130 上陸
翌日。
様々な魔界の海の生き物を船上から眺める。
船縁から海を見下ろすと、黒紫に濁った波間のあちこちに、島のようなものが浮かんでいた。
だが、それは岩ではない。
よく見れば、どれもとてつもなく巨大な貝だった。
二枚の殻は山のように盛り上がり、表面には長い年月をかけてこびりついた海藻や骨片、白く乾いた甲殻が層のように張りついている。
殻の隙間からは、ぬらりとした瘴気混じりの蒸気が細く吐き出され、まるで島が呼吸しているかのようだった。
その広い殻の上には、巣のようにねじれた珊瑚と黒い苔が広がり、奇妙な生き物たちの住処になっている。
その一角で群れていたのは、魚ペンギンだった。
姿はペンギンに似ているが、翼は羽ではなく青黒い鰭に近く、首から下は滑らかな魚の皮に覆われている。
嘴は細長く鋭く、先端には小さな返しが並び、獲物を咥えたら逃がさない形をしていた。
殻の上をよちよちと歩く様子はどこか愛嬌があるのに、ひとたび海へ飛び込めば、影のような速さで水中を裂いていく。
ときおり群れの何匹かが一斉に海へ身を躍らせると、次の瞬間には赤黒い魚を嘴にぶら下げて戻ってきた。
その近くでは、鬼アザラシが殻の縁を占拠していた。
ぶよぶよとした脂肪の下に恐ろしく分厚い筋肉を隠し持つ巨体で、全身は赤黒いまだら模様。
額からは短い角が二本突き出し、口を開けばアザラシらしからぬ獣じみた牙が幾重にも並んでいる。
寝そべっているだけなら怠けた化け物にしか見えないが、縄張りに入った魚ペンギンへ唸り声を漏らすたび、周囲の空気までびりつくような威圧感があった。
殻の上には、鬼アザラシが食い散らかした魚の骨や、潰された魚ペンギンの鰭が転がっていて、この巨大な貝の上にも弱肉強食の掟があることを嫌でも思い知らされる。
そして――それらを上から狙うものがいた。
貝の上を、ぬめるように徘徊する巨大な蛸魔人。
最初は崩れた岩柱か何かだと思った。
だが、その黒褐色の塊はゆっくりとうごめき、殻の上に粘つく吸盤の列を這わせながら移動していた。
胴は人に似た上半身を持ちながら、胸から下は一本一本が丸太のように太い触腕に変わっている。
肌は海水と瘴気を吸ってぬらぬらと光り、肩や頭部には貝殻や魚骨を飾りのように貼りつけていた。
顔は半ば人型でありながら、口元だけは蛸の嘴めいた硬質の顎が覗き、黄色く濁った目が左右別々にぎょろりと動く。
蛸魔人は獲物を見つけても、すぐには飛びかからない。
殻の起伏に身を伏せ、まるで貝そのものの一部になったかのようにじっと待つ。
油断した魚ペンギンが足元を通れば、触腕が鞭のようにしなり、一瞬で絡め取ってそのまま嘴へ運ぶ。
鬼アザラシの幼体すら獲物にするらしく、ときおり殻の上には引きずられた血の筋と、吸盤に削ぎ取られた肉片だけが残されていた。
だが、成熟した鬼アザラシは簡単にはやられない。
蛸魔人が不用意に近づけば、巨体をばねのように跳ね上げて噛みつき、触腕の一本くらいなら食いちぎる。
そのたびに殻の上では、ぬめる黒い体液とどす黒い血が飛び散り、魚ペンギンたちが悲鳴のような甲高い声を上げて海へ逃げ込んでいく。
船の上から見下ろすその光景は、ひとつの小さな生態系だった。
海に浮かぶ巨大な貝が大地となり、その上に魚ペンギンが群れ、鬼アザラシが君臨し、さらにその上を蛸魔人が死の気配のように巡る。
波が揺れるたび、貝の島々もまた静かに上下し、まるで魔界の海そのものが、無数の命を背にうごめいている巨大な怪物の群れであるかのように見えた。
さらに翌日。
船を占拠してから二日で、モラビ草原の近海にたどり着いた。
長く揺れ続けた船は、ようやく浅瀬へと辿り着く。
朝靄の向こうに広がるのは、モラビ草原だった。
