氷弾を撃ち込んだ。

白い冷気が一瞬でその脚を包み、関節ごと凍りつかせる。


もがいて岩肌を削る音が響く。

だが、そこへすかさず黒炎を叩き込み、焼き潰した。


その横で、ゾイルが低く身を沈める。

飛びかかってきた羽虫の群れを、紙一重でかわした。


無駄な大きな動きはない。

最小限に軸をずらし、群れが通り過ぎた一瞬の空白へ踏み込む。


一体の懐へ入り込み、鞘の石突きで急所を打ち抜く。

返す動きで別の虫の顎を砕き、さらに後ろ回しの蹴りで三体まとめて吹き飛ばした。


湿った坑道の中、鞘が空を切る音と、骨とも甲殻ともつかぬものが砕ける音が連続する。


「……抜けばもっと強そうなのに、なんで抜かないんだよ」


サタンは思わずぼやいた。


ゾイルは答えない。


その横顔に、一瞬だけ何かが差した。

黒く沈んだ過去。

踏み込めば崩れる痛み。

そういうものが、ほんの一瞬だけ瞳の奥を曇らせた。


サタンはそれを見た。

見て、口を閉ざした。


「……いや、今は聞かないでおくか」


その後も、無数の虫を焼き、叩き、潰し、蹴散らした。


一匹倒しても、次が来る。

次を焼いても、また別の影が這い出てくる。


どれだけ潰しても終わりがないように思えた。

だが、やがて濁流にも終わりが見え始める。


最後の一匹が、焼け爛れた脚を痙攣させながら床でもがき、やがて動かなくなった時――


坑道に、重い静寂が落ちた。


焦げた匂い。

砕けた甲殻。

ちぎれた羽。

ぬめる体液。

壁に飛び散った黒い染み。


そして、奥へ退いたマガトの気配だけが、薄く、薄く残っている。


サタンは肩で息をしながら、手の甲で額の汗を拭った。

だが、ぬぐった感触はひどく粘ついていて、すぐに眉をひそめる。


汗なのか。

虫の体液なのか。

それとも、飛び散った別の何かなのか。


考えるだけで気分が悪くなる。


「逃げたな、あいつ」


「ああ。最初から足止めのつもりだったのでしょう」


ゾイルも荒い息を整えながら答えた。

だが、その目はなお坑道の奥を見据えている。


ただ戦いの余韻を警戒している目ではない。

剣を納めぬ戦士のそれとも違う。


もっと古い、もっと本能的な嫌悪を知っている者の目だ。


この先には、まだ別の何かが潜んでいる。

そう確信している目だった。


しばらくして、ようやく空気が落ち着く。


先ほどまで響いていた羽音も、甲殻のこすれる音も、今は遠い。

だが、静まり返った坑道の中には、かえって別の気配が濃く沈んでいた。


湿った岩肌の匂い。

虫の死骸が焦げたような臭気。

そして、その奥にかすかに混じる、金属にも似た冷たい気配。


サタンはゆっくりと息を吸い、吐く。


戦闘直後の熱がじわじわと冷めていくにつれて、逆に肌を刺すような不快さが増していく。


静かすぎる。


まるで、この坑道そのものが息を潜め、侵入者の次の動きを待っているかのようだった。


「……行くか」


「ああ。長居はしたくないが、ここまで来て手ぶらで帰るわけにもいかない」


二人は言葉少なに、さらに坑道の奥へと進んだ。


踏みしめるたび、砕けた殻がじゃり、と嫌な音を立てる。

岩壁には古い爪痕のようなものがいくつも刻まれ、ところどころに粘ついた液の跡まで残っていた。


しかも、進めば進むほど、妙に整った空間が増えていく。

天然の洞窟ではない。

何者かが使いやすいように削り、広げた痕跡だった。


「サタン様! ありました。ミスリルです!」


不意に、ゾイルが興奮を抑えきれない声で告げた。


その視線の先――

坑道のやや開けた空間に、漬物石ほどもあるミスリルの塊が無造作に置かれていた。


淡い水色と銀色が入り混じった光沢が、闇の中でもかすかに浮かび上がって見える。


「なんでこんなところに……。誰かが掘り出して、そのまま放置したのか?」


「わかりません。ですが、今は誰もいないようです。このまま持っていきましょう」


ゾイルは周囲をうかがうと、マントの中から抜け出し、ミスリルの塊へ駆け寄ろうとした。


「おい、気をつけろ――」


俺がそう声をかけようとした、その瞬間だった。


何もないはずの空間から、突如として液体が現れ、ゾイルめがけて降りかかる。


「危ない!」


サタンは反射的に駆け出し、ゾイルに体当たりした。


何が起きたのか理解できないまま、ゾイルは呆然と虚空を見つめる。


次の瞬間、液体は地面に落ち、じゅうっ、と耳障りな音を立てた。


間一髪だった。


「キュロロロロ……お前、何者だ?」


どこにも姿はない。

なのに、声だけが坑道全体へぬめるように響いていく。


「サタン様、これはいったい……」


「待ち伏せしていたんだろうな」


目の前にいるのは、俺とゾイルだけ。

それなのに、空間のどこからともなく響く声が、ひどく不気味だった。


先ほど液体が落ちた場所へ視線を向ける。


そこでは地面が白い煙を上げ、どろどろと溶け崩れていた。

岩が一瞬で溶けるほどの強酸だ。

人体に浴びれば、肉どころか骨までただでは済まない。


「俺の狙いはお前たちじゃない。さっさと立ち去れ。さもないと、どろどろに溶かしてしまうぞ?」


姿なき声の主は、低く警告した。


その声は近い。

だが、位置が定まらない。

右から聞こえたかと思えば、次の瞬間には頭上。

さらにその直後には、背後の壁の奥から響いたようにすら感じる。


気配を読む感覚が、狂わされる。


「俺たちはミスリルが必要なんだ。だから、それを手に入れるまではここを動かん!」


見えない相手に向かって、サタンは啖呵を切る。


「キュロロロロ……よほど死にたいようだな。よかろう。まずそうだが、お前たちから食ってやろう!!」


その瞬間。


闇のどこかで、ぬめった何かが岩肌を這う音がした。


ぞわり、と背筋が冷える。


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