128 奴隷船の船長
若い男はまだ不満そうにしていたが、それでも口を閉ざしはしなかった。
女も、老人も、周囲にいた者たちも、少しずつ身を寄せる。
サタンは鎖に繋がれたまま、その輪の中心にいた。
まだ名乗らない。
まだ正体も明かさない。
ただ、一人の奴隷として、しかし自然にそこに軸を作っていく。
甲板の上では、見張りたちの笑い声がまだ続いていた。
船の外では、巨大鮫たちが死肉の匂いを求めて、黒い海を回遊している。
港へ着けば、待っているのはベルゼブブの地と戦場。
どこにも救いはない。
だからこそ、この船底で今、初めて本当の意味で反乱が始まろうとしていた。
「お前たちを生かしたまま、この船をひっくり返してやる。ただしやるのはお前たちの手でだ」
その声は低く、静かだった。
「も、もちろんだ」
「それで、この船の情報を教えてくれ」
片目の男が低く口を開いた。
「見張りは船底の入口に二人、階段の上に一人。甲板には五、六人だ。だが夜は酒が入って緩む。牢番の太った男が鍵束を持ってる。よく階段の途中で居眠りしてる」
「武器は」
「武器庫の整理に行ったとき、少しだけ、見えた。曲刀、短剣、手斧、鞭。船長格だけ魔剣を持ってる」
女も続けた。
「厨房は甲板の奥。包丁、鉈、熱湯、火がある。配膳のかたずけに行った時に見かけたわ」
「縄は船倉だ」
片目の男は言う。
「積み荷固定用の麻縄が山ほどある」
若い男が顔をしかめる。
「武器があっても、上にはあいつらがいる。こっちは鎖付きだぞ」
サタンは淡々と言った。
「だから分析する。敵の強みは武器、体力、甲板を押さえていること。だが弱みは慢心と統制の甘さ、それにこの船の狭さだ。階段も通路も細い。数で押し込めない。先頭から潰せる」
その声に、船底の空気が静まる。
「こっちの強みは?」
若い男が聞く。
「まずは数だ。船員の数に対して、奴隷の数は約10倍。女子供もいるから実際戦える者は5倍程度。4、5人で1人の相手をし、静かに襲い掛かれ」
「港に着けば終わりだ。なら命惜しさで鈍る必要がない。それに、お前たちは役に立つ」
サタンは周囲を見回した。
戦える者、縄を運べる者、手当てのできる者、厨房を覚えている者、船を少しでも動かせる者。
一人ずつ確認し、役目を割り振っていく。
「反乱は五段階だ。第一に牢番を誘い出して鍵を奪う。第二に戦える者から鎖を外す。第三に階段を押さえて、降りてくる敵を詰まらせて潰す。第四に縄と武器を確保。第五に厨房を取る。熱湯は武器になる」
老人が渋い顔をした。
片目の男がうっすら笑う。
各々思いはあるだろうが、計画の実行に集中してもらう。
若い男が問う。
「最初の鍵はどう取るんだい?」
「誰かが倒れろ。死にかけに見せるんだ。売り物が死ぬと思えば牢番は降りてくる。そこを階段脇で押さえ込む。叫ばせるな。鍵束を奪え」
短い沈黙の後、片目の男が言った。
「……俺がやる」
「俺もだ!」
若い男が続く。
サタンは頷いた。
「力の強いお前たちが先鋒だ。とても危険な役割だが、臆すればすべて水の泡になる。しっかりな」
さらに低い声で告げる。
「海には飛び込むな。鮫がいる。この船を取るか、この船の上で死ぬかだ」
その言葉に、誰も反論しなかった。
やがて役目が決まる。
倒れる役は痩せた青年。
騒ぎを作るのは女たち。
片目の男と若い男は階段脇に潜む。
縄の確保、負傷者の移動、武器の回収、舵取りを守る者。
すべてが静かに割り振られていく。
老人がサタンを見る。
「お前は何者だ。魔人であることは、なんとなく分かるが……」
サタンは答えなかった。
「今はどうでもいい。大事なのは、お前たちが何をするかだ」
その一言で、全員が黙った。
やがて甲板の上から笑い声が落ちてくる。
酒瓶の転がる音。
重い足音。
夜番が緩む時間だった。
「来るぞ」
片目の男が囁く。
船底の空気が、一瞬で張り詰める。
青年が床に倒れ込み、苦しげに息を乱す。
女たちが駆け寄り、声を上げた。
「誰か来て!早く!この人が死んじゃう!」
すると牢番が駆け付け声を荒げる。
「おい!誰か!早くしろ、こいつは高値で売れるんだ。売り物が駄目になる!」
続いて、鍵束の鳴る音。
ちゃり、ちゃり、と金属が揺れた。
暗闇の中で、サタンの目が細くなる。
「――始めろ」
その瞬間、船底の反乱が静かに動き出した。
