127 奴隷の反乱の兆し
サタンは薄闇の中で、その会話を聞いていた。
魔人ベルゼブブ。
その名が出た瞬間、瞳の奥にわずかな光が宿る。
「……ベルゼブブか」
こんな状態でなければ、こんな船ごと一息で焼き払っていた。
この程度の鎖も、見張りも、船も、何もかも紙のように引き裂けただろう。
だが今は違う。
地獄で受けた傷。
地獄門の生成。
リバイアサンの攻撃を正面で受け消耗しきった身体。
ほぼ空っぽの魔力と神力。
今は戦えない。
しかし、この船が目的地にたどり着く前に起こることは、もう決まりつつあった。
空腹。
理不尽な暴力。
売られた先に待つ戦場。
絶望しかない未来。
積み重ねられた絶望が、ようやく反乱という形を取り始めている。
サタンは鎖に繋がれた手首をわずかに動かし、鉄の感触を確かめた。
薄く、口元が歪む。
ごく小さな声が、暗がりに溶けた。
「こいつらを焚きつける理由としては十分だ」
その時だった。
船底の奥、積まれた樽や木箱の陰から、ひそひそと囁き声が聞こえた。
弱々しいものではない。
押し殺してはいるが、明確な意志を持つ声だ。
サタンは目だけを動かした。
灯りの届きにくい一角に、数人の奴隷たちが集まっていた。
見張りの死角を選び、互いに顔を寄せ合っている。
その表情は怯えだけではない。
緊張と、怒りと、追い詰められた者特有の硬さがあった。
「次の見張り交代の時だ」
「武器は?」
「厨房の鉄串を二本。あと、壊れた枷の金具が一つ。掃除用のブラシが5本。ただ……厨房や武器庫に侵入出来れば、きっと武器になる物はある。」
「足りない……だが、やるしかない」
「このまま港に着けば終わりだ。売られれば二度と逃げられない」
反乱の相談だった。
誰かが見張りを殺し、誰かが鍵を奪い、誰かが上へ出る。
ただの人間が……それも栄養失調で体力も落ちている人間が、下位とは言え魔人を倒す成功率は低い。
あまりに低い。
それでも、座して売られるよりはましだという覚悟が、その小さな輪の中にはあった。
サタンは黙ってそれを聞いていた。
鎖に繋がれたまま、薄闇の中でゆっくりと目を細める。
今にも潰されそうな小さな反乱。
「さて、俺はどうしたもんかな……」
サタンは独りごちる。
ゴリゴリゴリ。
「……なんの音だ?」
その場にいた何人かが、顔をこわばらせた。
船底の暗さの中でも分かるほど、血の気が引いている。
その沈黙の外側で、船がゆっくりと大きく揺れた。
水を切る音ではない。
船腹に何か大きなものが擦れたような、ぬるりとした感触を伴う揺れだった。
ぴたり、と会話が止まる。
誰もが耳を澄ます。
すると、甲板の上から男たちの笑い声が聞こえた。
「また来やがったな」
「今日は腹減らしてるぞ、あいつら」
「さっき捨てた生餌じゃ足りなかったか。まだ奴隷の死体あったかな。」
その言葉に、樽の陰にいた奴隷たちの顔色がさらに悪くなる。
若い男が、唇を引きつらせながら囁いた。
「……いるのか、また」
片目の男が低く答える。
「ああ。船の周りを回ってる」
喉を鳴らし、続けた。
「魔界の鮫だ。でかいやつが何匹もな」
サタンは黙ったまま、その言葉を聞いていた。
別の奴隷が、震える声で口を挟む。
「俺、前の晩に見た……。甲板へ水汲みに引っ張り出された時」
彼は両腕を抱くようにして身を縮めた。
「海面の下に影がいた。船より長い。最初は岩かと思った。でも動いたんだ。目だけが光ってた」
「昨日、足を折られた老人がいただろ」
片目の男が言う。
「朝にはいなくなってた」
「……海に捨てたのか」
「そうだ。生きたままさ。奴らそれを面白がって見てやがる」
誰かが、息を詰める音がした。
「見張りども、売り物にならねえ奴は躊躇なく投げる。死んでても、死にかけてても関係ねえ」
「くそっ!!何のために連れてこられたんだ!?」
片目の男の声は、怒りをにじませる。
「落とされた途端、水が赤くなった。すぐ下にいた鮫が食ったんだ」
「そんな……」
「逃げても同じだ」
今度は年嵩の女が言った。
「泳いで逃げようとした奴が前にいたらしい。鎖を外して海へ飛び込んだ。でも、十も数えないうちに沈んだって」
「沈んだんじゃない」
若い男が首を振る。
「喰われたんだ」
その一言で、船底の空気はまた一段、冷たくなった。
海へ飛び込めば助かる、という最後の逃げ道すら、この船では用意されていない。
見張りの鞭を逃れて甲板まで辿り着けたとしても、その先には魔界の海があり、船の周囲には死肉の臭いを覚えた巨大鮫が何匹も群れている。
奴隷を逃がさぬために鎖があり、鎖を破っても海がある。
そして海そのものが、牙の檻になっていた。
「じゃあ、やっぱり……」
若い女が唇を噛んだ。
「やるしかないんだね。ここで」
「港に着く前に、な」
片目の男がうなずく。
