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21 敗北の味 ベルゼの影

洞窟から出ると、外の光がやけにまぶしく感じられた。

新鮮な空気が、肺にしみるようにうまい。


目が慣れてくると、ちょうどゾイルがこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。

その姿は全身が真っ赤に染まり、歩くたびに血がぽたぽたと滴っている。


一瞬ぎょっとしたが、よく見れば体に目立った傷はない。

どうやら、すべて返り血らしい。


「そっちも終わったようだな」


「はい。ゴブリンどもが後から次々と湧いてきまして、処理に手間取りましたが……いくら数が多くとも、ゴブリンはゴブリン。私の敵ではありませんでした」


ゾイルの目はらんらんと光っていた。

どうやら戦いの興奮が、まだ抜けきっていないらしい。


「ゾイル! 早くその血を洗い流して。病気になるよ!」


ヨルカは血まみれのゾイルを見て、あからさまに引いていた。


「ヨルカ、それより先にゾイルにも礼を言えよ。俺がお前を助けに行くために、立ちふさがった敵を一手に引き受けてくれたんだからな」


俺がそう諭すと、ヨルカは少し気まずそうに視線をそらした。


「そうでしたか……ありがとう、ゾイル」


「礼には及ばない。無事で何よりだ」


ゾイルは、何でもないことのようにぶっきらぼうに答えた。

ぎすぎすしていた二人の関係も、少しはましになったようだ。


俺たちはそこからさらに数キロ移動し、川辺で休憩を取ることにした。

ゾイルは川で返り血を洗い流し、俺とヨルカは土埃で汚れた顔を洗う。


火を起こし、穀物をすりつぶして固めた携帯食を温め、簡単な食事をとった。


「サタン様もヨルカも、ご無事で何よりです」


「まあ、完全に無事ってわけでもないがな」


実のところ、さっきの戦闘で筋を痛めたらしい。

オーガの剣による一撃は、骨がきしみ、全身がしびれるほどの衝撃だった。


何とか動けてはいるが、確実にダメージは残っている。

食事で多少は持ち直したとはいえ、魔力も残りわずかだ。

どこかで腰を落ち着けて、しっかり休む必要がある。


「あのまま戦い続けていたら、今ごろ致命傷を負っていたかもな……」


「なに!? サタン様が苦戦するほどの相手が中にいたのですか?」


「ああ。中にはシャーマンのホブゴブリンとオーガがいてな……勝負はお預けになったんだ」


「なんと……オーガが洞窟の中に!?」


「え!? 相手はオーガだったんですか?」


ヨルカは驚き、ゾイルは目に見えて顔を青くした。


そういえば、ヨルカは真っ暗闇の中で戦っていた。

相手がオーガだと分からなかったのだろう。

ヨルカをさらってきたのもホブゴブリンだったようだしな。


それにしても、二人の顔色は悪い。

それほど、この地に住む者にとってオーガという魔物は脅威なのだろう。


たしかに、ルシファーと出会う前の俺なら、まず間違いなく立ち向かおうとすら思わなかったはずだ。


「よくご無事で……」


「とにかく、ここから早く離れましょう」


ヨルカは、こんな場所には一刻も早くいたくないと言わんばかりに、俺たちをせかした。

休憩のために広げていた道具を、てきぱきと片づけ始める。


さっきまで「かたきを討つ」と息巻いていたくせに、相手がオーガだと知った途端、この切り替えの早さである。


「大丈夫だろ」


俺はのんびりした口調で言った。


おそらく、今から俺たちを追ってくることはない。

もし本気で殺すつもりなら、あの場でやらない理由がないからだ。


たしかに、あのオーガは特別強かった。