反乱は、咆哮ではなく沈黙から始まった。
痩せた青年が倒れ、女たちが騒ぎ、苛立った牢番が階段を下りてきた瞬間、片目の男と若い男が闇から跳んだ。
太い首に腕を巻きつけ、口を塞ぎ、膝裏を払う。
鈍い音を立てて牢番が崩れ落ちる。
短いもがき。
それで終わりだった。
鍵束が奪われ、鎖が外れていく。
だがサタンは最初に立ち上がらなかった。
人間たちを先に解き放ち、先鋒を作る。
彼ら自身の手で失われた自由を奪わせるためだ。
「四人で一人を落とせ」
サタンは低く命じた。
「声を出させるな。殺すな。船を動かす頭数は残せ」
解放された者たちは、震える手で縄を握り、転がっていた鉄片や木片を拾う。
片目の男が先頭に立ち、若い男がその横に並ぶ。
その背に、恐怖と覚悟が同時に張りついていた。
階段を上がる。
人影。
軋む木の音すら殺すように、ゆっくりと。
甲板へ続く薄暗い通路には、酒の匂いが満ちていた。
見張りの一人が壁にもたれて欠伸をしている。
その背後、闇が揺れた。
サタンが、わずかに目を細める。
残っている魔力は、底をついていた。
まともな魔法を何発も使える余裕はない。
だが、一度だけなら。
一度だけなら、この船の闇を利用できる。
指先に、かすかな黒い燐光が宿る。
次の瞬間、通路の奥で人影が揺れた。
「……誰だ?」
見張りが顔を上げる。
そこにいたはずのない影。
逃げるように曲がり角へ消える人影。
見張りの意識が、ほんの一瞬だけ逸れた。
その一瞬で十分だった。
四人が一斉に飛びかかる。
口を押さえ、腕を絡め、足を刈る。
見張りは声も上げられぬまま床へ沈み、後頭部を軽く打って気を失った。
縄が巻かれ、猿轡をし、暗がりへ引きずられる。
「次だ」
同じことを、もう二度、三度と繰り返す。
一人を見つける。
サタンが闇の端に幻を揺らす。
敵の視線が流れる。
その隙に四人が無音で押し倒す。
夜風の吹く甲板の上でさえ、反乱はまだ叫びにならなかった。
船員たちは、一人ずつ、闇夜に喰われるように消えていく。
殺してはいない。
顎を打ち、首を締め落とし、縄で縛り、猿轡を噛ませる。
操舵輪を回せる者、帆を扱える者、海を読む者。
それらを無闇に減らす愚は犯さない。
やがて甲板の一角がこちらの手に落ちた。
黒い海が、船縁の向こうで粘つくように揺れている。
遠くでは巨大鮫の背びれが月明かりを裂いていた。
「まだ騒ぐな」
サタンが囁く。
「狙いは船長だ」
しかし、その時だった。
甲板中央で、船長の怒声が夜を裂いた。
「何をしていやがる!」
酒気混じりの怒号ではない。
修羅場を踏んだ獣の声だった。
大柄な魔人だった。
片眼に古傷を持ち、肩幅は並の人間の倍はある。
魔力量から推定するに、下位魔人か中位魔人くらいだろう。
普段のサタンならばとるに足りない相手だっただろう。
しかし、その手には、一振りの剣があった。
剣、というには禍々しすぎた。
刃は黒く鈍く濁り、血管のような赤い筋が脈打っている。
握られた瞬間から、周囲の空気がざらつく。
魔剣だった。
「……商品風情が」
船長が剣を一閃する。
ぶおん、と重い風切り音がした次の瞬間、突っ込んだ男が二人まとめて吹き飛んだ。
斬られたのではない。
剣圧だけで薙ぎ払われたのだ。
板壁に叩きつけられ、うめき声が漏れる。
若い男が叫ぶ。
「化け物かよ……!」
船長は嗤った。
「殺しはしねえ。てめえらは売り物だ」
魔剣を肩に担ぎ、ゆっくりと歩く。
「だが見せしめは必要だな。手の指2、3本、切り落としても値はつく」
片目の男が飛び込む。
低く潜り、足を狙う。
動きは鋭かった。元傭兵の技だ。
だが船長は魔剣の柄でその肩を殴りつけ、容赦なく甲板へ転がした。
「グッ」
「遅ぇ」
さらに女の悲鳴が上がる。
船長はあえて殺さない。
だからこそ質が悪い。
殺すのではなく、反乱の意思を折るために剣を振るっている。
人間たちの士気が、目に見えて軋んだ。
その時。
「そこまでだ」
低い声が、甲板の闇を貫いた。
船長が顔を上げる。
人間たちも息を呑む。
そこに、サタンが立っていた。
刀も武具も何もない。
だが、その全身を薄い闇の魔力が纏っている。
黒煙のように揺らめくそれは弱々しくも見えたが、ただの人間ではないと示すには十分だった。
船長の目が細まる。
