131 魔人と人間奴隷の村づくり
サタンの声は静かだった。
「小さくていい。まずは雨風をしのぐ場所、水、火、見張り台。魚を獲り、草原で獣を探し、畑を試す。追手が来るなら迎え撃つ。町に頼れないなら、町になるしかない」
誰もすぐには返事をしなかった。
あまりに突飛で。
あまりに重く。
そして同時に、あまりに現実的だったからだ。
老人がぽつりと言う。
「……村を、作る」
女が呆然と繰り返す。
「私たちで?」
「他に誰かいるか?」
サタンは短く返した。
「海がある。草原がある。木材も、燃え残りから取れる。船員どもは操船だけじゃない。縄の結びも、道具の扱いも知っている。使える奴は使う」
その言葉に、魔族の船員たちがびくりとした。
サタンは彼らを見た。
「魔族のお前達、選べ」
その目は冷たい。
「ここで働いて生きるか、手を縛られたまま草原に放り出されて死ぬか」
答えは決まっていた。
船員たちは震えながら頷くしかない。
人間たちの間にも、少しずつ空気が変わっていく。
絶望ではない。
戸惑いと、不安と、まだ形にならない希望。
片目の男が一歩前へ出た。
「俺はやる」
日に焼けた顔の皺が深くなる。
「町に戻れねえなら、なおさらだ。奪われねえ場所を作るしかない」
老人も頷いた。
「わしは道具の修繕ができる」
女が子どもを抱いたまま口を開く。
「火を起こせる。魚の内臓も捌ける」
若い男は不満げに舌打ちしたが、やがて吐き出すように言った。
「……柵作りくらいならやる」
声が少しずつ重なっていく。
水場を探せる者。
網を編める者。
草を束ねられる者。
傷の手当てができる者。
木を切れる者。
何も持たないと思っていた者たちが、ひとつずつ自分の“できること”を差し出し始める。
サタンはそれを聞きながら、静かに頷いた。
「それでいい」
そして海辺の少し高い場所を指差す。
「まずはあそこだ。見晴らしがいい。波からも離れている。仮小屋を作る。見張りを立てる。日が落ちる前に火を確保しろ。最初の食事だけは俺が捕ってこよう」
燃える船の残骸の向こうで、波が繰り返し砂浜を洗っている。
モラビ草原の風が、長く草を鳴らした。
誰のものでもない浜辺。
追われた者たちだけが立つ場所。
帰る町を失った者たちが、初めて自分の手で作る土地。
その始まりに、サタンは立っていた。
「これから、働いて、働いて、働いてもらう。だが、それは誰かのための奴隷労働ではなく、おまえ達自身のために」
低い声が響く。
「ここを生き残る場所に変える」
その言葉とともに、人々は散った。
ある者は流木を拾いに。
ある者は水場を探しに。
ある者は食料を探しに。
海辺にはまだ何もない。
家も、畑も、柵も、井戸もない。
だがその日、何もない場所に初めて意志が刻まれた。
逃げ延びた者たちの仮宿ではない。
追われた者たちの隠れ家でもない。
それは、奪われた人間たちが自ら築く、最初の村の始まりだった。
村作りが始まって三日目の朝だった。
海風はまだ冷たく、仮小屋の骨組みは粗末で、地面には踏み固められた道すらない。
それでも、人の動く音がこの浜辺に根づき始めていた。
広場の中央には、巨大なイリエワニゴリラの骨。
この周辺の凶暴なエリアボスだったようで、鋭い牙と腕力の攻撃は強烈だ。
サタンが初日に奴隷や魔人のために捕った獲物だ。
鶏肉より味が濃く、魚のような不思議な味がした。
流木を運ぶ者。
網を干す者。
火を絶やさぬよう灰をかき回す者。
傷ついた体を引きずりながらも、誰も手を止めてはいなかった。
その中心から少し離れた、浜辺と草原の境目。
サタンは一人、静かに立っていた。
足元には、黒い線が細く刻まれている。
砂の上だけではない。
岩にも、流木にも、地中にも、見えぬ形で術式を這わせていた。
片目の男が後ろからその様子を見て、低く問う。
「柵でも作るのですか?」
「違う。もっといいやつだよ」
サタンは少し笑みを浮かべ答えながら、指先を地に触れさせる。
じわり、と黒い波紋のようなものが広がった。
「これは壁じゃない。呪いを退けるための結界だ」