力任せに暴れるだけの野生のオーガとは、明らかに違う。

多種族と意思疎通ができるほどの知性まで備えていた。


本来、野良のオーガに知性などないに等しい。

ただ力の限り暴れ回る――そういう種族のはずなのだ。


俺は戦いの中で得た情報を、二人に伝えた。


「サタン様でも決着をつけられないほどの実力と知性を持つオーガ、ですか……」


ゾイルは一人、ぶつぶつとつぶやきながら考え込んでいるようだった。


シャーマンのホブゴブリンの魂を食えなかったのは残念だが、仕方ない。

もっとも、ホブゴブリンの魂を食ったところで、新しい能力を得られたかどうかは怪しいところだ。


だが、あのオーガの魂なら、間違いなく何かを得られただろうが……。


「まあ、とりあえずあのオーガとは休戦の合意が取れてる。すぐに襲ってくることはないさ。ここに用もないし、ゾイルの里へ向かうか」


「はい、早く行きましょう!!」


説明を聞いてなお、ヨルカは一刻も早くここを離れたいらしい。

せかすように先頭に立って歩き出した。


こうして俺たち三人は、再びゾイルの里へ向かって歩き始めた。


(ベルゼ……まさかな)


ルシファーがふいに独り言のようにつぶやく。


「ん? ルシファー、ベルゼってやつに心当たりがあるのか?」


気になって、俺は尋ねた。


(確かなことは言えぬのだが、“ベルゼ”という呼び名には聞き覚えがある気がしてな……。天界でも最近、それに似た名が噂に上っておった。正確な名は忘れてしまったが)


名前は覚えとけよ、と心の中でつっこみつつ、俺は先を促す。


「どんな噂だ?」


(謎の上位魔人が、一大勢力を築き始めたというものだ)


「それだけなら、別に珍しくもないんじゃないか? 魔界は今、戦乱の時代なんだろ」


そう。

今の魔界には、真の意味での魔王はいない。

まさに群雄割拠の時代だ。


力ある魔人が王座を目指し、勢力を築くこと自体は珍しくない。

現に各地には、その土地を治める王がいるという話も聞く。


ただし、地方の王であっても、勝手に“魔王”を名乗ることはできないらしい。

詳しい条件までは知らないが、魔王になるには他の王たちに認められる必要があると聞いたことがある。

ほかにも、きっと何かしらの条件があるのだろう。


それほどまでに、“魔王”という名は特別なものなのだ。

浅はかな者が魔王を僭称し、他勢力から滅ぼされた例など枚挙にいとまがない。


今も大陸ごとにいくつもの勢力が割拠しているが、真の魔王はいまだ現れていない。


(いや、問題はそこではない。奴の部下になった者は、どういうわけか皆“進化”するという話なのだ)


「進化?」


(その通り。単に強くなったとか、成長したとかいう話ではない)


「種族そのものが変わる、ってことか」


(そうだ。洞窟のオーガも、ホブゴブリンから進化したと言っておったな)


「今回の話とそっくりだな」


(強力な上位魔人が勢力を築くこと自体は珍しくない。所詮は個の力の話だからな。だが、天界にとって厄介なのは、強者が量産されることだ。しかも噂が噂を呼び、強力な魔人や魔獣が次々と、その“何とか”という者のもとへ集まってきているという)


重大な話なのに、肝心の名前を忘れているんだな。

どうせ我にとっては大したことではないとでも思っていたんだろう。こいつは。


「強力な魔人や魔獣が、さらに上の存在へ進化するってわけか……それはたしかに厄介だな」


(そなたも、いずれ戦う相手になるやもしれぬ。気をつけるのだぞ)


「いや、勝手に戦う前提で話を進めるな。俺はうまいものと酒を楽しむために生きてるんだ」


(チッ。この魔界を統治しようという崇高な意識を持てと言っておろう)


