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26-2 抜けない剣の前に現れた仇敵

坑道の奥は、土と湿気と、何かが腐ったような臭いで満ちていた。


鼻の奥にまとわりつくのは、濡れた岩肌の冷たい匂いだけではない。

潰れた虫の体液が乾ききらずに残した酸臭。

奥底で何かが死に、それが長い時間をかけても土に還りきれず、澱んでいるようなねばつく腐臭。


息を吸うたび、喉の奥がざらつく。


足元の土は湿り、ところどころ黒く沈んでいた。

それがただの泥なのか、体液が染み込んだ跡なのか、見分けたくもなかった。


その先――

坑道の闇が最も濃く溜まった場所に、ゆらりと影が立っていた。


最初は、ただの影かと思った。

だが違う。


それは確かに、人の輪郭をしていた。

頭があり、肩があり、腕らしきものもある。


だが、何かがおかしい。


左右の均衡が微妙に崩れている。

輪郭のどこかが欠け、逆にどこかが膨らみ、形が定まらない。


黒い霧のようなものが、そいつの体の表面を絶えず這っていた。

霧の隙間からのぞくのは、皮膚とも甲殻ともつかぬ、ぬめった質感。


さらに背のあたりからは、絶えず小さな魔虫が這い出しては、ぽとり、ぽとりと地面に落ちていく。

落ちた虫はすぐに脚を動かし、床のひび割れや岩の隙間へ消えていった。


まるで、そいつの体そのものが虫の巣になっているようだった。


その瞬間、ゾイルの足が止まった。


空気が変わる。


それまで一定の歩幅で進んでいた体が、ぴたりと硬直する。

肩がわずかに強張り、呼吸が浅くなる。


「……マガト」


絞り出すように漏れたその名は、驚きではなかった。

古傷を爪で抉られ、そこから膿んだ痛みが一気に噴き出したような、低くかすれた声だった。


影が嗤う。


口元らしき場所が裂けたのかどうかも判然としない。

だが確かに、坑道の湿った闇の中で、嘲る気配だけがぬるりと広がった。


「久しいな、小さき剣士」


その声は、人の喉から出ているようでいて、どこか違った。

湿った布を引き裂くようなざらつきと、虫の羽音が重なったような不快な響きがある。

耳に入るというより、皮膚の内側へじわじわと染み込んでくる声だった。


蟲喰いのマガト。


十年前。

ゾイルから仲間を奪い、剣まで封じることになった元凶。


サタンは隣で目を細めた。

視線だけで影を測り、そのまま小さく問いかける。


「知り合いか?」


「知り合い、などという軽い相手ではありません」


ゾイルの返答は短い。

だがその短さの中に、抑え込んだ怒りと、消しきれない恐怖が混じっていた。


怒りだけなら、声はもっと真っ直ぐになる。

恐怖だけなら、もっと揺れる。

その両方が同時に喉元でせめぎ合っているからこそ、あんなにも硬い声になる。


マガトは、そんなゾイルを値踏みするように首を傾けた。


「まだ生きていたか。しかも……そんなところで止まったまま」


その言葉は静かだった。

だが、静かだからこそ深く刺さる。


まるで、ゾイルが十年前から一歩も前へ進めていないことを、見透かしているかのようだった。


「黙れ」


ゾイルの声が低くなる。


一言だけ。

だがその一言に、押し潰したはずのものがにじむ。


マガトは意に介した様子もなく、ゆっくりと視線を落とした。

見ているのはゾイルの顔ではない。


腰。


正確には、鞘ごと封じられた剣だ。


布で巻かれ、鎖で抜けぬように封じられたその姿を見て、マガトの気配がさらに歪んだ。


「ほう。剣を封じたか。戒めをただ携えるだけとは。よい。実にお前らしい」


わずかに笑いを含んだ声。


「斬れぬ者は、いつまでも失う」


「……!」


ぞくり、と坑道の空気が張りつめた。


その一言で、ゾイルの瞳の奥に黒い火が灯る。

だがその火は、燃え上がる直前で押しとどめられていた。


怒りのまま飛び込めば壊れると、体が覚えてしまっているような抑え込み方だった。


サタンは一歩前に出る。

靴底が湿った土を踏み、ぬちゃりと嫌な音がした。


右手の指先に、黒い魔力がじわりと滲む。

闇色の火種のようなそれが、低く脈打った。


「おい。こいつ、俺が焼いていいのか?」


軽く言っているようで、声の芯は硬い。

すでに、いつでも撃てる構えだった。


「お待ちください」


ゾイルが制する。

視線はマガトから外さないまま。


「こいつは……ただの魔虫使いではありません」


「分かってる。見た感じ、電気蟲で相手の神経をいじるのだろう」


マガトの声が、坑道の奥でぬるりと響く。


「ほう……一目でそこまで見抜くか……。だが、ここでは戦わぬ」


「……何?」


サタンが眉をひそめる。


「本当に欲しいものへ辿り着く前に、お前はまた選ばされることになる」


その言葉が落ちた瞬間だった。


マガトの足元の闇が、ぶわりと膨れた。


黒い霧が床を這う。

――いや、違う。


霧ではない。


無数の脚。

無数の羽。

無数の顎。


次の瞬間、黒い塊が一気に床を埋め尽くした。


魔虫だ。

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