その言葉に、近くにいた何人かが顔を上げる。
烙印を持つ者たちは、特に強く反応した。
サタンは視線を上げずに続けた。
「物理的な侵入を防ぐものではない。人も魔人も魔獣も通る。だが結界の内側にいる限り、追跡の呪いは鈍る。少なくとも、烙印を辿って位置を探る類の術は、ほぼ拾えなくなる」
女が息を呑んだ。
「それって……」
「ああ」
サタンは短く答える。
「ここにいる間は、奪い返しの術者の目をかなり誤魔化せる」
ざわめきが走る。
烙印を持つ者たちにとって、それはただの術ではなかった。
初めて与えられる安心して休める場所だった。
初老の男が信じられないものを見るように呟く。
「そんなことができるのか……」
サタンは淡々としていた。
「追跡を断つのではない。その印から外へ漏れる呪いの気配を散らし、感知される流れを乱す。さらに呪印そのものを少し浄化する。完璧じゃないが、何もないよりは遥かにましだ」
本当は、それだけでも異常だった。
半径数キロ。
村だけでなく、周囲の草原や海辺まで含めて覆う規模。
普通の術者なら、張っただけで膝をつき、維持するだけでも魔力を喰い潰される。
だがサタンは、地脈と海気の流れを噛ませるように術を組んでいた。
ヤマタノオロチの魂を喰らい得た、より高次元の自然力を扱う能力。
自然力を得て感じる大地と空の気の流れ。
大半を土地そのものに回させ、自分の消費は最低限に抑えている。
黒い術式が、村を中心にゆっくりと広がっていく。
見えない膜ではない。
空気が変わるわけでもない。
ただ、結界が完成した瞬間、烙印持ちの何人かが思わず肩を軽く押さえた。
「……軽い」
中年の男が呟く。
「ずっと焼けるみたいに疼いてたのに……」
女も、自分の肩の印を押さえながら目を見開いた。
「熱が引いてる……」
サタンは立ち上がった。
「結界内では、烙印の反応がかなり抑えられる。呪いの探知も通りにくい。消費も少ないから、しばらくは維持できる」
片目の男が眉を上げる。
「しばらく?」
「3年だ」
「3年……」
その一言には、妙な現実味があった。
永遠に守る、とは言わない。
だが今は守れる。
それだけを確かに言った。
村の空気が、目に見えて変わる。
張り詰めていた不安の糸が、少しだけ緩んだ。
若い男が信じきれない顔で言う。
「じゃあ……ここなら、本当に追手に見つかりにくくなるのか」
「少なくとも、烙印を手掛かりに一直線に来ることは難しくなる」
サタンは草原の向こうを見た。
「無論、足跡や煙や物見で来る奴はいる。だから見張りも柵も必要だ。だが“呪いだけで見つかる村”ではなくなる」
それは、この場にいた全員にとって大きかった。
追われる側から、備える側へ。
立場がわずかに変わる。
「術式から見て、下位魔人級のシャーマンだろう。3年の間に力を蓄え、自身の力で戦うか、傭兵を雇うか選択すればいい」
「あ、あんた。その魔人を倒してくれよ」
サタンが発言した奴隷を見る。
七色の瞳がその眼を捉える。
奴隷は、ハッとした顔となり、プルプルと震えだした。
「……甘えるな。俺はお前らの親じゃない」
「そうじゃぞ!お前、なんということを……!!このお方にそこまでしていただくなど厚かましすぎるぞ」
「そうだ!感謝こそすれど、これ以上お世話になるわけにはいきません!今度は俺たちが恩返しする番だ!」
他の奴隷が一斉に声をあげ、非難する。
「も、も、申し訳ありません!!!」
「……いいか、よく覚えておけ。魔人に頼み事をするときは物言いに気を付けろ。今後のためにもな」
サタンは周囲の元船員の魔人たちを見る。
「は、はい!!私はどうなっても構いませんので、他の人を殺さないでください!!」
発言した奴隷は地にひれ伏し、許しを請うた。
……他の者を殺さないでください……か。
人間らしい。
サタンは唇をゆがめ、笑みを浮かべる。
サタンとしては悪意など無い笑みだが、その笑みに恐れおののく人間。
「ヒィ」
「なにとぞ、お怒りをお鎮めください!」
人間と魔族の理解はもう少し時間が必要だ。
その日の夕方。
仮小屋が増え、火床が三つに分けられ、魚を干すための木組みも立ち始めた頃。