「……てめえか。鼠どもの頭は。……拾った恩をこんな形で返されるとはな……」
サタンは答えない。
その視線は、ただ魔剣へ注がれていた。
厄介だ、と一目で分かる。
刃そのものに呪いの風が宿っている。
ただ斬るだけの武器ではない。
振るうたび、周囲の空気を乱し、間合いを狂わせる類の代物だ。
「面白ぇ」
船長は魔剣を構えた。
「商品にしちゃ、目が死んでねえ。一方的に壊すのも飽きていたところなんだ」
次の瞬間、踏み込み。
速い。
巨体に似合わぬ速度で間合いを詰め、魔剣が斜めに走る。
サタンは紙一重で身を沈めた。
刃は避けた。
だが、その周囲に纏う圧が肩を掠め、肌が裂ける。
熱い。
ただの斬撃ではない。
触れてもいないのに、魔力そのものを削る感覚があった。
サタンの現状を考えるに最悪の相性の獲物だ。
サタンは即座に踏み込み返し、拳に薄い魔力を纏わせて船長の脇腹を狙う。
一撃。
鈍い衝撃音。
だが船長は笑った。
「軽いな」
「仕込み鎧か」
船長は服の下に薄手の鎧を着ていた。
これも魔剣に劣らず、呪われた風が宿る鎧だ。
肘打ちが返ってくる。
サタンは腕で受けたが、そのまま数歩滑らされた。
甲板が軋む。
船長の剣が再び唸る。
今度は横薙ぎ。
サタンは飛び退くが、魔剣の刃から滲んだ黒赤い波が床板を抉った。
板がめくれ、木片が散る。
人間たちが息を呑む。
サタンもまた、内心で舌打ちした。
魔力が足りない。
本来の力なら軽く押し潰せる。
だが今は違う。
幻影に最後の余力を使い、残っているのは身体と最低限の動けるだけの魔力。
正面から捻じ伏せるには、あまりにも心もとない。
それでも、退かない。
船長が嗤う。
「どうした。勇ましく出てきたわりには、大したことねえな」
サタンは地獄でくらった傷口が大きく裂ける。
服が血で染まり始める。
「うるさいな」
静かに、足を開き構える。
呼吸を落とす。
魔剣の癖を読む。
振りの重さ。
踏み込みの方向。
剣圧が膨らむ瞬間。
一撃で決めるしかない。
だがその前に、もう少しだけ時間がいる。
サタンは視線を動かさぬまま、背後の人間たちへ低く言い放つ。
「見てろ。まだ意思は折るな」
その声は短い。
だが、不思議と全員の耳に届いた。
「こいつを止めれば、船は落ちる」
船長が魔剣を肩に担ぎ、不敵に笑う。
「やってみろよ、奴隷」
黒い海の上。
鮫の影が巡る闇夜の甲板で。
反乱軍の息を背負い、サタンは魔剣使いの船長と真正面から対峙した。
船長の魔剣が唸る。
黒赤い刃が、夜気ごと薙ぎ払った。
サタンは半歩踏み込み、紙一重で身をひねる。
頬の皮が浅く裂け、血が散る。
だが、その懐へ入った。
拳を打つ。
狙いは喉。
人間相手なら、それで十分に沈む一撃だった。
だが、船長は嗤ったまま、その拳を左手で掴み取った。
「遅ぇ」
握力が骨まで軋ませる。
次の瞬間、魔剣の柄頭がサタンの脇腹へめり込んだ。
鈍い音。
肺の中の空気が一気に押し出される。
サタンの体がくの字に折れた。
そこへさらに蹴り。
重い一撃が腹を捉え、サタンは甲板の上を滑って転がった。
地獄で受けた深い傷口が開く。
血液とともに魔力も流出する。
背中が船縁近くの板にぶつかり、止まる。
「あんた!!もうやめよう。その傷じゃ、死んじまう」
誰かが叫ぶ。
だがサタンは返事をしない。
口の端から血を垂らしながら、ゆっくりと立ち上がる。
船長は魔剣を肩に担ぎ、鼻で笑った。
「終わりか?」
一歩、また一歩と近づいてくる。
「さっきの威勢はどうしたよ」
サタンは息を整える。
浅い。
肺が痛む。
肋骨も一本、嫌な音を立てていた。
魔力を練ろうとしても、何も返ってこない。
底だ。
幻影で使い切った。
身体強化に回す分さえ、もう残っていない。
ただの肉体。
傷ついた肉体だけが、そこに残されていた。
船長はそれを見抜いたのか、口元を歪めた。
「なるほどな。元々手負いか……その致命的な傷で喧嘩売ったことは褒めてやる」
魔剣の切っ先を向ける。
「動けるのが不思議なくらいだ。」
人間たちの顔に、再び恐怖が走る。
支えだったものが崩れたと思ったのだ。
船長はわざと彼らに見せつけるように、サタンへ歩み寄る。
「見せしめにはちょうどいい」
その目が獣のように細まる。
そこへ魔剣の切っ先が喉元へ突きつけられる。
「終わりだ」