どこまでも続く淡い緑の海。
風が吹くたび、草の波が一面に揺れ、陽を受けて白く光る。
黒い海と血の匂いに塗れた船旅の果てに見るには、あまりにも穏やかな光景だった。
船底を擦る音が響く。
船はもうこれ以上進めない。
喫水の深い船は、ここで足を取られていた。
甲板に立つサタンは、静かに前方を見ていた。
二日のあいだに傷は塞がりきらずとも、呼吸は戻っている。
そして何より、空になっていた内側に、ようやく魔力が満ち始めていた。
わずかに指を握る。
「二割程度だな。碌な食事もしてないし、魔力容量も増えた全開するにはまだかかるな」
それだけで十分だった。
後ろでは、縄で拘束されていた魔族の船員たちが、息を呑んでいた。
この二日、彼らは従順だった。
逆らえば殺されると分かっていたからではない。
分かってしまったのだ。
この魔人は、致命的な怪我に加え、魔力もないまま中位魔人級の船長を叩き伏せた。
魔力量は弱小魔人と思ったほどだ。
だが、目の前にいるこの魔人の魔力は、あの戦闘時と比べようもない魔力量だ。
今の状態ですら、上位魔人に届くほどの魔力量だが、とどまることを知らずまだ増え続けている。
もし力を取り戻したなら、何ができるのか。
その事実が、彼らの背筋を凍らせていた。
サタンは振り返る。
「ここまでだ」
低い声が甲板を打つ。
「ここからは船は捨てる。使える物は下ろせ。食料、水、縄、布、刃物。持てるだけ持て」
「ですが、まだ下にサメが……」
奴隷の一人が船縁から巨大な黒い影を見下ろす。
ずいぶん浅瀬に来たというのに巨大なサメがまだ船についてきている。
「問題ない。少し待て」
サタンは体内の魔力を練り上げる。
「今ならいけそうだな……“黒雷”」
サタンの指から黒い稲妻がほとばしる。
轟音とともに、空気を裂いた稲妻は、周囲の浅い海面を一瞬で蒸発させ、巨大ザメはその身を焼いた。
海の空白に海水が流入する。
「なんて魔法だ」
「一撃で……」
「よし、邪魔者はいなくなった。降りるんだ」
誰も逆らわない。
人間たちも、魔族の船員たちも、言われた通りに動き始める。
片目の男が浅瀬へ飛び降り、膝まで水に浸かりながら岸へ向かう。
若い男も続いた。
女たちが荷を抱え、老人たちが支え合いながら降りていく。
海は冷たく、足元の砂はぬかるみ、何度もよろめく者がいた。
それでも、誰も文句を言わなかった。
陸だ。
それだけで十分だった。
全員が浜へ上がったのを見届けてから、サタンは最後に船へ目を向けた。
奪った船だ。
命を繋いだ船でもある。
だが、ここで残すわけにはいかない。
魔族の追手に使われる。
この場所を示す目印にもなる。
サタンは掌を船へ向けた。
「“黒炎”」
黒い魔力が静かに滲み、次の瞬間、船腹の内側から炎が走った。
ぼっ、と低い音がする。
乾いた帆布が燃え上がり、油の染みた木材が赤く舌を伸ばす。
火はあっという間に広がり、甲板を舐め、帆柱を這い上がった。
黒煙が朝の空へ昇っていく。
魔族の船員の一人が、喉を鳴らした。
怯え切った目でサタンを見る。
サタンを船へと引きあげた者だ。
引き上げたときや船長と戦った時とまるで別次元の生き物だ。
あの時は、ボロボロで魔力をほとんど感じなかった。
しかし、今目の前にいる魔人は、上位魔人のような魔力を有している。
しかも、まだ怪我は治っていないところや魔力の上昇率を見るに、まだ前回ではないのだろう。
その状態でここまでの力を持つとは……。
サタンはその視線を一瞥しただけだった。
「逃げたいなら逃げろ」
その声には熱も冷たさもなかった。
「だが次に人間狩りの船へ乗るなら、その時は殺す」
船員たちは青ざめ、うつむく。
誰もその場を動けなかった。
