24-2 守れなかった夜 抜けない剣の理由
二十年前、ゾイルの生まれた村は一夜にして消えた。
それは戦いと呼ぶには、あまりにも一方的な蹂躙だった。
夜の闇を裂いて現れたのは、無数の魔虫。
節足が地を削り、羽音が空気を震わせ、酸のような体液が家々を溶かしていく。
叫び声はすぐに悲鳴へ変わり、悲鳴はやがて途切れた。
あとに残ったのは、虫が肉を噛み砕く咀嚼音だけだった。
幼いゾイルは、瓦礫の隙間に身を縮めていた。
母の手を握っていたはずの指は、いつの間にか空を掴んでいる。
名前を呼んでも返事はない。
振り向いた先にあったのは、もはや人だったものの残骸だけだった。
夜が明けたとき、村は廃墟ですらなかった。
焦げ、溶け、踏み潰され、ただ「生活」の痕跡だけが不自然に散らばっている。
泣く声も、怒鳴る声も、誰かを探す声もない。
そこに残っていたのは、幼いゾイル一人だけだった。
彼は村を離れなかった。
いや、離れられなかったと言うべきかもしれない。
誰もいない家に入り、崩れた寝台で眠り、腐りかけた食料を口にした。
村に留まることが、失われたすべてをつなぎ止める唯一の方法だった。
去ってしまえば、本当に「何もなかった」ことになる気がしていたのだ。
そんなゾイルの前に、ある日、一人の男が現れた。
ホクサイと名乗ったその剣士は、廃村を見回し、ただ一言だけ言った。
「……まだ、生きてるな」
憐れみも慰めもなかった。
だがその言葉は、ゾイルの胸に深く突き刺さった。
生きている。
それは、ここで朽ちていくこととは違うのだと、突きつけられた気がした。
ホクサイはゾイルを拾い、そして剣を叩き込んだ。
教えるというより、叩き潰すに近い修行だった。
剣を振れば骨が軋み、構えれば筋肉が裂ける。
遅れれば容赦なく殴られ、倒れれば蹴り起こされる。
理由の説明はない。
褒め言葉もない。
あるのは「立て」「振れ」「まだだ」という短い命令だけだった。
それでもゾイルは逃げなかった。
村で何もできず、ただ隠れて生き延びた自分。
助けを呼ぶことも、誰かを守ることもできなかった無力な自分。
弱いものは喰われる。
生き残ったのは、たまたま運がよかっただけだ。
その事実が、修行の痛みよりもずっと深く彼を苛んでいた。
いま幼いゾイルに必要だったのは、慰めではない。
弱い自分との決別だった。
ホクサイにこてんぱんに叩きのめされることで、何もできなかった自分が少しずつ清算されていく。
そんな気がしていたのだ。
だから歯を食いしばり、血を吐き、倒れても立ち上がった。
剣を握るたび、村の光景が脳裏に蘇る。
だからこそ振る。
二度と、あの夜の自分でいないために。
ホクサイは多くを語らなかった。
だが、ゾイルが折れずについてくることを、ただ黙って見ていた。
それだけで、この地獄のような修行が選別であることを、ゾイルは理解していた。
生きるに値するかどうかを問う、剣の時間。
その中でゾイルは、痛みと引き換えに一つだけ確かなものを掴み始めていた。
それは力ではない。
「生き残る」という、あまりにも原始的で、残酷な覚悟だった。
現在から十年前。
森は雨上がりの匂いをまとっていた。
濡れた枝を踏むたび、靴底に泥が絡みつく。
隠れ里を守るための任務――魔虫の巣の討伐。
五人で編成された、里の若者たちの小隊が森を進んでいた。
「この先から……臭う。魔虫の巣の匂い」
サラが眉をひそめる。
「配置を変えるぞ。前衛はユルガ、サイドは俺。後衛は弓と薬師だ」
ガルドが低く指示を飛ばした。
「ゾイル、お前は俺の背中だけ見てろ。無理に前へ出るな」
ユルガが振り返らずに言う。
ゾイルの指先は、剣の柄の上で汗に滑っていた。
「緊張してんのか、ゾイル? 剣が震えてるぞ」
横で笑う声がした。ユルガだ。
体格も気迫も、剣の腕も、いつだって一歩先を行く兄貴分だった。
「震えてねぇよ……俺はやれる。今日こそ、お前に追いつく」
「ははっ、追いつく? お前、まだ三歩は置いてかれてるぞ」
「……いつか追い越す」
ユルガが目を細めた。
口元は笑っているのに、瞳の奥にはどこか寂しさがあった。
「そうだな。追い越せ。そのために俺は前に立つ」
そこで一度言葉を切り、ぽつりと続ける。
「……お前が、俺みたいに誰かを失わないようにな」
二人には共通の記憶があった。
幼いころ、村を焼き尽くした魔虫の群れ。
焦げた匂い。
泣き叫ぶ声。
取り返しのつかない喪失。
「もう二度と……失わねぇよ」
そう言いながらも、それは誰かに向けた言葉というより、自分に言い聞かせるためのものだった。
森の奥に、霧のような黒煙が立ち上っていた。
そこに――いた。
蟲喰いのマガト。
今回の討伐対象だ。
人の形をしているようで、どこかが欠けている。