「上で殺る。見張りを減らして、鍵を取って、船を奪う」
「船なんて操れない」
「操れなくてもいい!」
別の男が、押し殺した声で吐き捨てた。
「このまま売られるくらいなら、暴れて死んだ方がましだ!」
痩せた老人が強くいさめる。
「成功したとしても漂流して、皆餓死するか、魔物に襲われるか、嵐に合って転覆するぞ」
「声を抑えろ」
片目の男が低く制する。
「見つかったら終わりだ」
だが、その終わりは、もはや誰にとっても遠い話ではなかった。
このままでも終わる。
港に着けば終わる。
戦場へ送られれば終わる。
海へ飛び込んでも終わる。
選べる結末が、どれも破滅しかない。
だからこそ、彼らはわずかな可能性にしがみつこうとしていた。
その時、鎖の音が一つ、暗がりの中で鳴った。
しゃら、と静かな金属音。
「誰だ!?」
樽の陰に集まっていた奴隷たちが一斉に振り向く。
そこに、サタンがいた。
薄暗い油灯の光が、彼の横顔をかすかに照らす。
傷だらけで、海から引き上げられた時の濡れた髪もまだ完全には乾いていない。
だが、その目だけは、この船底の人間たちとは質の違う光を宿していた。
弱っている。
消耗している。
それでもなお、折れてはいない目だった。
片目の男が鋭く言う。
「聞いてたのか」
「聞こえる場所で話していた。もう少し感情を抑えた方がいい」
サタンは淡々と答えた。
「反乱を成功させたいなら、もう少し声を殺せ」
空気が張る。
若い男が警戒を隠さず睨んだ。
「新入りのくせに、ずいぶんな物言いだな」
「新入りだからこそ、よく見えることもある」
サタンは壁に背を預けたまま、集まった顔ぶれを順に見た。
「お前たちは反乱を考えている。だが、焦りだけが先に立っている」
「……何が言いたい」
「その計画……ともいえない突発的な行動では失敗する」
残酷な言葉だった。
だが、樽の陰にいた全員の顔色が変わるには十分だった。
若い男が食ってかかる。
「偉そうに言うな。じゃあ他にどうしろってんだッ!?」
サタンは鎖につながれた手首を軽く持ち上げる。
「だから、感情的になるな。いいか?」
鉄が鈍く鳴る。
「まず確認だ」
低い声で言った。
「見張りは何人いる。夜番の交代は何刻ごとだ。鍵は誰が持つ。武器庫はどこだ。船を動かせる者はいるのか。海へ落ちた場合、本当に鮫がどの位置まで追うのか。そこまで把握してから反乱と言え」
誰もすぐには答えなかった。
図星だったからだ。
怒りと絶望で動こうとしていた。
だが、それは作戦ではない。
飛び込めば死ぬと分かっていても、今いる場所もまた死地だ。
だから前へ出るしかない。
彼らの反乱とは、その程度の、追い詰められた者の噴出でしかなかった。
片目の男が、サタンをじっと見つめる。
「お前……何者だ」
「奴隷に見えるなら、それでいい」
「ふざけるな」
「ふざけてはいない」
サタンはわずかに口元を歪めた。
「今の俺は実際、鎖につながれた売り物だ」
若い男が吐き捨てる。
「なら、黙ってろ。口だけなら何とでも言える」
「俺も同じ運命共同体ってことで協力しようって言っているんだ」
サタンは淡々と返した。
「では聞こう。お前たちの計画で、一番最初に誰が死ぬ?」
その問いに、一同の言葉が詰まる。
「見張りに最初に飛びかかる者だ」
サタンは自分で答えた。
「次に、鍵を奪う前に棒で打たれる者。次に、甲板へ出て海を見た瞬間に足を止める者。最後に、逃げ場のなさ・恐怖心を思い出して動けなくなる者だ」
薄闇の中、誰も反論できなかった。
「反乱をするなと言っているわけではない」
サタンは続けた。
「やるなら、成功率を一つでも上げろ。怒りだけで突っ込めば、ただ死ぬだけだ」
片目の男が低く問う。
「……お前に案があるのか」
「ある」
あまりにも即答だった。
油灯の火が揺れる。
その揺れに合わせるように、奴隷たちの表情もわずかに動いた。
警戒。
不信。
それでも、その瞳の奥に微かな期待が混じる。
この閉じた船底の中で、初めて“どうすればいいか”を口にする者が現れたのだ。
サタンは一人ずつ顔を見た。
痩せこけた男。
恐怖に強張った女。
殴られすぎて目の焦点が合わない老人。
それでもまだ、諦め切れない者たち。
「まず、知っていることを全部出せ」
サタンは低く言う。
「見張りの数、鍵の所在、甲板への階段、厨房、縄、刃物、船室の位置。使えるものは全部使う」
そして、わずかに目を細めた。
「海に鮫がいるならなおさら、船の上で決めるしかない。なら、この船そのものを戦場に変える。だが火は使うな。船員も殺しすぎるな。」
誰も声を出さない。
だが、その沈黙は先ほどまでの絶望の沈黙とは違っていた。
暗闇の中に、張り詰めた集中が生まれている。
片目の男が、ゆっくりとうなずいた。
「……分かった。話す」