船が燃え落ちていく。
もう後戻りはできない。
海風が草原の匂いを運んできた。
潮の臭いよりも薄く、青く、柔らかい香りだった。
サタンは人間たちを見渡した。
痩せ細り、傷を負い、まだ怯えは消えていない。
だが、船底で絶望に沈んでいた時とは違う。
全員、自分の足で地面に立っていた。
「行くぞ」
サタンが言う。
「人間の町を目指す。まずは壁と水と食料だ」
その言葉に、何人かの顔が明るくなった。
ようやく終わる。
ようやく助かる。
そう思ったのだろう。
だが、その列の後ろから、重い声が上がった。
「……無理だ」
足が止まる。
声を出したのは、中年の男だった。
日に焼けた顔に、疲労と諦めが深く刻まれている。
その隣で、女が唇を噛みしめていた。
「町には入れない」
男は続けた。
「俺たちは、もう普通の人間じゃない」
若い男が眉をひそめる。
「何言ってんだ。助かったんだぞ」
「助かったからって、戻れるわけじゃない」
男は自分の首元をめくった。
そこには、焼き印のような痕があった。
黒ずみ、皮膚が盛り上がり、不気味な文様を刻んでいる。
それを見た瞬間、何人もの顔色が変わる。
片目の男が低く呟いた。
「……烙印か」
空気が重く沈む。
「烙印?」
若い男が聞き返す。
今度は老人が答えた。
「魔人が奴隷につける印だ」
その声はひどく苦かった。
「所有を示す印であり、追跡の印でもある。あれをつけられた人間は、魔人にとって“自分の物”だ。逃げても奪い返しに来る」
女が震える手で、自分の肩を押さえた。
そこにも、同じ痕があった。
「町の人間は知ってるの」
彼女は掠れた声で言う。
「烙印持ちを匿えば、魔人が来るって。だから入れてくれない。門前で追い返されるか、最悪……捕らえられ、引き渡される」
「そんな……人間同士なのに……」
誰も言葉を発せなかった。
草原の風だけが吹いていた。
さっきまで穏やかだった景色が、急に遠く感じられる。
助かったと思った。
だが、違った。
海から上がっただけで、まだ生きる場所はどこにもなかったのだ。
若い男が吐き捨てるように言う。
「じゃあ、どうしろってんだよ。野垂れ死ねってのか」
「そういう話じゃない」
片目の男が低く返す。
「現実を言ってるだけだ」
「ふざけるなよ!」
若い男の声が荒れる。
「ここまで来て、また追われるのか!?」
その怒声に、子どもが泣き出した。
女たちが慌てて抱き寄せる。
場の空気が荒れ始める。
サタンは黙って全員を見ていた。
絶望は、人を沈黙させるだけではない。
今度は怒りとなって噴き出そうとしている。
ここで割れれば終わる。
「騒ぐな」
一言で、空気が止まった。
サタンは、烙印を見せた男へ視線を向ける。
「その印はどこまで追える」
「詳しくは分からない……だが、魔人は自分の印を辿ることがある。距離が近ければなおさら」
「消せるか」
「聞いたことがない」
サタンは目を細めた。
厄介だな。
ただの傷ではない。
呪術に近い。
しかも、町が拒絶する理由としては十分すぎる。
人間たちはサタンを見ていた。
答えを待っているのではない。
この現実を、どう裁くのかを見ている。
サタンは少しだけ海の方を振り返った。
燃える船。
静かに波が打ち寄せる浜。
水場になりそうな低地。
流木。
魚の獲れる海。
生きるだけなら、不可能ではない。
「なら町には行かない」
その言葉に、ざわめきが走る。
サタンは構わず続けた。
「少なくとも、今はな。門を叩いて拒まれれば、食料も時間も体力も失う。追手を呼び込むだけだ」
片目の男が黙って頷く。
「じゃあ、どうするんだ」
若い男が唸るように言う。
サタンは海辺を見渡した。
「ここに作る」
皆が息を呑む。
「村をだ」