輪郭は虚ろに揺れ、背中からは無数の蟲がこぼれ落ちていた。
「来たか。試そう。お前たちの剣が、何を斬るのかを――」
黒い霧が地を這い、ユルガの足元へ絡みつく。
次の瞬間、ユルガの体が硬直した。
「ダメ! 近づかないで! 操られる!」
サラの悲鳴が飛ぶ。
「クソッ、前衛が持っていかれた!? ゾイル、下がれッ!」
ガルドが叫ぶ。
「……逃げろ。俺の手が……俺の体が……俺じゃねぇ!」
ユルガが歯を食いしばりながら呻く。
踏み出せば斬られる。
引けば、ユルガが誰かを殺す。
「ゾイル、お願い……ユルガさんを……助けて……!」
ミオの震える声が響いた。
ユルガの体が痙攣する。
「……っ、ぁ……声が……頭に……!」
肩口から黒い蟲が肉の隙間へ潜り込む。
肉が裂ける音。血の匂い。脈動。嫌悪。
「ユルガ! 離れろ! 振り払え!」
「分かって……る、けど……っ!! 体が勝手に……!」
ユルガの剣先が、ゾイルたちへ向けられる。
その場で剣戟と魔法が交錯した。
絶叫が森にこだまする。
焼けた草の匂いがまだ残る森の奥。
倒れ伏した仲間たちの間で、ゾイルは膝をついていた。
サラも、ガルドも、ミオも。
正気を失い、同士討ちの果てに倒れた仲間たちは、もう言葉を残せなかった。
そこへユルガが迫る。
緩急をつけた鋭い歩法。
それは、いつも稽古で見せつけられた、あの型そのものだった。
「逃げろ……ゾイル!! 俺は、自分を止められねぇ!!」
戦いのさなか、なんとか意識をつなぎ留めているユルガが、喉を裂くように叫ぶ。
「逃げねぇよ……! 俺が止めるんだろ……!?」
金属音が弾ける。
一合、二合、三合――押し負ける。
操られていても、ユルガの剣は速く、重い。
「ゾイル……! 俺はお前を斬りたくねぇ……! でも、腕が……!!」
「分かってる! でも俺は負けねぇ! ここで負けたら、全部また燃える……!!」
その一瞬、ユルガの瞳が、曇った闇の奥で微かに揺れた。
戻ろうとしている光が見えた。
「……俺を越えろ、ゾイル。俺を斬ってでも――止めろ」
「やめろ……そんなこと言うな……!」
踏み込み。
気合。
反射。
ゾイルの剣がユルガの胴へ――
いや、違う。
直前で軌道をわずかに逸らし、代わりにその体の内に潜む蟲の核を斬り裂いた。
黒い悲鳴が森に散る。
「……っ、ゾイル……! やるじゃねぇか……。最後に……少しだけ、自分を取り戻せた……」
「戻れたなら、まだ――」
「いや、無理だ。……ほら、俺の血、止まらねぇだろ」
その言葉とともに、蟲の群れがざわめき、森の奥へ退いていく。
「今日はここまでだ、小さき者よ。この続きは、いずれまた。守るために斬るか、斬らぬために失うか――選べ」
マガトは霧とともに姿を消し、静けさだけが戻った。
笑おうとしたユルガの口元から、赤が滴る。
ユルガが崩れ落ち、ゾイルがそれを支えた。
血で滑る掌を握り返す力が、どんどん弱くなっていく。
「ゾイル……お前は強くなる。でもな、剣だけが強さじゃねぇ」
「やめろ、死ぬな……! 俺はまだ……何も――」
「だったら、生きろ。それが……兄貴分の、最後の命令だ」
その手が、ほどけた。
森が静かになった。
ゾイルは剣が抜けないよう鎖で封じ、さらに鞘ごと布で巻いて背負った。
二度と抜かないために。
自分の刃を封じるために。
「剣で守れなかった。なら、俺は何のために……」
ユルガの形見である羽飾りを握りしめ、ゾイルは里を出た。
一度も振り返らず。
足音さえ残さぬように。
*
「ところで、ミスリルのある場所に魔虫の巣があるらしいんだが、お前は虫嫌いだろ。大丈夫なのか?」
「それは……何とか努力します」
言い淀みながらも、何とか我慢しようとしているゾイル。
「私は嫌なので、近くでお留守番してます」
断固拒否のヨルカ。
この二人はあてにしないでおこう、と思ったのは内緒だ。
「ヨルカ、魔虫の巣の近くで留守番して、待っている間にもし出くわしたらどうするんだ?」
俺はあきれながらヨルカに問う。
「逃げ一択です!!」
さわやかな笑顔で言い切ったよ、この娘。
虫に対しては勇敢さのかけらもないのであった。
もしかして、村の近くにアントスパイダーと一緒に来たとき怒っていたのは、よほど虫に対する嫌悪感の表れだったのかもしれない。
「ゾイル、お前には期待しているからな」
俺はゾイルに発破をかける。
「鋭意努力します」
硬い表情のまま、ゾイルは答えた。
もしかしたら、里長と師匠はゾイルが虫嫌いだったことを知っていて、この依頼を出したのかもしれない。
そして、虫嫌いを克服してもらおうと考えたのかもしれないな。
「ま、無駄な戦いは避けたいし、虫とはなるべく戦わないように気をつけよう」
俺はゾイルの気持ちを少しでも軽くしようと思い、そう告げた。