サタンは、元船員の魔人たちを浜辺へ呼び出した。
夕陽が海を赤く染めている。
燃やした船の残骸はすでに黒く崩れ、波に洗われていた。
魔人たちは緊張した面持ちで並ぶ。
誰も目を合わせようとしない。
この数日、彼らは人間たちに混じって復旧作業を手伝わされていた。
水を運び、木を切り、縄を結び、道具を直す。
抵抗できなかったのもある。
だがそれ以上に、サタンの視線が彼らを縛っていた。
「恐怖で縛るのは好かんな。……おい、魔人たち集まってくれ」
サタンは彼らを見渡し、簡潔に言った。
「お前たちに選ばせる」
魔人たちが顔を上げる。
「3つだ。ひとつ、インドラの森。俺の本拠地へ行く」
その名が出た瞬間、何人かの肩がびくりと震えた。
「もうひとつ、この場を離れ、どこへでも行く。だがその場合はお前らの居場所を分かる呪いをかける。奴隷船に乗っていたら……分かるよな?」
ざわめきが起きる。
解放。
その言葉の意味が、すぐには飲み込めないようだった。
片目の魔人が恐る恐る問う。
「……ここに残れ、とは言わないのか」
「それは3つ目だ。だが強制はしない」
サタンの声は平坦だった。
「条件付きで歓迎はする」
魔人たちは黙る。
サタンは海辺の村を一瞥した。
粗末な小屋。
乾ききらぬ網。
魚の匂い。
まだ何もない土地。
だがその先を見ている目だった。
「この村は、いずれインドラの森との交易地にする」
人間たちの間にも静かなざわめきが広がる。
「海産物は森にない。魚、塩、貝、乾物、油。ここで取れるものは価値になる。逆に森からは木材、薬草、魔獣皮、魔鉄を回せる」
老人が小さく息を吐く。
ただ生き延びるための集落ではない。
村として続けるための形を、この魔族のお方は最初から見ているのだと分かったのだ。
サタンは元船員たちに目を戻した。
「インドラのために働く者は歓迎する。航海を知る者、縄を扱える者、船を直せる者、潮を読める者は特にな」
(本当はそなたが海鮮を食べたいだけだろ?)
ルシファーがサタンの心に問いかける。
以前より口調がラフになった気がする。
(ああ、やはり海の幸もうまいしな。新鮮であればあるほどうまい。となれば、こいつらを調達係にした方が効率的だと思ってな)
若い魔人が戸惑ったように言う。
「俺たちを……使うつもりか」
「それはお前たち次第さ。だが協力してくれるのであれば損はさせない」
サタンは即答した。
「使い潰しはしない。働いた分は食わせる。役目も与える。インドラや自分の使命を裏切れば殺す。それだけだ」
そのあまりに明快な言葉に、かえって魔人たちは押し黙った。
魔界は弱肉強食。
単純明快な摂理で生きていく者には、単純な説明が一番だ。
曖昧な慈悲ではない。
偽善でもない。
だが、居場所としては十分に具体的だった。
「インドラの森へ行く者は、森での仕事を与える」
サタンは続ける。
「船の扱いを教える役でもいい。海辺との往来役でもいい。ここに残りたくないなら、好きに去れ。ただし奴隷狩りに戻るなら次はない」
赤い夕陽の中、沈黙が落ちた。
しばらくして、一人の年老いたの魔人が前に出た。
日に焼けた顔、節くれだった手。
おそらく船大工か何かだったのだろう。
「……俺は残る」
低い声だった。
「船しか知らん。海辺で働けるなら、そのほうがましだ」
続いて別の者が口を開く。
「俺は森に行く。海はもう懲りた」
「俺もだ」
「俺は……ここで船を作れるなら、やる」
一人、また一人と意思を示していく。
もちろん、怯えは残っている。
サタンへの恐れも消えてはいない。
だが恐れだけではない。
生き延びるための道を、初めて自分で選ぼうとしていた。
人間たちはその様子を少し離れて見ていた。
憎しみが消えたわけではない。
船で鞭を振るった者もいただろう。
仲間を蹴った者もいたかもしれない。
だが今は、村を作る段階だ。
敵を増やすより、使える手を増やしたほうが生き残れる。
そして、あの助けてくれた魔人の利とならなければ、自分たちは終わると肌で感じていた。
……その現実を、皆が理解し始めていた。