「はいはい。まあ、強くなるつもりはあるから、全部を否定はしないさ」


強くならなければならない。

それだけは本心だった。


今日は、本当に危なかった。

もしあのオーガが、俺の実力を測ることなく最初から剣を振るってきていたら、かなりまずいことになっていただろう。


よくて相打ち。

最悪、そのまま殺されていたかもしれない。


最悪の状況になっても、ルシファーが何とかしてくれるという妙な確信があったから、最後まで平静を保てた。

だが――もし俺が死んでいたら、ヨルカもゾイルも無事では済まなかったはずだ。


自分を信じてくれる者を、自分の力不足で死なせる。

そんなことだけは、絶対に許せない。


初めて味わう敗北だった。


胸の奥に沈んでいくのは、恐怖ではない。

悔しさだ。

そして、じわじわと全身を締めつけてくる焦りだった。


旅に出る前の俺は、そもそも勝負の土俵に立ってこなかった。

勝てるか負けるかを問われる前に、逃げるか、やり過ごすか、生き延びることだけを考えてきた。


だからこそ、真正面から力をぶつけ合い、届かなかったという現実は、これまで知らなかった痛みとして胸に刺さる。


あいつには届かなかった。

今の俺では、届かない。


その事実が、腹の底を焼くように熱かった。


もし相手に殺意があれば。

もしほんのわずかに判断を誤っていれば。

今ここに立っていられたかも分からない。


自分の未熟さが、これほどまでにはっきり形を持って突きつけられたのは初めてだった。


その感情は、俺の中に小さくはない火を灯していた。


負けたままでは終われない。

届かなかったのなら、届くところまで這い上がるしかない。


「強くならないとな……」


俺はルシファーに悟られぬよう、静かにそう誓った。



洞窟の入り口で、オーガがひざまずいていた。

巨体を折り、額が地に触れんばかりの低さで頭を垂れている。


その先に立つのは、一体の上位魔人。


全身を飾る鎧は豪奢でありながら、どこか冷たく、生き物の体温を拒むような硬質さをまとっていた。

陽光の下に立っているはずなのに、その周囲だけが薄暗く沈んで見える。


この地に生じた異質な魔力の揺らぎを察し、自ら足を運んできたのだ。


「……侵入者の報告を」


落ち着いた声だった。

だが、その一言が発せられた瞬間、洞窟の空気がひやりと冷えた。


「ハッ! わが君。奴はこの辺りではそこそこ強くはありますが、まだ私たちの敵ではありません。体術に関しては、守りは達人、攻めは未熟。魔法は中位級呪文を扱えます」


「そうか」


たった二文字。

それだけで会話は終わったはずだった。


だが、オーガは口を開いてしまう。


「しかし、なぜあのようなものをお気になさるので?」


――しまった。


言った直後、自分自身が最初にそう悟った。


次の瞬間、主はゆっくりと視線だけを落とした。


「……貴様に関係があるか?」


空気が震えた。


それは怒鳴り声ではない。

むしろ、ひどく静かな声音だった。


それなのに、洞窟の奥で岩盤が軋み、ぱらぱらと小石が落ちる。

周囲にいた虫の気配が、ふっと消えた。


「も、申し訳ございません!! 余計なことを!」


オーガの顔から、さっと血の気が引いた。

全身の毛穴が一斉に開き、嫌な汗が噴き出す。


ただ声を向けられただけ。

それだけで、内臓を直接つかまれたような圧迫感が全身を貫いた。


膝をついていなければ、その場に崩れ落ちていたかもしれない。


自身もまた、この主のもとで力を得た。

弱き魔物から、上位種へ届くほどに押し上げられた存在だ。


だが、だからこそ分かる。


強くなればなるほど、主の異常さが際立つ。

近づいたと思った次の瞬間、遥か彼方へ突き放される。

底が見えないどころではない。

どれだけ見上げても、輪郭すらつかめないのだ。


低級の魔物なら、今の一言を聞いただけで命を落とす。

だからホブゴブリンやゴブリンの生き残りは、あらかじめこの場から遠ざけてある。


「一度は許す」


その声音には、もはや怒気すらなかった。

それが、かえって恐ろしい。


「は、はっ……! 寛大なるご慈悲に感謝を……!」


鳥肌が引かない。

喉の奥は乾ききり、心臓は嫌な音を立てて脈打っている。


次はない。


そのことだけが、骨の髄まで刻み込まれた。


やがて主は洞窟の奥ではなく、そのさらに先――まるでどこか遠くを見るように目を細めた。


「この地方の配下を集める。貴様も支度しろ」


「ハハッ! 何なりと申し付けください。ベルゼ様」


ベルゼは答えない。


ただそこに立っているだけで、周囲の空気は沈み、光さえも重く濁っていく。


まるで、この場にいる誰もが気づかぬうちに、

この一帯そのものが、すでにベルゼの手の内へ落ちているかのようだった。

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